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本の山

2020.11.07 更新 ツイート

人は仏から人になって、 死んでまた仏になる――『彼の娘』飴屋法水 KIKI

何年かぶりに吉野家の牛丼を食べた。高速道路のパーキングエリアのフードコートで、いつもなら麺類を選ぶのに、この日は迷わず牛丼だった。読んだばかりの本に牛丼が登場したからかもしれない。今回紹介する本のことだけれど、作中で牛丼が美味しそうに描写されているわけでもない。葬式の帰り道に空腹を満たすために「彼」と「彼の娘」は吉野家に入るのだ。

 

本書は劇作家である飴屋法水による私小説(帯にはドキュメント小説とある)。四五歳になって娘を授かった「彼」の目線で「彼の娘」のことが、ときにふたりの対話が挟まれつつ描かれ、記憶とは何なのかという問いが読者に突きつけられていく。

「彼の娘」が成長するにつれて「彼」に呼び起こされる記憶は自分の記憶ではなく、誰かが記録したものを見たり聞いたりして覚えさせられた記憶であるという。「だからこうして、彼は書く。」とまだ言葉を喋る前の「彼の娘」が、初めて生き物を殺す瞬間を見たことを書く。これが「彼の娘」に読まれることによって、いずれ「彼」の記憶は「彼の娘」の記憶になっていく。しかし同時に「彼の娘」の記憶は彼女のものではない。

私は以前に、飴屋さんが演出をした屋外での舞台を観たことがある。時に体を張った過激な表現があり、息を呑むような小さな悲鳴があちこちからあがった。けれど、作品に参加し、その光景を見ていた飴屋さんの小さな娘はひとつの動揺も見せなかった。そして、破滅的な父の行動を平然と見つめる娘の姿に、私は大きな衝撃を受けた。彼女は小学校にあがったばかりほどの年齢で、すでに父のことを理解していたのだろうと今なら考えることができる。父は父であるけれど、舞台で演じる父は父ではないと娘はわかっている。なにか衝撃的な場面に遭遇しても、それを衝撃的と感じるかどうかは、個人の記憶に基づく感じ方次第なのかもしれない。

葬式で焼かれた骨は、誰の骨であったのか。そんな会話をしながら彼らは吉野家に寄る。人は人のままでは焼くことができないけれど、仏になるから焼くことができるのだ、ともいう。魚が人であったらコンロで焼くのは忍びないけれど、魚だから焼くことができるのと同じである。人はどこかの時点で仏から人になって、死んでまた仏になる。「彼」も、彼であり父であり、動物ではないけれど、人であり仏でもありうるのだ。

そんなことを思い返しながら、私はパーキングで牛丼を食べていた。これは牛であって人でないから、煮込みにして食べられる。ということは、牛は仏なのか。食事をしながら、生きていた物を食べている私という存在を意識したのは初めてだった。「彼」と「彼の娘」を通して、記憶、そして人と動物の違いなど、世の中の不思議について思いを巡らせたのだった。

「小説幻冬」2017年12月号

飴屋法水『彼の娘』

謎と矛盾だらけのこの世界で、父と娘がもうひとつの本当を探し求めて、ともに考え、悩み、笑い……。状況劇場を経て、機械と肉体の融合を図る独自の演劇活動を展開する「演劇界の鬼才」による、ドキュメント小説。文藝春秋/本体2400円+税

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