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嫌われ松子の一生

2019.07.16 更新 ツイート

#5 なぜ伯母は殺されたのか…人生の光と影を描いた傑作巨編山田宗樹

東京で大学生活を満喫していた川尻笙は、突然の父の訪問で三十年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、彼女が何者かに殺されたことを知る。部屋の後始末を頼まれた笙は興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは彼にとって凄まじい人生との遭遇だった……。中谷美紀主演で映画化もされた、ベストセラー小説『嫌われ松子の一生』。物語の冒頭を、少しだけみなさんにお届けします。

*   *   *

「川尻松子さんのことで伺いました。昨日、連絡があったと思いますが」

「川尻というと……あっ」

(写真:iStock.com/Itsh)

前田継男の顔から、芝居っけが消えた。俺と明日香の顔を、交互に見る。明日香の顔で、視線が止まった。

「なんだ、お客じゃねえのか」

「すみません」

明日香が、しおらしく頭をさげる。俺もあわてて頭をさげた。

「あの殺された人だよね。まあなんというか、こんなことになってご愁傷さまだね。ええと、たしか甥っ子が片づけに来るってことだったけど……」

「あ、俺」

俺は手をあげた。愛想笑いも忘れない。

「あんたは?」

前田継男の目が、明日香に戻った。

「彼の知人です。いっしょに来るように頼まれて。一人だと気味が悪いからって」

それは違う。抗議しようとしたが、

「なんだよ、あんた男だろ、一人で来るのがおっかないなんて、情けねえなあ。お嬢さんも大変だねえ、こういう彼氏を持つと」

前田継男が、腕組みをした。

「まあ、こんなところで立ち話もなんだから、店に入ってよ、ね」

前田継男が、サッシ戸を開けて中に入っていった。

俺は明日香に向かって、

「誰がいっしょに来てくれって言ったよ?」

「細かいこと気にしないの」

店に入ると、ひやりとした。エアコンがつけっぱなしになっていたようだ。前田継男がリモコンをエアコンに向けると、ピ、と音がして、風音が小さくなった。

店内は狭かった。左の壁際に沿って、灰色のスチール机が二台置かれている。手前の机には一世代前のパソコン、奥の机にはプリンターが載っていた。正面の本棚には、物件のファイルらしきものが並んでいる。その左隣の、板張りの壁に掛かっているカレンダーは二種類。一つは旭町商店街の名前の入ったもの。日付の数字とメモ欄だけの、シンプルかつ実用的なタイプだ。もう一つは、水着姿のお姉さんが海辺で寝そべっている写真付き。小さな数字が、申し訳程度に印刷されている。

「適当なところに座ってくれるか」

前田継男が、棚からファイルを取ってから、机の下に収まっていた椅子を引き出し、どんと腰を落とす。お茶が出そうな雰囲気はない。

部屋のほぼ中央に、ガラス板の小さなテーブルと、ビニール張りの丸椅子があった。

俺と明日香は、丸椅子を引いて座った。

前田継男が、ううん、と唸りながら、ファイルをめくっていく。ときおり眉間にしわを寄せ、ファイルを遠ざけて見る。

「ああ、あった、あった。ひかり荘、川尻松子殿と……。ええと、家賃の滞納はなしだね。それと、三カ月分の敷金を預かっているんだけど、部屋の中がね、ほら……」

前田継男が、顔を顰めた。

「なんですか?」と俺。

「ああいう事件が起きちゃったからさ、いろいろあるわけよ、血の痕とか」

「ひどいのですか?」と明日香。

「まあね」

「いまも、そのまま?」

「だって、少ないとはいえ荷物もあるんだから、それを引き取ってもらってからじゃないと、畳の交換もできないだろ」

前田継男が、唇を尖らせた。

俺は、血に染まった畳を想像した。人ひとりが殺された凄惨な現場。阿鼻叫喚の跡、まさに地獄絵図……。これからその部屋に行くのだ。俺は初めて、明日香に付いてきてもらってよかった、と思った。

