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まだ人を殺していません

2021.06.25 公開 ポスト

#3 悪魔の子。息子もサイコパスだったりして小林由香(作家)

殺人犯の息子を引き取ることになったら、その子供とどう向き合えばいいのかーー。衝撃タイトルと、そして驚愕の事件から始まるミステリ『まだ人を殺していません』。気になりすぎる本編を引き続きお楽しみくださいませ。

#1から読む

2

 

〈妊娠4ヵ月〉妊娠12週~妊娠15週

 心拍が確認できてから、保健福祉センターで母子手帳を交付してもらいました。

 母子手帳は病院の受付に提出するため、あまり本音が書けません。だから、これからもこのノートに簡単な成長記録を書くことにします。

 今日は赤ちゃんの大きさなどを検査するため、病院でお腹の周囲を測定しました。

 軽い胃もたれや食欲不振が続いていましたが、13週を過ぎた頃から、つわりは治まり、検査も問題なく無事終わりました。

 身長13センチ、体重82グラム。

 羊水の量が増え、手足を動かす子も多いようですが、まだ胎動が感じられないのが残念です。

 

 最近、娘が赤ちゃんだった頃の夢をよく見る。

 潤んだ大きな瞳。小さな鼻と口。柔らかい頰。娘は必死に掌を広げ、こちらに向かって両腕を伸ばしてくる。そっと抱き上げると、優しい体温が伝わってきて、胸がじんわりとあたたかくなる。甘い香りが鼻孔をくすぐった。ドクドクドク、娘の鼓動を確かめるように耳を澄ます。息をしているのを確認した途端、夢から現実に引き戻された。

 目覚めたあとは胸にぬくもりはなく、刺すような哀しみだけが残っていた。

 私は痛み始めたこめかみを指で押さえ、電気ケトルで湯を沸かしてコーヒーをいれた。一口飲んでからテレビをつけると、どの局も勝矢の事件について報道している。

 朝の情報番組によれば、勝矢は勤務先の薬局から医薬品を盗んでいたようだ。匿名通報を受けた警察が窃盗容疑で家宅捜索したところ、一室に遺体があるのを発見したという。現在、取り調べを受けている勝矢は「なにも言いたくない」と話しているそうだ。

 スーツ姿の男たちに両腕をつかまれ、車に乗せられる勝矢の姿が画面に映しだされた。

 きっと、自宅から連行されていくときの映像だろう。

 勝矢は長い髪をうしろでひとつに結んでいる。長髪なのは変わらないけれど、以前よりもずいぶん痩せていた。丈の長い白衣を羽織り、見ている者を苛立たせる薄気味悪い笑みを浮かべている。まるで猟奇犯罪者を演じているようで、不可解な思いに囚われた。画面越しに視線がぶつかる。私はとつに顔を伏せた。暗い思考に捉えられ、なにもかもが恐ろしくなる。テレビに映っている人物は、本当に姉が愛した人なのだろうか。外見は変わらないのに、内面から滲み出てくるような誠実さは見当たらなかった。

 勝矢の事件は、『ホルマリン殺人事件』と呼ばれ、インターネット上でも話題の中心になり、未確認の情報が錯綜している。SNSなどでも話題にしている者が多くいた。

 普段なら避けて通りたい残虐な事件。けれど、これから良世と生活していくのに、目を背けるわけにはいかなかった。

 テレビや新聞よりもしんぴようせいは低いけれど、私はノートパソコンを開き、ネットで事件の情報を集めた。ニュースのコメント欄にも隈なく目を通していく。

 ──子どもをホルマリン漬けって、本物の変態だね。

 ──弱い者を傷つける奴がいちばん許せない。死刑確定!

 ──南雲勝矢には小学生の息子がいるらしいよ。

 ──悪魔の子。息子もサイコパスだったりして。

 ──子どもは関係ないだろ。親に罪があるだけだ。

 ──自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか?

