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嫌われ松子の一生

2019.07.12 更新

#3 歯車が狂い始めた旅…人生の光と影を描いた傑作巨編山田宗樹

東京で大学生活を満喫していた川尻笙は、突然の父の訪問で三十年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、彼女が何者かに殺されたことを知る。部屋の後始末を頼まれた笙は興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは彼にとって凄まじい人生との遭遇だった……。中谷美紀主演で映画化もされた、ベストセラー小説『嫌われ松子の一生』。物語の冒頭を、少しだけみなさんにお届けします。

*   *   *

ハイヤーを降りたのは、別府の中心から外れた場所だった。浴衣姿で出歩く人の姿はなく、ひっそりと静まり返っていた。

(写真:iStock.com/tomophotography)

旅館は、細い路地を入ったところにあった。門に「美鈴屋」と書かれた提灯がさがっている。優雅な隠れ家といった趣で、田舎の中学校が修学旅行に使うような宿ではなかった。

大人二人がやっとくぐれる門を入ると、日本庭園が広がっていた。灯籠や、街灯のような電灯がいくつも点っていて、昼間のように明るかった。敷き詰められた砂利に、飛び石が母屋まで連なっている。小ぶりな松が配置された空間は静寂を湛え、どこからか添水の音が聞こえてくる。

「素敵なところでしょう」

田所校長が、隣に立って言った。

井出が、部屋の確認をすると言って、宿に入っていく。

田所校長が、あの石は島を表現している云々と庭の説明を始めたが、わたしにはよくわからなかった。

「最近は、設備の整った鉄筋コンクリートの旅館がはやっているようですが、情緒を楽しむには、こういう伝統ある建物のほうがいい」

田所校長が、悦に入った顔で、庭を見渡す。

「生徒が使う旅館は、どこにあるのですか?」

「それは明日、井出君が案内してくれるでしょう」

忙しない足音が聞こえた。井出が、血相を変えて走ってくる。

嫌な予感がした。

「どうした井出君、そんなにあわてて」

「申し訳ありません。お部屋を二つご用意するはずが、当方の手違いで、一つしか取れておりませんで、その……」

「一つくらい空いている部屋があるでしょう」

「それが、全室ふさがっておりまして。もしよろしければ、お二人同室で……」

「失敬なっ!」

田所校長の口から、唾が飛んだ。

「川尻先生に私と同じ部屋に泊まれと言うのかね」

「いや、ただ、その部屋は特別に広く造られておりますので、襖を閉めれば……」

「だまらっしゃい!」

井出が、竦みあがった。前歯の出た口を開け、間の抜けた顔で、田所校長を見つめている。

「旅行会社が部屋を取り損ねるなど、なんたる不手際ですか。弁解の余地はありません。こんな調子ではもう、君のところに我が校の修学旅行を任せることは、到底できない」

田所校長が真っ赤になって吐き捨てると、井出が泣きそうな顔になった。

「校長先生、どうかそれだけは」

「あの、わたくしは、ほかの安い旅館で結構ですが……。そうです、生徒が実際に使う旅館に泊まります」

田所校長と井出が、揃ってわたしを見た。

二人の男の視線が、一瞬、絡み合う。

井出が、顔を突き出すようにして、

「いえ、その旅館も空きはないと思います」

急に、気味が悪いほどの笑顔を見せた。

「え、ええ、そうです。それで急遽、こちらの旅館に手配をしたのですから。なにぶん十一月は、別府でも人出が多いときなので」

「でも、さっきはたしか……」

田所校長が、唸り声をあげた。

「とにかく言語道断だ。川尻先生に私と同じ部屋に寝泊まりしろなどと、たとえ襖で仕切れるとはいえ、川尻先生は結婚前の女性だよ。そんな失礼なことができますか。冗談ではない。君の会社とは解約させてもらう。川尻先生、行きましょう。せっかくここまで来ていただいて申し訳ないが、今回の下見は中止にします。旅行先も見直したほうがよろしいようですな」

田所校長が、きびすを返した。さっさと門に向かって歩いていく。井出がわたしに、救いを求めるような視線を投げてくる。わたしがどう反応してよいものか迷っていると、井出が田所校長の行く手に回り、砂利を蹴散らして土下座した。

「どうか、それだけは。そんなことになれば、私は会社をクビになります。二歳になる子供もいるのですっ」

絞り出すように叫んだ。

「わたくしなら、かまいませんが」

わたしは言ってしまった。井出に同情したわけではなかった。旅の疲れもあって、一秒でも早く、この場を終わらせたかった。とにかく部屋にあがって、くつろぎたかったのだ。それに、外は寒い。

「しかし川尻先生……」

「襖で仕切れるのなら、部屋が別なのと同じです。一泊だけですし」

「まあ、川尻先生がそうおっしゃるのなら……井出君、そういうわけだ。川尻先生に感謝したまえ」

田所校長が、不機嫌な顔のまま、旅館に向かって歩きだした。

井出が、ほっと息を吐いて、立ちあがる。虫酸の走るような笑顔で、わたしに頭をさげた。

旅館に入ると、和服の仲居が、愛想よく出迎えた。わたしは言われるまま、スリッパに履き替えた。

田所校長が、仲居と馴れ馴れしく言葉を交わしながら、廊下を先に進んでいく。わたしと井出は、その後に従う形で付いていった。

「宿のほうには、父と娘ということにしてありますので。お父様の出張に、急遽、娘さんが同行することになったと」

後ろから、井出が耳打ちした。

わたしは立ち止まって、井出を見つめた。

「まさか、校長先生と若い女性教師が同じ部屋に寝泊まりしたとなると、いろいろと……」

井出が、いやらしく笑う。

わたしは、火が点きそうなくらい井出の顔を睨んでから、顔を背けた。

(写真:iStock.com/takkuu)

