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二人の嘘

2021.12.14 公開 ポスト

#17 丸の内線の車内で、片陵礼子の心臓は高鳴っていた。一雫ライオン

発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。

 

蛭間のことを考えることをやめようと思い始めた礼子。だが……。

*   *   *

──もう、やめよう。

礼子は赤坂見附駅の地下ホームへとつづく階段を下りながら思う。蛭間隆也──あの男のことは瑠花に言われるまでもなく、考えることをやめたい。

あの男を門前で見かけてから、礼子のペースは崩れはじめていた。朝の出勤時間も一時間遅くなった。今日の瑠花との会食も然りだ。礼子は裁判官に任命されてから、夫以外とふたりきりで会食することを自ら禁じていた。裁判官の暗黙の禁止事項に抵触するとまでは言わないが、市民を裁く以上、市民と深く接触してはならないと礼子は思っている。

これを守らぬ裁判官は多い。裁判官といえども人間である。昨今では裁判員裁判の導入により、公判後に市民である裁判員と打ち上げと称して酒を酌み交わす裁判官も存在する。裁判所もその事実をもちろん認識はしている。が、深くとがめない。なぜなら裁判員裁判に参加した市民が、その後によき広報活動をしてくれることを願っているからだ。

「裁判員裁判に参加したけど、よかったよ」「最初は仕事を休まなければいけないと思って二の足を踏んだけど、裁判の仕組みもわかり、とても有意義だった」こんな愚にもつかない肌触りを世間に広めてほしいがために、裁判所は見逃している。礼子はどうかと思う。裁判官は、やはり誰とも深い交流など持つべきではない。

それがどうした──。

今日は瑠花とふたりきりで会ってしまった。こんなことは初めてであった。瑠花と最後に会った三年前も、司法修習生時代の同期会だ。いちども同期会に参加しない礼子を瑠花が引きずり出し、参加した。夫の貴志も参加しているので、市民との接触としては薄いであろうと無理やりじぶんを納得させた。それが今日は、世間的には友と呼べる部類に入るかもしれない瑠花といえども会い、また蛭間隆也の居住地、出所後の様子を調べてくれと頼んでしまった。

ホームへとむかう礼子の足はますます速度を増す。こつ、こつと踵を鳴らす礼子のヒールの音が地下に響いた。礼子の苛立ちが踵を鳴らす。でも、と礼子は思う。瑠花に頼んだ案件は、裁判官としての道義に反するものではない。所詮終わった公判なのだ。いま現在の元被告人、元服役囚のことを調べたところで、現在進行形の裁判ではないのだ。大丈夫、そこは間違えていない。

礼子は荻窪方面行のホームに立ち、じぶんを落ち着かせた。が、それが言い訳であることも自覚している。とにかく、こんな気分になることすら異常だ。一刻も早く、あの男を頭から排除せねばならない。瑠花からの報告を受け、礼子が起案した蛭間隆也の公判を組み立てなおし、じぶんが下した判決に間違いがない、そう再確認できれば、あの男がこれからも門前に立とうがどうでもいい。すこし気の触れた男なのかもしれない。そう納得して脳髄から消し去り、元の生活に戻るのだ──礼子は固く誓った。

 

ホームに丸ノ内線が到着する。

礼子は後方から押されるように電車のなかへ詰めこまれた。二十三時三十四分。終電間際の車内は足の踏み場もない。礼子はおおきな鞄を必死に胸に抱きしめた。なかには公判に関する重要な書類や手控えが入っている。万が一にでも混雑に紛れ紛失しようものなら大問題だ。身長百六十センチの礼子は男たちに挟まれながら、密集地帯に埋めこまれた。

おい、と礼子の前にいるサラリーマンが振り返る。背中に当たる鞄に苛立ったようだ。すいません。と礼子は男を見つめ詫びると、猫のような鋭さを持つ瞳に怯えたのか、また美しさに目を奪われたのか、男は礼子の顔を見るとなにも言わず顔を戻した。

嫌になる。心底礼子は思った。朝の丸ノ内線もそうだ。蛭間隆也の時間に合わせ一時間遅らせた電車も混んでいる。礼子は毎朝六時二十九分の丸ノ内線に乗り通勤していた。始発駅ということもあり、座席に座り、人々を見つめ、世相を確認しながら裁判所へむかうことができる。が、一時間遅らせた丸ノ内線はそうはいかない。いまの状況ほどではないが、やはり通勤客で車内はあふれる。早く元のルーチンに戻らねば──礼子が思ったその時だった。礼子は四方を固める男たちの背中の隙間から、あるものを捉えた。