 気づけば、マウスを握る手に汗をかいていた。

 事件が発覚したのは昨日なのに、ネット上には既に加害者の家族の情報が書き込まれている。これでは日本全国に探偵がいるようなものだ。しかも彼らは匿名性が担保されているため、信憑性を欠いた情報でも次々に書き込んで拡散していく。

 父親の過ちの責任を、子どもが負わされるのはあまりにも理不尽だ。

 検索窓に恐る恐る『南雲良世』と入力してみる。

 様々なサイトを慎重に確認していく。今のところ良世に関する情報はないようで胸を撫で下ろした。

 最近では事件の発覚後、加害者のSNSなどが調べられ、ネットに投稿していた写真が出回るケースも多い。今の時代、加害者が未成年でも個人情報がさらされてしまう恐れがあるのだ。

 今後、小学校の近くで待ち伏せし、良世のクラスメイトに取材を敢行する記者もあらわれるだろう。個人情報がネット上に掲載されたとき、警察は守ってくれるのか、私は彼を守れるのだろうか。

 ──南雲勝矢の息子も殺されればいいのに。自分の子どもが死ねば少しは痛みがわかるんじゃない?

 見も知らぬ相手の言葉が胸に不安を呼び寄せる。心に巣くう不安は次第に恐怖に変わっていく。ネット上の言葉は、どんどん過激になり残酷化していくからだ。コントロール不能な言葉の怪物たちがうごめき、読んでいる者の心をむしばむ。いつか本当に良世を殺害しようとする者があらわれるのではないか、そんな恐ろしい予感が頭をもたげた。

 良世を引き取ると宣言してから気持ちが重くなっていた。

 まだ心は激しく揺れ動いている。

 優しかった姉の姿を思い返すと胸が苦しくなり、陰鬱な気分に沈んでいく。

 きっと、良世は寂しい思いをしているだろう。そばにいてあげたいという気持ちに噓はない。けれど、どうしても自信が持てなかった。誰よりも自分が信用できないからだ。

 もしも勝矢が人を殺害していたなら、彼には親になる資格はない。

 けれど、私も──人殺しなのではないだろうか。

 幾度も自問自答してしまうのは、子育ての難しさを嫌というほど理解していたからだ。

 

「ママ、ミサちゃんの嫌いなもの知ってる?」

 私には、という娘がいた。娘は幼稚園では「私」という一人称を使うのに、甘えたいときは自分のことを「ミサちゃん」と言うのがおかしかった。

 病院からの帰り道、繫いだ手をぶらぶら揺らしながら答えた。

「美咲希の嫌いなものはライオン、セロリ、注射」

「ザッツライト!」

 子ども向けの英会話教室に通い始めた娘は、ときどき気に入ったフレーズを使用する。

 彼女はこちらを見上げ、今度は心配そうな声で訊いた。

「どうしてライオンが嫌いかわかる?」

 少し考えている振りをすると、不安そうな顔で「翔子ちゃん、答えて」とかしてくる。私のことを友だちのように名前で呼ぶのは、機嫌のいい証拠だ。

 娘に微笑みかけながら答えた。

「ライオンが苦手なのは、テレビでシマウマが襲われるのを観たから。セロリはカマキリを食べているみたいで嫌い。注射は単純に痛いから苦手」

 美咲希は繫いでいた手にぎゅっと力を込め、大きな瞳を輝かせて嬉しそうに見上げてくる。

 怖がりの娘は同じ質問を何十回もする。きっと嫌いなものを遠ざけてほしいのだろう。けれど、注射に関しては頭を悩ませていた。

 予防接種のときは全力で暴れまくり、看護師がどれだけなだめても、まるでホラー映画ばりに「来ないでぇ!」と叫び続けるのだ。

 その日は自治体が毎年実施している健康診断の日だったので、私は病院に検査を受けに行った。待合室で血液検査の順番を待っていると、美咲希は泣きだしそうな顔で尋ねてくる。

「注射されるのは誰?」

「ママだよ」私は笑いながら答えた。

 自分ではないとわかった途端、いつもならジャンプをして大喜びするのに、その日は違っていた。目に涙を溜めて「ママ可哀想」と顔を歪ませたのだ。

 初めて歩いたときや、初めて「ママ」と呼ばれたときも嬉しかった。けれど、心の成長はそれ以上に嬉しくて胸が熱くなる。

 帰宅した夫に病院での出来事を話すと、彼は嬉しそうに頰を緩めて言った。

「美咲希には優しい子になってほしいな」

「いじめる子になるくらいなら自分の正義を貫いて、いじめられる子になったほうがいい?」

 彼の心の内を知りたくて質問を投げると、夫は真面目な顔つきで答えた。

「どっちも嫌だけど、人を傷つけるような子にはなってほしくない」

 夫はとても真面目で思いやりのある人だった。

 結婚前、私は公立中学で教師をしていた。勤務先の中学では美術教師は私だけだったため、ひとりで三学年分の授業を受け持ち、担任クラスは持たず、各学年の生活指導担当を任されていた。

