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嫌われ松子の一生

2019.07.14 更新 ツイート

#4 この男、絶対に許さない…人生の光と影を描いた傑作巨編山田宗樹

東京で大学生活を満喫していた川尻笙は、突然の父の訪問で三十年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、彼女が何者かに殺されたことを知る。部屋の後始末を頼まれた笙は興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは彼にとって凄まじい人生との遭遇だった……。中谷美紀主演で映画化もされた、ベストセラー小説『嫌われ松子の一生』。物語の冒頭を、少しだけみなさんにお届けします。

*   *   *

暗かった。

朝ではない。

息苦しさを感じる。

(写真:iStock.com/Favor_of_God)

夢を見ているのだろうか。何かに押し潰される夢。必死に藻掻くけれども、どうしても逃れられない悪夢。またいつもの夢。……いや、違う。

目の端に、一条の光が入る。

そうだ。ここは旅先の宿だった。襖を隔てたところに、田所校長がいるのだ。

どうしたのだろう。身体が動かない。重いものにのしかかられているような感覚。声も出ない。

おかしい。

尋常でないことが起こっている。

浴衣のあいだから、ざらざらとした冷たいものが、滑りこんできた。胸の先端が、にぶく痛みだす。荒い息づかい。生温かく濡れた何かが、狂ったように首筋を這っている。

隣の部屋から漏れてくる光線の中を、埃の粒子が舞っている。

わたしは何をしているのだろう。何をされているのだろう。頭が朦朧として、わからない。

胸を動き回っていた手が、腹に移った。さらに下に、と思った瞬間、下腹部に鋭い痛みが走った。呻いた。頭にかかっていた靄が晴れた。何が起こっているのか悟った。信じられなかった。

わたしは必死に、のしかかっているものを押し戻そうとした。腕に力が入らなかった。食いしばった歯の間から、声が漏れた。冷たい手で、口を塞がれた。耳元に、酒臭い息がかかった。

「悪いようにはしないから、ね」

鳥肌がたった。経験したこともないほどの怒りが、四肢に漲った。わたしは醜い獣をはね除けた。その頬を張った。

田所校長の影が、動きを止めた。

コオロギの声が、外から聞こえてきた。

そして、添水の音。

わたしは、乱れた裾を直し、前をぎゅっと閉じ、田所校長を睨みつけた。

部屋に、二人の息づかいだけが、満ちていく。

田所校長が、笑い声をあげた。

「いや、川尻先生、何を勘違いされたのですか。相当酔っておられるようですな」

わたしは、睨んだまま、黙っていた。

「私も休むことにします」

田所校長が、口元を拭いながら、立ちあがった。部屋を出て、後ろ手に襖を閉めた。

わたしは、背を丸め、乳房を抱いた。誰にも触らせたことがなかったのに。

怒りはまだ、体内を駆けめぐっている。震えが止まらない。はっと気づいた。恐る恐る、股間に手をやる。ぬるりとした感触が、返ってきた。指を、光線に晒す。血が付いていた。

わたしは、閉められた襖に目を向けた。いま手拭いで首を絞めたら、殺せるだろうか。

殺してやる。

頭では思っても、身体は動かなかった。

一睡もできなかった。

窓が明るくなるころ、田所校長の起きあがる気配がした。わたしは襖から目を離さなかった。気配は近づいてこない。便所に行ったらしい。わたしも尿意を感じた。便所に行くには、田所校長の部屋を通らねばならない。行くなら今だ。

わたしは立ちあがり、襖を開けた。足早に部屋を横切り、三和土におりようとしたとき、磨りガラスに人影が映った。胃が跳ねあがった。わたしは一歩、後ろにさがった。それきり脚が、動かなくなった。

扉が開いた。

三和土に入ってきた田所校長が、わたしを見あげる。口を半開きにしてから、笑みを浮かべた。

「おはようございます。よく眠れましたか」

田所校長が、何事もなかったかのように声をかけ、スリッパを脱いで、部屋にあがってくる。わたしの横を通り過ぎようとして、足を止めた。

「ああ、そうだ」

わざとらしい仕草で、わたしと向き合う。

「川尻先生、昨晩のことは憶えておいでですか。ずいぶんと酔っておられたようですが」

「はい。よく憶えております」

反射的に返していた。

「誤解を与えるといけませんから、はっきりとさせておきたいのですが、昨晩は川尻先生が泥酔されて、歩くのもおぼつかない状況だったのですよ。それで私が手をお貸しして、隣の部屋までお連れしたのですが、そのときいきなり私に抱きついてきたのです。そのまま布団に倒れこんで放そうとしないから、私も閉口しましたよ」

わたしは言葉を失った。そしてはっきりと知った。目の前にいるのは、聖職者の長たる人物ではない。卑怯で、下劣で、醜悪な、見下げ果てた男なのだ。

「校長先生、修学旅行の下見という名目で、実際に使わない宿に泊まったり、若い女性教師と同じ部屋に泊まったりして、問題はないのですか。しかも、女性教師に乱暴をしようと……」

田所校長の顔から、笑みが消えた。憮然と胸を反らす。

「いっしょの部屋にしてくれと言ったのは、川尻先生、あなたなのですよ。忘れたのですか。それに、さっきも言ったように、あれはあなたのほうから抱きついてきたのです。布団に倒れながらご自分が口走った言葉を、ほんとうに忘れてしまったのですか」

「……何と口走ったというのですか?」

声が震えた。

「口にするのも汚らわしい、卑猥な言葉です。とにかく、私があなたを乱暴しようとしたなどと妄想を抱かれるとは、こっちこそ迷惑千万な話だ」

「そんな……」

田所校長が、余裕の顔で、息を吐いた。

「この際だから言いますが、あなたについては芳しからぬ噂が、いろいろとあるのですよ。佐伯君の件にしても、あなたのほうから誘惑しているという話がもっぱらです。わかりますか。もし、さっきのような妄想を話したとしても、世間は信じないでしょう。あなたの立場がなくなるだけです。自重されることですな」