──蛭間隆也が、立っていた。

数メートル先の窓際に、蛭間隆也がいた。左手にいつものおおきな鞄を持ち、右の手は上げ車内の壁に当てている。上げた右手には閉じられた文庫本が持たれていた。ドアの中央にある車窓には、蛭間の顔が反射して映っている。礼子は目を見開き蛭間を見つめた。

蛭間の前には二十代の女がいた。ドアの前まで押し込まれ顔を歪めるその女性を、蛭間は壁に手をやり守っていた。後方から押されドアに潰されぬように、蛭間は壁に手をやる右手に力を込めているようであった。長袖の白いシャツから覗く右腕には、力を入れているからか、何本もの血管が浮き出ている。が、蛭間は表情ひとつ変えていない。誰とも目線を合わせず、送らず、車窓の一点を見つめている。

走る電車が揺れ、スピードを増していく。礼子は団子になった群衆に押され後方へ流される。誰のものかもわからぬ靴が、礼子の足を踏みつける。躰はよじれ、蛭間を見失う。礼子は懸命に蛭間を探す。長身の蛭間の顔が、微かに見えた。右手はそのままに、見知らぬ女を押されぬよう守りつづけていた。

電車は新宿駅に着き、乗客は下車するもおなじ人数がまた乗り込んでくる。人波に押され、礼子は蛭間を見失っていた。「こんなことがあるものなのか」礼子は必死に首を伸ばす。中野坂上駅で、多くの乗客がいなくなる。礼子は呼吸を整えながら、ようやくできたスペースに安堵した。左を見る。ドア三つぶん離れたところに、蛭間はいた。守っていた女性は、とうにいなくなっていた。

心臓が高鳴る。

どきどきと、左胸が脈打っていた。

蛭間はチノパンツに白いシャツを着ていた。今日も身形に特別な意思を感じさせぬ風情だった。広くなった車内で、蛭間は車窓を見つめつづける。地下のトンネルを走る暗い窓の一点を蛭間は見つめつづけた。礼子は思わず、隣の車両に身を移した。おなじ空間に存在することが、なぜだかためらわれたのだ。

隣の車両の優先席のつり革に掴まる。誰かの汗が持ち手部分を湿らせていた。そんなことも無視して礼子は目線を左にむける。隣接する車両を映す小窓のなかに、ちいさく蛭間の姿が見えた。「どこで降りるのか」左目だけで蛭間を睨む。新中野、東高円寺──蛭間は下車する様子を一かけらも見せない。いちど文庫本を開いたが、数ページ読むとしずかに本を閉じ、また真っ暗な車窓を見つめた。礼子の鼓動が高鳴る。新高円寺、南阿佐ヶ谷でも蛭間は降りなかった。

「やはり荻窪駅を利用しているんだ」

礼子の手から、しっとりと汗が噴き出た。

終点、荻窪、荻窪です──。車掌がきき取ることを拒絶するような口調でアナウンスを流す。人々はもうすぐ辿り着く安住の地へ近づき、安堵したようにホームへと足を滑らせていく。

蛭間も下車した。礼子も下車する。

蛭間はゆっくり、ゆっくりと改札口へ歩を進めていく。

礼子もそれになぞり、決して近づきすぎないよう距離を保ち、歩を進める。

おおきな背中が、階段を上っていく。

礼子も重い鞄を手に、階段を上る。

蛭間の背中が見えなくなった。礼子はすこし焦り、速足で上る。

地下一階の改札口が見えた、その時だった。

蛭間隆也はしゃがみ込み、顔を上げこちらを見ていた。手にあったカード型乗車券を落としたのか、拾い上げたところだった。礼子は唾を飲みこんだ。一気に目線をずらした。蛭間の横を通りすぎる。心臓は覚えのないほど、破裂しそうな高鳴りで脈打っている。礼子のブラウスのなかの背中を、背骨を伝うように、首元から一筋の汗がすうと落下していった。カード型乗車券を改札に当てる。ぴ、とあちこちから無機質な機械音が礼子の耳に響いた。どきどきと脈打つ心臓に腹が立った。平静を装え、平静を装え、礼子は呪文のように心で呟き左に曲がる。と、背中から何者かが近づく気配がした──。