 利己的で理不尽な要求をする親が増えていると言われる中、担任クラスを持たなかったせいか、特に大きな問題も抱えず、教師を続けてこられた。このまま人生は順調に進んでいくものだと信じられるほど、あの頃は幸せな環境に身を置いていたのだ。

 夫とは、先輩教員の紹介で知り合った。彼は名門私立中学の数学の教師。同じ教員だったので共通の話題も多く、会話が途切れることはなかった。

 結婚相手が教師だと知ったとき、姉は「ショウちゃんは、もっと変わってる人を選ぶと思っていた」と、ずいぶん驚いていたのを覚えている。私は自由気ままに生きているようで、どこか道を踏み外せない臆病なところがあった。もしかしたら、自分に自信がなかったのかもしれない。それに比べ、優等生の姉は度胸もあり、誰になんと言われようと一度決めたことは最後までやり抜く強い意志を持っている人だった。

 私の妊娠がわかったとき、夫からすぐに仕事を辞めてほしいと頼まれた。

 廊下を走る生徒がいるから心配だと、真剣な面持ちで訴えられたのだ。思わず笑ってしまったけれど、当時は夫の心配性な面も愛おしく感じられ、もうすぐ三学期が終わる時期だったので、それを待って教師を辞めることにした。

 その頃、母子手帳を交付されて、ときどきノートに赤ちゃんの成長記録を書き込んでいた。お腹にいる美咲希に話しかけていた記憶がよみがえる。ノートには、初めての出産に対する不安や喜びだけでなく、生徒に対する想いも少しだけ書いてあった。

 ──生徒のお手本になるような立派な先生ではありませんでした。ごめんなさい。

 学校を去る日、美術部員の生徒たちから寄せ書きと花束をもらったときは、驚きと同時に少し罪悪感を覚えた。私はあまり教育熱心な教師ではなかったからだ。けれど、寄せ書きには「絵を描く楽しさ、辛いときに悩みを聞いてくださったことを忘れません。先生、ありがとうございました」というメッセージが書かれていて、学校を離れるのが少し寂しく感じられた。そんな気持ちを察してくれたのか、夫は子どもが大きくなったら絵画教室を始めたらどうかと言ってくれた。広い和室をフローリングに改装して、教室を作ればいいと提案してくれたのだ。

 絵画教室を開くのは、幼い頃からの夢。結婚前に話した夢を覚えていてくれたのが嬉しかった。未来を描く色鮮やかな絵画には、いつも希望の光が満ちていた。

 輝く絵画に一滴の墨汁を落としたのは、姉の突然の死だった。

 美咲希が生まれた二週間後、姉は良世を産んでからこの世を去った。

 葬儀を終えても、しばらくはなにをしていても涙がこぼれた。美咲希を見るたび、良世が気になって仕方なかった。食事も喉を通らなかったせいか、ストレスが原因なのかわからないけれど、母乳が出なくなり、子育てにも影響を及ぼすようになってしまった。

 顔を真っ赤にして泣いている美咲希の姿を見て、このままではダメだと自覚し、哀しみを紛らわすように全力で家事や育児に励んだ。

 美咲希の笑顔や成長が次第に心の傷を癒やしてくれた。

 母親たちとの交流も増え、彼女たちから子どもが通いやすい歯医者、評判のいい皮膚科や小児科などを教えてもらい、ときには仕事で遅くなったママ友の子どもを預かることもあった。

 教師をしていたという情報が流れると、みんなから相談を受けることも多くなり、ますます哀しみに沈む日は少なくなっていった。

 教師だったからといって、母親として優れているわけではない。けれど、仲のいいママ友から「翔子さんにアドバイスをもらうと安心する」と感謝されるたび、こちらまで幸せな気分に包まれた。けれど、自分の育児については必死に隠す日々だった。

 娘には問題が多く、人には気づかれないように密かに育児本や発達心理の教材を読み漁っていたのだ。ますます知識は豊富になり、アドバイスはうまくなるのに、自分の子を育てるのは難しい──。