「それでね、まあ敷金は、その修繕費というか、それにあててもらえるとだね、こちらとしても助かるんだけどね」

その理屈が正当なものかどうかわからなかったが、もっともらしく聞こえたし、松子伯母のお金を自分がもらってどうする、という気もしたので、異議は唱えなかった。

「松子さん、家賃はきちんと払っていたのですか?」

「そうだね。家賃が滞って困ったってことはないかなあ。ただね……」

「はい?」

「まあ、死んだ人のことを言うのもなんだけど、あんまりいい店子じゃなかったね。周りの住人からも、けっこう苦情が来てたし」

「苦情というと?」

「いや、一つ一つは大したことじゃあないんだ。ゴミの収集日でもないのにゴミを出すとか、変な匂いがするとか、夜中に騒がしいとか」

「夜中に騒がしい?」と俺。

「そう。なんでもね」

前田継男が、身を乗り出す。

「ときどき、ものすごい喚き声がしたんだって。まるで誰かと怒鳴りあっているような感じなんだけど、誰かが部屋に出入りしている気配はない。一人芝居みたいな感じで、まあ、うるさいっていうより、気味が悪いって人が多くてね」

「その部屋、幽霊が出て、それを追っ払っていたとか。こんどは、松子伯母さんが出てきたりして」

俺は、気の利いたことを言ったつもりだったが、明日香は俯いてただ一言。

「馬鹿者」

前田継男までが、仏頂面になっている。

失言したらしい。俺は挽回するために、質問した。

「伯母さんは、どんなところで働いていたんですか。ホステスとか?」

「ホステスは無理だよ。年齢もそうだけど、あの図体じゃあね。デブ専の店ならオーケイかも知れないけど」

松子伯母は太っていたのか。

なぜか俺は、松子伯母に対し、痩せたホステスというイメージを抱いていた。蒸発して一人上京した女、水商売、ホステス。最初の対面がお骨、痩せている。無意識のうちに、そう連想してしまったらしい。

「でもまあ、家賃は払っていたし、小金でも貯めこんでいたか、どこかでパートでもしてたんじゃないかな。じゃあとりあえず、アパートに案内しようか」

前田継男が、両手を膝に突いてから、よいしょと立ちあがった。

「ところでおまえさんたち、手ぶらで来たの?」

俺は、明日香と顔を見合わせた。

「だって、後片づけするんだろ。荷造り用の紐やゴミ袋は?」

「あ」

「あ、じゃないよ。しょうがねえな。ま、いいや。きょうはうちがサービスしとくか。香典代わりにな」

(写真:iStock.com/kawamura_lucy)

松子伯母が住んでいたひかり荘まで、歩くことになった。旭町商店街の学園通りを、駅と反対方向にひたすら進むと、T字路にぶつかる。そこを左に折れ、定食屋や不動産屋、銭湯やコインランドリーを横目に歩き続けると、住宅の立ち並ぶ一帯に出た。数分歩いたところで、車一台がやっと通れる広さの路地を入る。さらに進んでいくと、ほんとうに煙草しか売っていない「たばこ屋」が左手に現れ、その手前の角を曲がった。

曲がったところに、細い路地が延びていた。道沿いには、古い集合住宅や民家が、ひしめいている。建物と建物の隙間が、ほとんどない。路地を歩いていると、テレビの音が漏れ聞こえてくる。バラエティ番組でも見ているのだろうか。

くぐもった爆笑が続いている。鰹だしの匂いまで、漂ってきた。生活の濃厚な気配が、身体にまとわりつく。他人の家に、無断で入りこんでいるような気分になった。

「まだですか」

「もうすぐだよ」

左手に、新築中の住宅が現れた。緑色のネットが張ってあって、中は見えない。ネットには、テレビCMでよく見る住宅メーカーの名前が、誇らしく掲げてある。

その家を通り過ぎたところで、前田継男が足を止めた。

「さ、着いた」

新築住宅の隣は、黒ずんだブロック塀に挟まれた、小さな駐車場だった。旧型の白いスカイラインと、エアロパーツのごてごてと付いた赤いファミリアと、十年くらい洗車してなさそうな埃まみれのワゴン車が、並んで停めてある。スカイラインの周りには、水の入ったペットボトルが、何本も置かれていた。地面は土が剥き出しだが、よく見ると、砂利石がわずかに残っている。ブロック塀の地際には雑草が茂っており、その葉は朝露に濡れていた。「月極駐車場 無断駐車は壱萬円申し受けます」という手書きの看板がなければ、単なる空き地にしか見えない。そして、この駐車場の向こう側に、古びたアパートがひっそりと建っている。それが、ひかり荘だった。

