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モヤモヤするあの人

2018.09.10 公開 ポスト

蓄膿症の手術をし、36歳から始まった「人」としての生活
宮崎智之

iStock/parinyabinsuk

好評2刷の文庫『モヤモヤするあの人~常識と非常識のあいだ~』。著者の宮崎智之さんは、長年、鼻づまりに悩まされてきました。子どもの頃は口呼吸をしていて、ほとんど自我がない「肉」だったそうです。宮崎さんが世間に感じる「モヤモヤ」と蓄膿症は果たして関係していたのでしょうか……。

鼻づまりと青春

桜のつぼみが膨らみはじめる2018年3月、筆者は慢性副鼻腔炎(蓄膿症)と鼻中隔弯曲症などの手術のために入院した。

蓄膿症には、幼少の頃から悩まされていた。特に小学生の頃は完全に鼻がつまっていて、いつもボーっとしていた。その頃の自分を一言で表すとすれば、「肉」である。ただの肉が喋ったり、ご飯を食べたりしていた。肉は肉なりに楽しい人生だったが、当然のことながらほとんど記憶がない。

そんな肉が「人」になったのは、中学2年生の時のこと。担任の先生から「お前は口呼吸しているから、頑張って鼻で呼吸してみろ」と勧められたのだった。その頃には、身長が伸びて鼻づまりも若干緩和していたこともあり、筆者は恐る恐る鼻で呼吸をしてみた。すると、どうだろう。突然、目の前が開けたのだ。それまでは視界がぼんやりしていて、他人と自分との区別もつかなかったのだが、自我とも呼べるものに目覚め始めたのだった。

しかし、そのあともやっぱり鼻づまりは完全に治らず、肉的な愚鈍さが抜けきらないまま、35歳まできてしまった。そして今年の3月、36歳を目前にして、ようやく以前から医者に勧められていた手術を決断したのだ。

批評家、作家の吉田健一は、「我が青春記」というエッセイの中で、27、8歳の頃に蓄膿症の手術をし、その後の心境を「青春の始まりだった」と表現した。「随分遅い青春のようでもあるが、この手術が見事に成功した後と、その前では、気分の上でまだ春になり掛けの曇った日に雪が薄ら寒く降っているのと、青空の下で桜が満開している位の違いがあるので、これを青春とそうでない前の境目にしたい」と。

筆者も遅い(遅すぎる!)青春を迎えることができるのだろうか。肉から完全に人になることができるのだろうか。もしかしたら、突然頭が冴えて、とんでもなく素晴らしい文章を書き始めるかもしれない。

はじめての全身麻酔は気持ちいい?

鼻の手術といっても、全身麻酔だというから恐ろしい。人生初の経験である。変な方向に曲がった鼻の中の骨まで削るという。「全身麻酔は気持ちいいよ。夢の中にいるみたいで」と、友人から受けた無責任なアドバイスをなんとか信用しようとしたものの、目の前で頭がクルクルパーになっている大酒飲みの言うことを信じるほどお人好しではない。

ともあれ、手術の日はやってきた。2か月前からランニングをし、体を作ってこの日に備えてきた。手術直前、前日から入院している病室から担架かなにかで運ばれていくのかと思いきや、普通に歩いて手術室まで向かった。

入院してからというもの、筆者は看護師にしつこいほど全身麻酔のことを質問していた。途中で目を覚ますことはないのか。もしくは二度と目を覚まさないケースはないのか。麻酔の量は適正に投与されるのか。しまいには看護師も辟易して、「夢の中にいるみたいなものですから」と、大酒飲みのクルクルパーと同じことを言い始めた。ますます信用できない。そもそも、筆者は疑い深い男なのだ。この看護師は、人を「肉」だと思って、バカにしているのではないか。はやく「人」になりたい。ますますそう願った。

手術室に入った筆者は、ベッドの上に案内された。なにやら医師や助手や看護師らしき人たちが、慌ただしく会話や作業をしている。呆然としている筆者に女性の看護師が近づいてきて、口と鼻を覆うマスクのようなものをかぶせてきた。

「これが麻酔ですか」と筆者は力なく聞いた。「いえ、これは違いますよ。麻酔はまだです」と看護師は答えた。それが手術室での最後の記憶だった。気が付いたら元の病室のベッドで天井を仰ぎ、カエルの死骸のような格好で横たわっていた。ベッドの脇では、病院に駆けつけた家族たちが呑気にバカ話をしている。筆者は騙されたのだ。