 美咲希は寝付きが悪く、夜泣きなどの睡眠問題もあった。心配した義母から、寝室環境が整っていないから問題が起きるのだと苦言を呈され、高級なベッドと寝具が送られてきた。

 既存の寝具の処理にも困ったけれど、いちばん哀しかったのは、夫が隠れて義母に相談していたという事実だ。義母とは一緒に暮らしていなかったので、睡眠問題が起きているなんて知る由もないはずだ。

 なぜ義母に相談したのか尋ねると、夫は「夜泣きのせいで、翔子が睡眠不足になっていないか心配だったから経験者に相談しただけだよ」と気遣うように言った。

 寝具を一式取り替えても、娘の夜泣きは続き、義母から「不規則な生活をさせているのではないか」と疑われた。

 ママ友たちから相談を受けている手前、弱音を口にしたり、抱えている悩みを素直に話したりできなかった。今思えば、頼られているという優越感に浸り、心地いい環境を手放したくなかったのかもしれない。

 娘は言葉を覚えるのは早かった。けれど、言葉で意思疎通ができてもトイレットトレーニングはうまくいかない。トイレットトレーニングは、その後の性格に影響を及ぼすという説もあった。厳しくしすぎると不安な感情を引きずりやすくなり、過度な緊張や融通の利かない性格になる場合もあるようで、子育ての難しさを改めて実感させられた。

 同い年の子どもたちがオムツを卒業する時期なのに、娘はいつまでも自主的にトイレへ行けなかった。

 焦っても空回りするだけだ。悪いところに目を向けるのではなく、娘が好きなものを見極めて、長所を伸ばしてあげよう。

 美咲希は、絵本が大好きだった。時間があれば本を読んであげた。できるだけ感情を込めず、平坦な口調で読むことを心がける。淡々と読むほうが物語に集中できて、子どもの想像力を豊かにするらしい。

 ある日、私は大学の実習で絵本を創ったのを思いだし、押入れの段ボール箱から取りだして娘に渡してみた。小さな審査員──学生時代に創ったものを気に入ってくれるかどうかとても心配だった。

 瞳の色が変わるトラ猫の物語。哀しいときは青、楽しいときはオレンジ、友だちになりたいときは緑、噓をついたときは紫、嬉しいときは黄色の瞳に変化する。自分の感情が瞳の色でわかってしまう猫の人生を描いたものだ。

 瞳の色がころころ変わる猫は、みんなから恐れられ、避けられていた。寂しくなった猫は住み慣れた町を離れて旅に出る。旅の途中、苦しい出来事に遭遇しながらも、大切な仲間に出会っていく。最後のページには、本当の友だちを見つけた猫の瞳が描かれている。虹色に輝く大きな瞳──。

 絵本なのに大人向けのシリアスな絵と内容だったので、気に入ってくれるかどうか不安だった。けれど、ぎゅっと絵本を抱きしめている娘の姿を見て、とても愛おしくなったのを覚えている。

 そんな穏やかな生活はなんの前触れもなく、少しずつ崩壊していった。

 数日後、二階の部屋に行くと、娘は「嫌い」と言いながら、絵本の猫の瞳を紫色のクレヨンで塗りつぶしていた。なぜ塗りつぶしたのか尋ねてみても、泣きだしそうな顔で「こんな絵本、大嫌い」としか答えてくれない。

 最初は気に入ってくれたのに、どうして急に気持ちが変わってしまったのだろう。

 自分の娘なのにまったく理解できず、深い溜息がもれた。その頃からイヤイヤ期に突入し、娘の心は「イヤ」という感情でいっぱいになってしまった。

 スクールバスに遅れそうなのに、玄関先でオレンジ色の靴下が気に入らないと泣きだしてしまう。朝食に小さなおにぎりを並べると、パンが食べたいと言う。仕方なく食パンを用意すると今度は、メロンパンでなければ食べたくないと駄々をこねる。

 翌朝、メロンパンを用意したのに、今度はおにぎりが食べたいとむくれた。けれど、夫が「このメロンパンは、すごくおいしいよ」と食べ始めると、娘は「私もほしい」と素直に口に運んだ。