ひかり荘は、木造モルタルの二階建てで、各階四部屋ずつ。壁もドアもくすんだベージュ色で、屋根は褐色のトタン屋根だった。二階へは錆の浮いた鉄製の階段をのぼるのだが、その角度は六十度くらいありそうで、見るからに危なっかしい。階段の上には波板の庇がかかっているが、ところどころに穴が開いている。「関係者以外の立ち入りを禁ず」と書かれたプラスチックプレートが、階段の上り口にぶら下がっているが、関係者でも立ち入りたくないような佇まいだった。

「ずいぶん古そうですけど」

「そりゃあ築二十五年だからね。その代わり家賃は三万。風呂はないけど、トイレと流しが付いてこの値段なら、悪くはないよ」

背後に人の気配がした。振り向くと、痩せた若い男が、路地から駐車場に入ってくるところだった。黄色いランニングシャツにカーキ色のハーフパンツ、サンダル履き。金色の髪はパーマで固めてある。一重の目つきは鋭く、鼻の下には細い口ひげときた。これで入れ墨が彫ってあれば完璧だったが、肩や腕の肌にはシミひとつなく、男にしては艶めかしいほど白かった。右手に、コンビニの白い袋をさげており、コーラのペットボトルがのぞいている。

「ああ、大倉君、ごきげんさん」

前田継男が、大きな声で言った。

大倉と呼ばれた男が、ども、と頭をさげた。しかしその視線は、明日香の身体を舐めるようになぞっている。この瞬間俺は、大倉某は嫌な奴だと決めた。

「なに、ここに入るの? この二人?」

大倉某が、歯を剥いて笑った。

「いや、こちらは、一〇四号室の川尻さんの親戚で、後片づけにみえたんだよ」

大倉某が、口を開けたまま、顔を顰めた。

「そうだよな。このボロアパートに、こんな可愛い子が住むわけないもんな」

「こちらは?」

俺は、言葉に刺を含ませた。

「一〇三号室の大倉脩二君」

「というと、伯母さんのお隣さん」

「そういうこと」

大倉脩二が、横目で俺を見る。

「あの」

明日香が、口を開いた。

「あとで、川尻松子さんについて、お話を伺えませんか?」

「いいけど、これも来るの?」

と差した指は、俺に向いていた。

「もちろん、俺もいっしょだよ」

とたんに大倉脩二が、面白くなさそうな顔をする。

「オレだって、そんなに知らないよ。いくらお隣さんでも」

「どんなことでもいいんです。お願いします」

大倉脩二が、根負けしたように、

「わかった、わかった。じゃ、片づけが終わってから呼んでよ。きょうはずっと部屋にいるから」

俺に一瞥をくれてから、離れていく。一〇三号室に消えるのを待って、俺は明日香に言った。

「なんであんな奴に話を聞くんだよ?」

「だって、生前の松子さんのこと、いろいろと知っておきたいじゃない」

「俺は興味ないよ」

「あたしはあるの」

「でもあの男に聞くことはないだろ」

「だってお隣さんよ」

「お隣だって……」

「ちょっと待った!」

前田継男が、両手で割って入ってきた。

「おまえさんたち仲悪いなあ。喧嘩なら用事を済ませてからにしてくれよ」

前田継男が、荷造り用の紐とゴミ袋の束を、差し出した。

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山田宗樹

1965年、愛知県生まれ。98年「直線の死角」で第18回横溝正史ミステリ大賞を受賞。2003年に発表した『嫌われ松子の一生』が大ベストセラーになり映画化され大きな話題を呼ぶ。13年『百年法』で、第66回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。著作に『天使の代理人』『ジバク』『死者の鼓動』『乱心タウン』『いよう』など。

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