仲居が、磨りガラスの扉を開けた。

小さな三和土でスリッパを脱ぎ、部屋にあがる。十五畳ほどの広さだ。部屋の中央に、炬燵が出してある。深呼吸をすると、畳の青々とした香りが、胸に満ちた。障子は開け放たれており、立派な庭が眺められる。外で聞こえていた添水が、目の前にあった。縁側は板間になっており、テーブルと安楽椅子が並べてある。部屋の隅には、四本脚のテレビが置いてあった。カラーの三色マークが誇らしげに張ってある。床の間には、高価そうな青磁の壺が飾られており、その向こうに、水墨画の掛け軸がさがっていた。

襖を開けると、そこにも十畳の部屋があった。こちらにテレビはなく、押入があるばかりだ。柱は黒ずんでいて、畳もやや色落ちしている。どうやら、古い部屋に新しい部屋を継ぎ足すように増築した結果らしい。それでも仲居が、この旅館でいちばん広い部屋なのだと、胸を張った。

仲居が、どうぞごゆっくりおくつろぎください、と三つ指をついてから、引きさがった。

「じゃあ井出君はもういいよ」

田所校長が早くも、朱色のネクタイを緩めている。

井出が、ではまた明日お迎えに参ります、と何度も頭をさげながら出ていった。

「川尻先生は、奥の部屋を使ってください。まったく、こんなことになってご不満でしょうが、我慢してください」

「いえ」

「せっかくですから、浴衣に着替えてはいかがですか。温泉を楽しんでから、夕食にしましょう」

田所校長が、さっきまでの不機嫌が嘘のように言った。

わたしは、奥の部屋に移った。襖で仕切ると、たしかに部屋としては独立していた。しかし、襖一枚を隔てた向こうに成人男性がいると思うと、やはり緊張してしまう。しかも威厳ある校長だ。わたしは、くつろぐどころではないことに、やっと気づいた。

息を吐いてから、天井からぶら下がっている電灯を消した。部屋が暗くなった。窓ぎわに立ち、外を見る。人工灯に照らされた庭園が、妙に寒々しい。隣の部屋から、田所校長の着替える気配が漏れてくる。わたしはカーテンを閉め、旅館が用意してくれた浴衣を広げた。襖の隙間から漏れてくる細い光を頼りに、洋服を脱ぎ、浴衣に腕を通す。

光が揺れた。

はっとして、前を閉じた。

襖を見た。

田所校長が覗いているのではないか。そんな気がしたが、すぐに打ち消した。仮にも校長なのだ。そんな破廉恥な行為をするはずがなかった。

入浴後、部屋でともに夕食をとった。食事は、仲居が部屋まで運んでくれた。わたしの家は決して貧しくはないが、それでもこれほどのご馳走は、めったに口にできない。にも拘わらず、わたしは箸がすすまなかった。反対に田所校長は、さかんに舌鼓を打っている。

わたしは、田所校長と向き合うことに、疲れていた。早く解放されて、床につきたかった。慣れぬ酒を口にしたこともあり、瞼が重くなってくる。田所校長の口は、休むことなく動いているが、わたしの耳には何も届かない。それでも田所校長は、酒に顔を赤らめ、背中を丸めて、退屈な話を続ける。

「私は東京帝国大、いまの東大ですが、まだ学生だったときに、召集されましてね。学徒動員です。あのときは、もうこれで死ぬんだと覚悟しました。三十年近く後に、あなたのようなチャーミングな女性と、二人で食事ができるとは、夢にも思いませんでしたよ」

田所校長が、銚子を持った。

「どうです。もう一杯」

「いえ、わたくしはもう……」

「そう言わずに」

「では、これで最後にして、休ませていただきます。明日もありますし」

「また、そんなつれないことを、今夜はとことん飲みましょう、ねえ、川尻先生。ところで、佐伯先生とは仲がよろしいようですねえ」

田所校長が、さりげない口調で付け加えた。わたしは、田所校長の顔を見つめてしまった。

「まあたしかに、佐伯君はなかなかの男前だし、うら若き女性が心惹かれるのはわかります。しかしですねえ、だからといって、学校の廊下でべたべたと」

「待ってください。わたしがいつ、佐伯先生とべたべたしたというのですか?」

眠気は吹き飛んでいた。

田所校長が、顔を顰めて、顎を引く。

「いや、私が見たわけではなく、生徒たちのあいだに、そういう噂が広がっているということをですね、ほかの先生方から聞いたもので、まあなにぶん、中学生ともなるとその、性にも目覚めるころですし、風紀上、好ましくない噂、それが事実でないとしてもですよ、好ましくない噂の元になるような振る舞いは、避けられたほうが賢明ではないですかね、川尻先生ご自身のためにも」

わたしは目を閉じ、懸命に呼吸を整えた。

目を開ける。田所校長の顔を見ないで、頭をちょんとさげた。

「わたくし、これで失礼します。酔ってしまったようなので」

返事を聞かずに立ちあがり、隣の部屋に移った。襖を閉め、電気を消して、布団を被った。

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嫌われ松子の一生

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山田宗樹

1965年、愛知県生まれ。98年「直線の死角」で第18回横溝正史ミステリ大賞を受賞。2003年に発表した『嫌われ松子の一生』が大ベストセラーになり映画化され大きな話題を呼ぶ。13年『百年法』で、第66回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。著作に『天使の代理人』『ジバク』『死者の鼓動』『乱心タウン』『いよう』など。

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