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まだ人を殺していません

2021.06.23 公開 ポスト

#1 亡くなった姉の夫が捕まった。「良世は生きているの?」小林由香(作家)

衝撃的なタイトルと、そのタイトルのイメージが反転するラストが話題の小林由香さん最新刊ミステリ『まだ人を殺していません』。気になりすぎる本編を一部ご紹介させていただきます。

12月12日 曇り

 この日記は、りようせいと過ごした日々をつづったものです。

 子育てに必要なのは『愛』だという人がたくさんいます。それにもかかわらず、愛とはなにかを尋ねても明確に答えられる人は少ない。

 実態のつかめない感情を大切に抱え、ぐらぐら揺れ動きながら、私はおぼつかない足取りで自分なりの答えを探し続けているのです。

 親になる資格、人を育てる権利はあるのか──。

 あの日、血を吐くように泣き叫んだ姿を、私は一生忘れることはないでしょう。

まだ人を殺していません

〈妊娠3ヵ月〉妊娠8週~妊娠11週

 新しい命が宿っていると知ったのは、2週間前の午後です。

 妊娠が判明したとき、喜びよりも先に複雑な感情が芽生えました。それは胸の奥底に隠してきた、深い畏怖の感情です。

 息苦しさと同時に、苦い思いが込み上げてきたのは、私の過去に原因があるからなのでしょう。

 人が人を育てることの意味、これから大切に育んでいくことができるのか──。

 親としての責任を、今強く感じています。

 

1

 

 ふっくらとした頰の女の子は、はにかんだような微笑を浮かべていた。

 女の子の服装は、オレンジ色の生地に白のドット柄のワンピース。小さな手で、真っ白なソフトクリームを持っている。暑い日に撮影したのかもしれない。入道雲のようなソフトクリームは、今にも溶けて崩れ落ちそうになっていた。

 その写真は、数日前からテレビやネットニュースで話題になっていたため、鮮明に脳裏に焼きついていた。

 みやちゃん、五歳──。

 一週間前から真帆ちゃんの行方がわからなくなり、警察は公開捜査に踏み切った。私は漠然と真帆ちゃんも見つかるのではないかという淡い期待を抱いていた。最近、行方不明になった六歳の少年が無事に発見されたからだ。

 女の子の写真が画面から消えると、女性アナウンサーの神妙な顔が映しだされた。彼女は少し視線を落とし、ニュースの続きを読み上げた。

『今日の午後五時二十分頃、自宅に遺体を遺棄した疑いで、新潟県警は薬剤師のぐもかつ容疑者を死体遺棄容疑で逮捕しました。南雲容疑者の自宅から、大型容器に入れられてホルマリン漬けにされたふたりの遺体が発見され、ひとりは行方不明になっていた小宮真帆さんであることが判明しました。警察は南雲容疑者が、小宮真帆さんの死亡した経緯についても知っていると見て、殺人容疑も視野に捜査し、もうひとりの遺体の身元の特定を急ぐことにしています』

 画面が切り替わると、二階建ての一軒家の前にいる男性レポーターが手元の原稿を読み始めた。興奮しているのか、頰は上気し、声が少し上擦っている。なんとなく、彼には幼い子どもがいるような気がした。

 私は徐々に動悸が激しくなっていくのを感じながらも、テレビから目をそらすことができなかった。部屋は静まり返っているのに、男性レポーターの声がまったく耳に入ってこない。頭がぼんやりしてくる。視界がゆがんでいくような錯覚に襲われ、瞬きを繰り返した。

 目を見開き、画面に集中する。どれほど目を凝らしても、レポーターの背後に映っている家は青いビニールシートで覆われているため、中の様子をうかがい知ることはできなかった。