あの──と、礼子の躰の下の部分に響き渡るような、低い声が後ろから聞こえた。

礼子は立ち止まり、振り返った。

蛭間隆也が、立っていた。

「あの」

蛭間は力なく開いた目で、礼子を見ている。礼子はなにも言えず、固まった。

「間違っていたら申し訳ありません。わたしの裁判を──担当してくださった裁判官の方ではないですか」

蛭間隆也は、ゆっくりと声を絞りだした。低く、哀しさが漂う声だった。礼子は必死に瞬きを我慢しながら蛭間を見つめた。動揺を一かけらも感じ取らせたくなかった。

「ああ」

礼子は言った。精一杯、興味もない素振りで、礼子は答えた。蛭間は目線を地面に下ろし、もういちど礼子を見つめた。

「その節は──たいへんご迷惑をおかけしました」

蛭間は頭を下げた。通りすぎていく人々の何人かの視線が、ふたりに注がれているのが礼子はわかった。

「──いえ」

礼子は蛭間から目線を外し、ちいさな声で答えた。蛭間は頭を上げると、ふたたび礼子を見る。礼子は背丈のおおきな蛭間の顔を、もういちど見上げた。行け、行くんだと礼子はじぶんの下肢に言い聞かせた。が、命令を拒否するかの如く、礼子の足は固まったままだった。

しばし、言葉なく見合った。

声をかけながら、蛭間も次の言葉が見つからないようだった。この場を去らなくては、行くんだ、礼子は脳内で呟く。と、蛭間はもういちど頭を下げ、踵を返した。中央線と総武線が走るJR東改札へと歩を進める。

「あの、不服があるんでしょうか」

礼子は言った。背中で言葉を受けた蛭間が、立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

「はい?」

「最近、裁判所の門の前に立たれてますよね? なんどかお見かけしています。わたしの──わたしが起案した判決文に、不服でもあるんでしょうか」

礼子は切れ長の美しい瞳をさらに上げ、蛭間を睨んだ。同時に、なんてことを言っているんだと心が叫ぶ。が、礼子はどうしても我慢がならなかった。言ってやりたかった。

蛭間は口をすこし開き、礼子を見つめる。やがて地を見つめ、礼子を見直す。

「なにも──ありません」

「ない?」

「不服など、なにも──ないです」

詫びるように、蛭間は礼子を見つめた。

「じゃ……じゃあ、なぜ門前に立つんですか」

「いま働いている職場が近いもので……その、失礼しました」

礼子は蛭間を睨みつづける。蛭間は寂しげな目をいちど閉じ、ゆっくりと口を開いた。とてもちいさな声だった。

「あなたが、判決を考えてくださったのですか。やはり」

「え?」

「あなたが──わたしの」

「そうです。そのような立場にあったもので」

そうですか。蛭間は言うと、過去を思い出すように一点を見つめる。

──ございました──。

呟くような声が、礼子の耳に届いた。

「え?」

「判決を考えてくださって──ありがとうございました」

蛭間はしずかに言った。礼子の目を見つめ、ちいさく頭を下げる。中央線と総武線の改札口から流れるアナウンスがふたりを包んだ。蛭間はゆっくりと、そのおおきな背中を引きずり、改札へと消えていった。

 

(つづく)

関連書籍

一雫ライオン『二人の嘘』

女性判事・片陵礼子の経歴には微塵の汚点もなかった。最高裁判事への道が拓けてもいた。そんな彼女はある男が気になって仕方ない。かつて彼女が懲役刑に処した元服役囚。近頃、裁判所の前に佇んでいるのだという。違和感を覚えた礼子は調べ始める。それによって二人の人生が宿命のように交錯することになるとも知らずに......。感涙のミステリー。

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一雫ライオン

1973年生まれ。東京都出身。明治大学政治経済学部二部中退。俳優としての活動を経て、演劇ユニット「東京深夜舞台」を結成後、脚本家に。映画「ハヌル―SKY―」でSHORT SHORTS FILM FESTIVAL & ASIA 2013 ミュージックShort部門UULAアワード受賞。映画「TAP 完全なる飼育」「パラレルワールド・ラブストーリー」など多くの作品の脚本を担当。2017年に『ダー・天使』で小説家デビュー。その他の著書に、連続殺人鬼と事件に纏わる人々を描いた『スノーマン』がある。

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