わたしは、唇を噛んだ。悔しくて目を伏せた。

泣くものか。

ただそれだけを、思った。

3

(写真:iStock.com/kawamura_lucy)

翌日は気温がさがった。寒気が南下したとかで、しのぎやすくはなるものの、大気が不安定になっているので、出かけるときは傘を忘れずにと、天気予報の綺麗なお姉さんが言っていた。今年の太平洋高気圧は、まだ強くはないのだ。

俺と明日香は、朝九時過ぎに目を覚まし、いざ日ノ出町へと向かった。最寄りの駅は北千住となる。

いつもなら、アパートから西荻窪駅まで、大学や友人の話をして、ときには笑いころげながら歩くのだが、きょうの明日香は静かだった。俺が話しかけても、生返事しかしない。俺も気分が削がれ、総武線、山手線、常磐線と乗り継ぐあいだも、めずらしく寡黙になった。

JR北千住駅東口のエスカレーターを降りると、旭町商店街は目の前だった。石畳の通りは、車がすれ違える程度の広さで、隙間なく並び立っている店舗からは、ラーメン屋、パチンコ店、喫茶店にレンタルビデオ、コンビニ、靴屋、歯科医院から美容室まで、ありとあらゆる店の看板が突き出ている。一ブロック向こうには、「学園通り」と書かれたアーチが通りをまたいでおり、備え付けられた電光掲示板が、朝日新聞ニュースを伝えていた。

脇に目を向けると、駅舎の壁際近くに木製の台が置いてあり、ビニール袋に詰めたキムチが並べてあった。値段を見ると、一袋三百五十円とある。やがて、どこからともなく白髪混じりのおばさんが現れ、台の脇に置いてある折り畳み椅子に座った。愛想笑いをするでもなく、無表情のまま通りを眺めている。

振り返ると、明日香が、さっさと先を進んでいた。俺は、後ろ髪を引かれるような思いでその場を離れ、明日香を追った。

「なあ、腹へらないか? 朝も食べてないし」

明日香の背中に、ぶつかりそうになった。明日香が急に立ち止まったのだ。

「なんだよ」

明日香が指さした先には、「ロッテリア」があった。

「なんか、味のある町だね」

フライドポテトを口にしながら、明日香が言った。目は、通りに向いている。俺はハンバーガー二つとポテトとコーラを注文したが、明日香はポテトとウーロン茶だけだった。本来なら、俺より大食いのはずだが。

時間が早いせいか、人通りは多くない。まだ開いていない店もある。荷台にビールケースを載せたトラックや、宅配便、ボディにロゴマークの入った商用車が、頻繁に通る。商売の臨戦態勢を整えているといった感じだった。通りを行き交う人も、スーツ姿の男性やキャリアウーマン風の女性から、エプロン姿のおばさん、自転車に子供を乗せた若いお母さん、コンビニの袋をさげた寝ぼけ顔の男まで、様々だった。

「世の中には、いろんな人がいるんだね」

俺は、明日香の横顔を見つめてしまった。

きょうの明日香は、おかしい。

元気がないだけではなく、ときおり思い詰めた目をする。二人のあいだの空気も、きのう親父が帰ってから、妙にぎくしゃくしている。結局昨夜は、一発もやらせてくれなかったし。

俺がハンバーガーを平らげても、明日香のポテトは半分も減っていなかった。

「食べないの?」

明日香が黙って、ポテトを差し出した。俺は受け取り、五、六本まとめて頬ばりながら、

「どうしたの、食欲ないじゃん」

「笙、よくそんなに食べられるよね。これから松子さんが亡くなった部屋に行くのに」

「腹がへっては戦ができないだろ」

明日香がまた、沈んだ顔をする。明日香にそんな表情は似合わない。俺は明日香の笑顔が好きなのに。

「来たくなかったら、来なくたっていいんだぜ」

明日香が、俺を睨んだ。きのうから睨まれてばかりのような気がする。

「そんなこと言ってないでしょ」

明日香が席を立ち、店の出口に向かう。俺は残りのポテトを、明日香の飲み残しのウーロン茶で流しこんでから、後を追った。

マエダ不動産は、「ロッテリア」から少し歩いたところにあった。こぢんまりとした建物で、木目調のサッシ戸の入り口には、賃貸物件の紹介カードがびっしりと貼ってある。カードの隙間から中を覗いたが、人影はない。

「誰もいないみたいだぞ」

自転車のブレーキ音が聞こえた。振り向くと、眼鏡をかけた中年の男が、自転車に乗ったまま、

「いらっしゃい。どんなのお探しですか?」

と愛想よく言った。半袖のニットシャツにグレーのズボン。髪には寝癖がついたままだ。

「あ、いや、俺たちはその……」

「マエダ不動産の方ですか?」

明日香が、落ち着いた声で応えた。

「はいはい、そうですよ。私が前田継男、ここの主人でございますよっと」

と調子よく答えながら、自転車を降りて、

「別名、旭町商店街のお祭り男!」

目を剥いて、歌舞伎の見得を切った。

俺は思わず吹き出したが、明日香はにこりともしない。

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山田宗樹

1965年、愛知県生まれ。98年「直線の死角」で第18回横溝正史ミステリ大賞を受賞。2003年に発表した『嫌われ松子の一生』が大ベストセラーになり映画化され大きな話題を呼ぶ。13年『百年法』で、第66回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。著作に『天使の代理人』『ジバク』『死者の鼓動』『乱心タウン』『いよう』など。

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