 上空からの映像が映しだされた瞬間、室内に短い悲鳴が響いた。

 自分の声だと認識した途端、背中におぞが走り、身体からだがぐらぐら揺れているような感覚がしてくる。気分が悪い。おうを覚え、慌てて喉の奥に力を込めた。

 見たこともないホルマリン漬けの遺体が、脳裏にありありと浮かんでくる。その不穏な映像を消し去りたくて、汗ばんでいる手でリモコンをつかみ、慌ててテレビを消した。

 頭では恐ろしい現実を認識しているのに、認めたくないという気持ちが増してくる。

 目の前のテーブルには、ワインボトルとグラスが並んでいた。飲み始めてから、どのくらい時間が経っただろう。誰もいない部屋にいると急に心細くなり、どんどん息苦しくなってくる。

しようちゃん」

 呼吸を止め、身を固くして、耳を澄ました。どこからか、私の名を呼ぶ女の子の声が聞こえたのだ。少し舌っ足らずで、甘えたような喋り方。

 四年前から起きる現象──。

 最近は頻度が減ったけれど、ときどきあの子の笑い声や泣き声が聞こえてくる。幻聴だと自覚しているのに、部屋の中を確認せずにはいられなくなり、ぎこちない動作で辺りに目をわせた。これほど会いたいと願っているのに、少女は決して姿を見せてくれない。

 遮光カーテンが少しだけ動いたような気がする。

 急いでグラスに手を伸ばし、口元に運んだ。手が震えてうまく飲めない。少しこぼしながらワインを一気に飲み干した。けれど、一向に喉の渇きは満たされなかった。

 自責の念にさいなまれ、心が強い虚無感に支配されるとアルコールに頼りたくなる。できるだけ控えなければならないとわかっていても、恐怖に打ち克つ方法が他に見つからず、引き寄せられるように依存してしまうのだ。

 ソファに置いてあるスマホに手を伸ばし、保存してある画像の中から一枚の写真を選択した。

 写っているのは、三十代の男女ふたり。ふたりは親しげに肩を寄せて微笑ほほえみ合っている。ベリーショートの女性はシャツワンピース、長髪の男性はライトグレーのポロシャツにスラックス姿だった。シャープな輪郭や大きな瞳は似ているけれど、男性のほうは少し目尻がつりあがっていた。

 写真の人物は、姉夫婦。南雲勝矢とおり

 詩織は、四つ上の私の実姉だった。

 保存してある別の写真を選択し、こわる指で拡大していく。

 一瞬、視界がぐらりと揺れ、赤く染まる。指先から恐怖が這い上がってきて、スマホを投げ捨てたい衝動に駆られた。

 写真に写っている一軒家の屋根は、間違いなく朱色だった。

 南雲勝矢という名前をニュースで聞いたとき、同姓同名の別人であることを願った。けれど、上空から映しだされた朱色の屋根を見て、ある写真が脳裏をかすめた。注文住宅が完成した際、姉がメールで送ってきたものだ。

