

書店での仕事をはじめたばかりのころ、当時勤めていた店で、あるときから同じ初老の男性によく話しかけられるようになった。その姿を見かける割にはレジで会計することはほとんどなく、わたしに話しかけてきたのも、いま考えれば先輩の女性社員たちからは相手にされなくなったからだと思う。以前は出版社に勤めていたというHは、「新入社員か?」「この店にはもう何年も前からきている」と威厳を見せるように話し、こちらが忙しくてあまり相手にしないそぶりを見せると、「ちゃんと年長者の言うことを聞け」と身体を震わせながら急に怒りはじめた。
そんなある日、Hから「おごってやるから、仕事が終わったら飲みにいかないか」と誘われた。いまならまず断るだろうが、社会人になり「はやく何者かになりたい」と焦っていた当時は、その誘いにも「その後につながる何かがあるかも」と、若干の期待を持って出かけていった。
指定された店は大衆的な(つまり安い)居酒屋で、その時間のほとんどは、家での肩身の狭さや、誰も本を読まなくなったというHの愚痴を聞きながら過ごすことになった。「早く帰りたいな……」と思う気持ちが顔に出ていたのだろうか、それを見たHは急に親密な口調になり「でも、辻山君には見どころがあるよ。本の世界は大変もしれないけど、頑張っていかなきゃな」と笑顔を見せながら、諭すように言った。仕事をはじめて、誰かにそんな温かい言葉をかけてもらうことがなかったので、その時は素直に嬉しかった。
それからしばらく経ち、遅番で出勤した日のことだ。店にはなぜか警察官の姿が見え、事務所のなかはざわついた空気が漂っていた。「何かあったんですか」と近くにいたAさんに聞くと、「Hさんが万引きで捕まったのよ……」と、Aさんはやりきれない表情をして答えた。当時店には私服の警備員が入っていて、Hが会計前の雑誌を鞄に入れるところを、その人が見つけたのである。これまでもHが店のなかで万引きを繰り返していたことが、取り調べから新たにわかった。
あわてて売場に出てみると、警察官に連れられて外へと向かうHの後ろ姿が見えた。うつむいて誰とも目を合わさず、Hはそのままエスカレーターを降りていき、それが彼を見た最後の姿となった。その日一日は動揺したまま過ごし、果たして自分はこの仕事を続けていけるのだろうかと、作業にまったく身が入らなかった。

いまでも本屋の仕事をしていると、Hのことを思い出すときがある。
店には多くの客が来るが、そこで過ごす時間はお互い〈よそゆき〉のものだ。それでも店をやっていれば、その人のよそゆきでない人生に、不意に立ち会わなければならない瞬間がある。「本屋はきれいごとだけではない」と実感するのは、決まってそのような時である。
今回のおすすめ本
鳥の眼を持ち、日本列島各地を微細に、マニアックに描ききったイラストレーターがいた。それは移り変わる街の様子を捉えるとともに、同じ時間に様々な街が平等に存在しているという驚きでもある。しかし、この絵が〈週刊〉で描かれていたとは、どう考えても信じられない。
◯Titleからのお知らせ
12月1日(火)から営業時間が変更になります。詳細はこちらをご覧ください。
◯2021年1月14日(木)~ 2021年2月2日(火)Title2階ギャラリー
文芸誌『MONKEY』創刊から7年以上続く岸本佐知子の人気連載『死ぬまでに行きたい海』が書籍化(スイッチ・パブリッシング刊)。本展覧会では著者が出かけていった先々で「あまり高性能でないスマートフォン」で撮影した写真を展示。岸本佐知子独自の視点を、“文章”ではなく“写真”で堪能いただける貴重な機会です。
◯2021年1月16日(土)~ 2021年1月17日(日)Title店頭
Titleのりんごジュースは世田谷のムカイ林檎店から仕入れています。そのムカイ林檎店が今シーズンも1月16日、17日の両日、Titleの店頭にてリンゴの行商を行います! 毎年好評のこの企画、新鮮な林檎をお求めできる機会ですので、ぜひふらりと足をお運びくださいませ。
◯2021年2月5日(金)~ 2021年2月25日(木)Title2階ギャラリー
山田愼二写真展「詩人・田村隆一」
『ぼくの鎌倉散歩』(田村隆一著・港の人刊)刊行記念
酒を愛し、自由を愛し、生涯を詩人として生き通した田村隆一。その最晩年の姿をとらえたフォトグラファー・山田愼二による貴重なポートレイト群を、田村隆一の詩の言葉とともに展示。
◯ミライのアイデア インタビュー
大型書店でもセレクト書店でもない、Titleが歩む独自の道
話し手:Title 辻山良雄さん
◯webちくま書評
ふたりでなければ……『女ともだち――靜代に捧ぐ』(早川義夫著)
◯『本屋、はじめました』増補版がちくま文庫から発売、たちまち重版!!
文庫版のための一章「その後のTitle」(「五年目のTitle」「売上と利益のこと」「Titleがある街」「本屋ブーム(?)に思うこと」「ひとりのbooksellerとして」「後悔してますか?」などなど)を書きおろしました。解説は若松英輔さん。
◯辻山良雄・文/nakaban・絵『ことばの生まれる景色』ナナロク社
店主・辻山が選んだ古典名作から現代作品まで40冊の紹介文と、画家nakaban氏が本の魂をすくいとって描いた絵が同時に楽しめる新しいブックガイド。贅沢なオールカラー。
春、夏、秋、冬……日々に1冊の本を。書店「Title」の店主が紹介する、暮らしを彩るこれからのスタンダードな本365冊。
◯辻山良雄『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』苦楽堂 ※5刷、ロングセラー!! 単行本
「自分の店」をはじめるときに、大切なことはなんだろう?物件探し、店舗デザイン、カフェのメニュー、イベント、ウェブ、そして「棚づくり」の実際。
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。