鼻うがいと醜いアヒルの子

さて、手術を終えた後、筆者は「青春」を迎えることができたのだろうか。実は、残念ながら手術の効果はすぐにはわからないのである。なぜなら、止血その他の理由で両鼻に綿球が詰められていることに加え、鼻の中にシリコンが入れられているからだ。

綿球は傷が癒えるにつれ、自然に溶けていくものらしく、シリコンは1週間の入院を終えた後の再診時に、経過を見て取るか取らないかの判断をするらしい。とにかく、手術が終わった段階では青春どころか、まったく鼻から息ができない。口呼吸をしていた頃の完全なる「肉」の時代に逆戻りである。

そして、なによりも痛みがすごい。顔まわりの手術だということもあり、痛みによる不快感が半端じゃないのだ。結局、退院する日まで痛み止めと睡眠導入剤をもらい、好きな読書をする気力も起きずに、ただただ天井を見つめながらボーっと過ごしていた。

退院の日、医者からあることを教わった。鼻うがいである。ノズルのついた専門の器具を購入し、処方してもらった生理食塩水で鼻を洗浄するのだ。片方の鼻の穴にノズルを突っ込み、器具をプッシュしてもう片方の鼻から水を出す。はたから見るとなんとも間抜けな行為なのだが、これをすると綿球がはやく取れやすいと聞いて、筆者は家に帰って必死に取り組んだ。

最初はうまくいかず、ノズルを入れた鼻のほうに水が戻ってきてしまったり、喉のほうに落ちてきてしまったりした。しかし、何度もチャレンジしているうちに、きれいにもう片方の鼻から水がピューと出るようになった。まるで噴水のようである。

あまりのうれしさに、筆者は洗面所に妻を呼んで、何度も鼻うがいをして見せた。はじめは「すごいね!」とほめてくれていた妻だったが、4日目あたりから「昨日とどこが違うの?」と怪訝な顔を見せはじめた。妻はなにもわかっていない。鼻から吹き出る時の水圧が、まったく違うではないか。筆者の鼻うがいは日々、上達しているのだ。

ところで退院の日、筆者は地下の売店でぬいぐるみを買って帰った。ベッドでボーとしていたとはいえ、1日なにもしないで過ごすのは、さすがに暇すぎる。1日に1回だけ、地下の売店まで歩いて行き、池波正太郎の歴史小説と週刊誌しか置いていない棚を見つめたり、店の中を意味もなくグルグル回ったりして時間を潰していたのだ。

その売店には、ぬいぐるみが置いてあった。黄色いアヒルみたいなぬいぐるみで、背中を押すと「グエ、グエ」と間抜けな鳴き声を発する商品である。おそらく、入院している子どもに買ってあげる人がいると思って仕入れたのだろう。いったい何年売れ残っているのだろうか。薄汚れて、経年劣化が激しい。しかも、1800円という値段である。こんなものに、汗水垂らして稼いだお金を払うお人好しなんているはずがない。筆者以外には。

ということで、退院の記念にこの通称「グエちゃん」を買って帰ることにしたのだ。レジにグエちゃんを持っていくと、おばちゃんが驚いた顔をして、筆者を凝視した。購入されて驚くようなものを、なぜこんなにも長く店頭に放置していたのだろうか。

怪しい視線を向けるおばちゃんに向かって言い訳するように、「なんか、毎日見ていたら可哀想になっちゃって」と筆者は言った。すると、おばちゃんは突然顔をほころばせ、大きな声で「まあ! なんて心の優しい青年なのかしら。無料で差し上げたいくらい!!」と叫んだ。さらにそれに呼応するようにして、商品の棚を整理していたもう一人のおばちゃん店員が、「私、このことを新聞に投書するわ!」と昼間に鳴く狂ったニワトリのような声で絶叫した。

そんなことはいいから、早く会計をしてほしい。こちとら、鼻がつまって苦しいのだ。さっさと家に帰って、鼻うがいとやらを試してみたい。レジのおばちゃんに会計を促すと、バーコードを通して表示された値段は、なんと800円だった。値札が間違っていたのである。それは売れないわけだ。こんな薄汚いアヒルが1800円もするなんてはじめからおかしいと思った。過大評価されたおかげ売れ残り、グエちゃんもいい迷惑である。

関連書籍

宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに〝彼氏面〟するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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モヤモヤするあの人

文庫「モヤモヤするあの人」の発売を記念したコラム

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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