 通常イヤイヤ期は三歳くらいで終わるという説が多いのに、難しい時期は予想以上に長く続いた。私の伝え方が悪いのではないかと落ち込む日々だった。

 もう少し厳しくしつけるべきなのか、そう悩む日もあったけれど、できるだけ子ども時代は自由にのびのびと過ごしてほしかった。成長すれば我慢の連続だ。それに、娘は外ではおとなしい子で、わがままを言うことも少なかった。

 ふたりきりになったときに小さな怪獣になってしまうのは甘えている可能性もある。

 いつも行く児童公園では、しっかりルールを守って友だちと遊べている。そんなに心配する必要はない。そう自分に言い聞かせていたけれど、ある日事件は起きた。

 ママ友たちと公園の木陰で立ち話をしているとき、砂場で遊んでいた娘がスコップでおん君の頭を叩いたのだ。ふたりは同い年だったけれど、娘のほうが体格もよく背が高い。

 詩音君は頭を押さえて泣いているのに、それでも娘は叩くのをやめなかった。

 私は慌てて駆け寄り、娘の手からスコップを取り上げ、詩音君の頭に怪我はないか確認するように撫でた。スコップはプラスチック製だったので、幸い怪我はないようだ。

 木陰を振り返ると、詩音君の母親はいないけれど、ママ友たちが心配そうな顔でこちらを見ていた。今日の夜、詩音君の家に電話をして謝罪したほうがいいかもしれない。詩音君ママは大騒ぎするような人ではないけれど、他のママ友から伝わると気分はよくないはずだ。

 かつて、子ども同士の喧嘩が火種になり、親同士のいさかいにまで発展してしまったケースがあったのだ。

 今後のことを考えながら娘の両肩に手をのせて、暴力は絶対にダメだよ、と強く叱った。

 美咲希の顔が真っ赤になる。澄んだ目に涙があふれ、唇をぶるぶる震わせながら「ミサちゃん悪くない。ママ嫌い」と小声でつぶやき、公園の外へ走りだしてしまった。

 私は、詩音君の頭を撫でながら「本当にごめんね」と言い残し、娘のあとを追いかけた。

 突如、車のタイヤがこすれる音と重い段ボール箱を床に落としたようなドスンという鈍い音が響いた。

 公園前の道に、ラベンダー色の小さな靴が転がっている。すぐ近くに頭から血を流した幼女が倒れていた。こんな状況なのに、娘ではないかもしれない、別の子であってほしいと願いながら近づいた。

 美咲希……額が割れて小さな頭がへこんでいる。血に濡れた髪がべったりと顔に張りついていた。アスファルトに血溜まりがじわじわと広がっていく。

 公園前の道は、たまに車が通るのでボール遊びは禁止されていた。子どもが多い場所なので、横断歩道の設置も検討されている最中だった。もっと気をつけなければならない場面だったのに、すぐに娘を追いかけなかったことを激しく後悔した。

 どこかで油断していたのだ。怖がりの娘は、いつも左右をしっかり確認してから道を渡る子だった。きっと、強い怒りに支配され、我を忘れて飛びだしてしまったのだろう。

 娘は脳挫傷で死亡し、運転手は過失運転致死傷罪で懲役一年、執行猶予三年の判決が言い渡された。

 美咲希は、まだ五歳だった──。

 

(次回につづく)

関連書籍

小林由香『まだ人を殺していません』

父親が猟奇殺人を犯し「悪魔の子」と噂される少年、良世。事故で娘を失った過去を持つ翔子は、亡くなった姉の忘れ形見である良世を育てることになるが、口を閉ざし、何を考えているかもわからない。なんとか彼を知ろうと寄り添うも、ある日机で蟻の「作業」を している姿を目撃し――。人を信じ育てることの難しさと尊さを描く、感涙のミステリ。

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まだ人を殺していません

書き下ろし感動ミステリ『まだ人を殺していません』(小林由香著)の刊行記念特集です。

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小林由香 作家

1976年長野県生まれ。2006年伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞で審査員奨励賞、スタッフ賞を受賞。08年第1回富士山・河口湖映画祭シナリオコンクールで審査委員長賞を受賞。11年「ジャッジメント」で第33回小説推理新人賞を受賞、16年「サイレン」が第69回日本推理作家協会賞短編部門の候補作に選ばれ、連作短編『ジャッジメント』でデビュー。他の著書に『罪びとが祈るとき』『救いの森』『イノセンス』がある。

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