 腕にぞわりと鳥肌が立ち、思わずソファに向かってスマホを投げつけていた。嫌な熱がまだ指先に残っている。

 先刻から心臓の鼓動が少しも鎮まらない。

 喉を潤すため、テーブルに手を伸ばすとワインのボトルは空だった。ミネラルウォーターを取りに冷蔵庫まで向かおうとして、ふと足を止めた。

 ぎこちない動きでソファに目を移すと、静寂を切り裂くようにスマホの着信音が鳴り響いている。

 壁時計を見上げた。夜の十時半。不吉な予感を覚えながら通話ボタンをタップすると、兄の低い声が耳に飛び込んできた。

『もしもし翔子か?』

 私が返事をする前に、兄は切羽詰まった声で続けた。

『南雲勝矢が警察に捕まった』

「やっぱり……テレビに映っていたのは、お姉ちゃんの家だったの?」

『姉貴は、とんでもないことをしてくれたよ』

「お姉ちゃんが事件を起こしたわけじゃない」

 姉は九年前に既に亡くなっている。事件など起こせるはずもないのだ。

 兄は吐き捨てるように言い放った。

『姉貴はどうしてあんな奴と……あの男は人間じゃない』

「本当に遺体を遺棄していたの? お義兄にいさんが人を殺したってこと?」

 義兄は物静かな人物だった。兄が話している男と義兄が重ならず、頭の中が混乱をきたしていた。

 遺体はふたり。ひとりは行方不明だった小宮真帆ちゃん。たしか、ニュースではもうひとりの遺体の身元の特定を急ぐと言っていたはずだ。

 姉には、九歳の息子がいる。

「良世は?」

 私が恐ろしい予感を覚えながら尋ねると、兄はとがった声で言った。

『とにかくタクシーで来てくれ。二十分もかからないだろ。車代はだすから』

 微かに怒りが湧いてくる。車代なんて要求してないという言葉を懸命に呑み込んだ。

 兄はいつも冷静沈着で物事を理路整然と説明できるタイプなのに、今はかなり動揺しているのが伝わってきて、こちらまで平常心を保てなくなる。

 私は少しいらった声を上げた。

「良世は無事なの?」

『生きている。大丈夫だ』

 兄は重い溜息を吐きだしてから、「すぐに俺の家に来てくれ。今後のことを話し合いたい」と告げて一方的に通話を切った。

 幼い頃から優秀だった姉と兄は、親から多大なる期待を寄せられていた。

 ふたりは同じ中高一貫校に通い、成績も優秀で目立つ生徒だった。姉の場合、成績だけでなく、容姿においても優れていた。モデルのようなスタイルで、顔のパーツも美しく整っていたため、近所でも評判の美少女だった。

 姉たちと比較されるのは目に見えていたので、私は別の学校を選び、これまで自由気ままな生活を送ってきた。末っ子だから甘やかされたのか、さとい子ではないからなのか判然としないけれど、私は親からの期待を感じたことは一度もない。それほど関心も寄せられていなかったのだ。

 兄は国立大学を卒業後、大手銀行に就職した。けれど、社会人になってからは順風満帆とはいかなかった。日本銀行のマイナス金利政策により、経営に行き詰まった多くの銀行はITやAI技術の進化も伴い、大規模なリストラに踏み切ったのだ。

 兄の勤務先も例外ではなかったけれど、心配は杞憂に終わった。

 大規模なリストラが世間に知れ渡る前に、兄は銀行を退職し、懇意にしていた県議会議員の娘と結婚したのだ。今は義父の議員秘書を務めている。

 私はタクシーの後部座席に座りながら、流れる景色をぼんやり眺めた。

 バッグの中から手探りで小さな人形を取りだし、てのひらでそっと包み込む。幼稚園の頃に姉が作ってくれたお守りだ。フェルト布地の女の子の人形。幾度も握りしめたせいで髪は乱れ、ピンクのワンピースはいろせている。緊張する場面や哀しいときに心を落ち着かせてくれる大切な存在だった。気づけば、人形を握る手に力を込めていた。

 お守りをくれたときの姉の笑顔が舞い戻ってくる。

 理知的で優しい笑み──。

 しばらく車に揺られていると、今度はお正月に親族が集まったときの光景がよみがえってくる。兄は勝ち気な笑みを浮かべ、次の市議会議員選挙に立候補すると意気込んでいた。

 その笑顔は歪み、街の明かりと一緒に後方に流れていった。

 

次回に続く

関連書籍

小林由香『まだ人を殺していません』

父親が猟奇殺人を犯し「悪魔の子」と噂される少年、良世。事故で娘を失った過去を持つ翔子は、亡くなった姉の忘れ形見である良世を育てることになるが、口を閉ざし、何を考えているかもわからない。なんとか彼を知ろうと寄り添うも、ある日机で蟻の「作業」を している姿を目撃し――。人を信じ育てることの難しさと尊さを描く、感涙のミステリ。

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まだ人を殺していません

書き下ろし感動ミステリ『まだ人を殺していません』(小林由香著)の刊行記念特集です。

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小林由香 作家

1976年長野県生まれ。2006年伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞で審査員奨励賞、スタッフ賞を受賞。08年第1回富士山・河口湖映画祭シナリオコンクールで審査委員長賞を受賞。11年「ジャッジメント」で第33回小説推理新人賞を受賞、16年「サイレン」が第69回日本推理作家協会賞短編部門の候補作に選ばれ、連作短編『ジャッジメント』でデビュー。他の著書に『罪びとが祈るとき』『救いの森』『イノセンス』がある。

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