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作家の人たち

2019.04.24 公開 ツイート

試し読みその4。

「悪魔のささやき」 倉知淳

本格ミステリ作家・倉知淳さんが本格的に“ふざけた”(!?)最新刊『作家の人たち』から「悪魔のささやき」の試し読みです。

「明日の〆切を延ばしてほしい」(ベテラン作家)。「書評家に誉められたい」(中堅エンタメ作家)。「超売れっ子の原稿がもっとほしい」(中間小説誌の編集者)。悪魔は願いを叶えてくれたが……。

*   *   *

CASE・1

「しまった、〆切りをすっかり忘れていた」
思わず声に出してしまった。
深夜の書斎でのことである。

まるで何かの説明をするみたいな独り言をつぶやいてしまうほどの、自分でも驚くくらい、あまりにも大きなポカだった。馬歩鎌太は、愕然とするばかりだ。

馬歩鎌太は作家である。ベテランと呼ばれる年齢で、割と売れているといってもいいだろう。その証拠に〆切りが重なって多忙である。月末ともなるとおちおち眠ってもいられなくなる。このところ一週間ばかり、一日の平均睡眠時間はだいたい三時間ほどだろうか。そして起きている時間はほぼずっと、仕事机の前でキーボードを打っているのだ。週刊連載が二本に月刊誌の連載が四本、そこへ長編のゲラが二冊分、重なってしまった。この長編も以前に月刊誌で連載していたもので、校閲から回ってきて赤を入れなくてはならない。それらの〆切りに間に合うように、ぶっ通しで書き続けた。それこそ寝食を忘れて。

そして先ほどようやく、今月最後の一本を書き終えたばかりだった。お陰でへろへろである。体力はとうに限界を過ぎている。手が痛く、腰も痛い。目がしょぼしょぼする。今すぐにでもベッドに倒れ込みたい。

そんな時、スケジュールノートに挟んだメモに気がついた。明日〆切りの読み切り短編を、某文芸誌から依頼されていたのだ。イレギュラーな単発仕事なので完全に失念していた。今の今まですっかり忘れていた。これが思わず声を上げてしまった原因である。

秘書でもいてスケジュール管理をしてくれていれば、こんな事故は起こらなかったはずだ。担当編集者や同業の作家仲間からはよく云われていた。「馬歩さんくらいの作家なら、普通は秘書を雇いますよ」と。

しかし馬歩は、小説というものは一人で黙々とやる仕事だと思っていた。確たる信念があるわけではないけれど、何となく億劫で、秘書の件は延ばし延ばしにしているうちにあやふやになってしまったのだ。そのせいで、とうとうこんな大ポカをやらかしたわけである。スケジュール管理をアナログ方式でやっているのも災いした。六十過ぎの馬歩にとってはスマートフォンやらパソコンなどより、ノートやメモの方に馴染みがあるのはやむを得ないことであろう。

などと言い訳してみたところでどうにもならぬ。どうしよう、〆切りは明日だ。メモには、明日の正午とある。デッドラインは遅くても明日の夕方だろうか。それまでに四十枚の短編を書かなくてはいけない。
書けるか? 今は午前三時。時間は一応、十二時間以上ある。無理をしてがむしゃらに書けば、できない分量ではない。

しかしそれは、気力も体力も充実している場合の話である。今夜はもう限界だ。何しろずっとまともに睡眠を取っていない。体力はすっからかん。先ほど最後の〆切り分を終わらせたと思い込んでいたので、集中力も完全に途切れてしまった。気力も、振り絞れるとは思えない。アイディアのストックもない。これから一から考えて書くのは到底不可能といっていいだろう。若い頃ならば無理も利いただろうが、還暦過ぎた身には応える。これはダメか。落とすしかないのか。〆切りは諦めるか。馬歩は観念しかけた。

その時、仕事机の隅に置いてあった一冊の本が音もなく開いた。風もないのに、手も触れていないのに、表紙が静かに開いたのだ。

何だ、なんなんだ、これは。思わず目を剥く馬歩の眼前で、本のページの間から白い煙が立ちのぼった。綿飴のような濃密な煙で一瞬、目の前がまっ白になった。

しかし不思議なことに、煙はすぐにかき消えた。まるで、目に見えない空気清浄機にでも吸い込まれるみたいに、あっという間に空中の一点に集まって消えてしまったのだ。まさに煙のごとく、である。

びっくり仰天する馬歩だったが、さらに驚くべきことに煙の消えたその場所に、不気味な生物が立っていた。いや、これは生物と呼んでいいのだろうか。

大きさは猫くらいだ。体毛が黒いから黒猫である。だが、それは猫などではない。直立しているのだ。骨格的には類人猿を思わせる立ち方だった。腕と手指も、猿のような感じではある。そしてその顔も、醜い猿みたいだ。ただし耳は大きく尖り、口元から牙が覗いている。猿を思わせるその顔に、にやにやしたいやらしい不快な笑みを湛えているのが不気味だ。さらに背中にはコウモリみたいな翼が生え、長く細い尻尾の先端がスペードの形をしていた。

と、そいつが口を開く。

「オレは本の悪魔。本にまつわる仕事をしている者の前に現れる。お前は作家だろう。だから出てきてやったんだ」

耳障りな軋むような声で、その不気味な生物は云った。猿のような顔には、下卑たにやにや笑いを浮かべたままだった。

なるほど、悪魔か。そういわれればそうとしか見えないな。馬歩は納得した。

普段ならば、このような超常現象など信じるタイプではない。馬歩は合理主義者だ。ところが今は、すんなりと受け入れられた。空中に突如として現れる悪魔などという超常的な存在が、何の疑いもなく呑み込めていた。後から思えば、悪魔の赤く光る妖しい瞳の能力で、そういうふうに思念を操られていたのかもしれない。もしくはそうしたフェロモンのようなものが黒猫みたいな身体から発せられていたのか。

とにかく、まったく疑問に感じずに馬歩は、そいつに向かって尋ねていた。

「その悪魔とやらが何しに出てきたんだ」

「お前が困っているようだからな、それを助けてやろうと思ったのだ」

悪魔は軋むような不気味な声で、にやにや笑いながら答える。心なしか言葉のイントネーションも少しおかしい。

「俺が困っているのが判ったのか」

「そりゃ悪魔だからな、何でもお見通しさ。困っている作家は、オレのいわばお得意さんのようなものだ」

「確かに俺は作家だし、切羽詰まってもいる。しかし具体的に何ができるんだ」

「何でもできるぜ、お前の願いを叶えてやる。ただし、不老不死や火星への旅行なんかを願ってもダメだ。オレは本の悪魔だからな、できるのは本にまつわることだけだ。さあ、望みを云え」

「その代わりに魂をよこせと云うんだな」

「けっ、くだらん、信仰心のない人間の魂なんか要らないよ」

と、悪魔は鼻で笑って、

「もしオレが魂をもらうにしても、それは敬虔な神の信徒のものでないとつまらない。お前は違うだろう」

「まあな」

悪魔の問いかけに馬歩はうなずく。そういう点において馬歩は、典型的な日本人だ。元旦は神社へ初詣に行き、灌仏会の縁日を冷やかして、クリスマスにはシャンパンで乾杯する。郷里の先祖代々の墓所は、確か曹洞宗の寺にあったはずだ。

「だからお前の魂なんかほしくもない。こいつはいってみれば、退屈しのぎのサービスだ。何でも望みを叶えてやる、それだけのために出てきたんだ」

「無償で、か」

「もちろんだ」

「そんなうまい話があるのか」

「疑り深い男だな。悪魔だからといって悪いことばかりをするわけではない。退屈しのぎだと云っただろう。ボランティアと云い替えてやってもいいぜ」

悪魔はにやにやと笑って云った。

「ううむ、そうか」

馬歩は腕を組んで考えた。どうやらこちらにデメリットのある話でもなさそうだ。

「よし、判った、願いを云う」

「ああ、どんな望みでも叶えてやるぜ」

「明日〆切りの仕事があるんだ、いや、もう日付が変わっているから正確には今日だな。それを延ばしてほしい」

馬歩は云った。こんなささやかな望みならば、万一しっぺ返しを喰らうとしても特に大きな不幸に見舞われることもないだろう。

「どうだ、できるか」

「たやすいことだ」

にやにやと笑ったまま、悪魔はうなずく。

「では、お前が今抱えている〆切りは延びる。望みは叶うだろう」

そう悪魔が云ったとたん、ぼんっと小さな音がして、また白い煙が立ちのぼった。目の前が一瞬、まっ白になる。しかしその煙はすぐに立ち消え、それと同時に悪魔の姿も見えなくなっていた。跡形もなく消失している。ただ、悪魔の出現した本の表紙が開いたままなのが、唯一、超常的な現象があったことの名残だった。

何だったんだ、今のは──。

馬歩は、悪魔の消え去った辺りの空間を見ながら呆然としていた。

悪魔が現れた。午前三時の、俺の書斎に──。

(続きは単行本で)

関連書籍

倉知淳『作家の人たち』

文学賞のパーティーで、大手出版社四社の編集者が暗い顔で集っている。皆、ある中堅作家につきまとわれて困っているのだ(「押し売り作家」)。苦節十年、やっと小説の新人賞を受賞しデビューした川獺雲助は会社を辞めて作家に専念することにした。しばらくは順調だったが……(「夢の印税生活」)。ほか、出版稼業の悲喜交々を描く連作小説。

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