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日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない

2020.02.29 更新 ツイート

セックスは普通の人には手の届かない「特別な贅沢品」になった 湯山玲子

夫婦間のセックスレスは当たり前、恋人のいる若者は減少し、童貞率は上昇中——。そんな日本人の性意識の変化を大胆に、真摯に語り合った『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(湯山玲子+二村ヒトシ)が2月6日に文庫で発売になりました(解説は、哲学者の千葉雅也さん)。単行本発売時(2016年)のあとがきをそれぞれお届けします。文庫あとがきでは、さらにシビアになった「日本の性」への思いが綴られています。こちらもぜひご覧ください。

「琵琶湖に鮒鮨を食べに行く人」と「セックスする人」はともに特別な人

 編集者の竹村優子さんから、この対談本の企画が持ち込まれたときには、まさか、内容がこのようなシビアなものになるとは思ってもみなかった。男性への憎しみ、ルサンチマンが自分の中にあまり見当たらず、どちらかと言えば男好き。男性とのコミュニケーションや人間関係でもわりといい目を見てきたと思われる私と、AVの現場で数々の女性の性と向き合い、これまた女嫌いになることはなく、男性に向けても、メンズリブとも言える言説を世の中に発表している二村ヒトシさんとの対談に、編集者が期待したのは、この時代だからこそのポジティブな「セックス万歳」論だったのですよ!!

確かに齢五十歳を超えた私たちには、実体験からも、そして周囲の人間たちの実例からも、セックスが人生にもたらす奥深い味わいについては、大いに語る言葉がある(何せ、セックスは、音楽や文学作品のようにその快楽を他人も享受できるものではなく、徹底的に個人的な、一代限りのものでもある)。とすれば、「こんなイイもんを、人間としてイタしてないのはもったいないだろ」という確信のもと、論を展開すれば良かったのだが、そこにひとつの冷たい風が入ってきた。それは、「セックスは良きもの。充実させて、楽しむべき」という、私たちが信じている前提が、すでに崩壊し始めているのではないか? という実感だった。

自著『四十路越え!』では、女性の人生に大きく影響を与え、皆が疑いもなく信じきっている「恋愛」を因数分解し、セックスの言い訳や結婚の前提としての「恋愛と称するものの正体」を提示した筆致からすれば、セックスもまた、恋愛同様、「そうすべき論」で展開すべきではない。果たして、エンジョイなのか、そうじゃないのか、結論を決めずにふたりで考察して行きたいという考えが、俄然持ち上がってきて、一回目の対談が終わった後に、二村さん、編集者と話し合い、大きく方向性を変えた。

たとえば、セックスレス問題。世の中はこのことを憂う方向にあり、NHKや朝日新聞などでも取りざたされ、メディアでもその解消法の記事が花盛りだ。しかし、既婚者の私の実感、周囲の多くの友人たちも含め、「新婚ならばまだしも、結婚した相手とセックスするなんて考えられない」という声が圧倒的。そこには、「夫(妻)は家族になっちゃったから、家族とイタすことは自分のセックス観としては有り得ない」という、日本のセックス文化(教育も含めて)の問題が頭をもたげてくる。

若い世代は若い世代で、生身の異性とのセックスを避ける「草食」は常態化。女の子と一緒のベッドに入っても添い寝でいい、という話は若い男性の「それもアリだよね」だし、女の子とセックスするために、車の免許を取り、無理して一流レストランでおごったりする努力は、その意味すら分からない行為となってしまっている。

男性としては最も激しい性欲が身体の中を駆け巡るはずのその青春期、ムラムラの納め先は、もっぱらインターネットを中心とした二次元のポルノグラフィが大半。女性の方も、セックスは愛する男の人の手によって欲望を教えてもらうもの、から、女にも性欲があって当たり前という認識に変わっているので、自分で処理して何が悪い? という、マスターベーション・タブーがなくなって、これまたBLなどの二次元に、リビドーを多く取られてしまっている。

つまり、生身のセックスは「めんどくさーい」。と、これが、今、そして今後の日本の全世代の男女の大本音なのだと思う。セックスにおける個人的な快楽哲学がすでにあるヤリチン&マン諸氏と違って、好きという感情からセックスに至りたいと思う普通の男女は、まず好き、を現実化するためのコミュニケーション時において、自分の思い通りにならない生身の他者との接触のストレスを乗り越えることが出来なくなっているのだ。他者とは、母親のように無条件で自分を愛してくれるわけでもないし、理不尽に自分を傷つけてもくる存在だからだ。そして、たとえセックスを固定的にする仲になったとしても、そのマンネリを打破する努力が、これまた面倒くさい(たとえば、熟年夫婦のスワッピングパーティ参加は、日本では「ようやるわ」の域)。家族同様になっちゃったからムリ、という夫婦間のセックスレスの信条が、カップルにも「自然と」起こってしまうのである。

面倒くさい、という感情は、何かに疲れていて、動きたくない、という心証だが、いったい、何で私たちはそんなに疲れているのか、という根本的な疑問が浮かんでくる。逆に、面倒くさくないものは何か、といえば、それは自分が傷つくことなく受け身として、存分に楽しめるものや仕掛け。そう、日本ではお金さえ払えば、そういった「お客様は神様」なエンターテインメントは膨大に用意されている。それらには、才能のあるクリエイターたちが「人を楽しませる」ことに骨身を削った末の、完璧で精度の高い快楽があり、デートやカップル行動なんかよりも、安心安全で、期待を裏切られることもない。

日本の性教育は、年頃になったら「自然と」目に入るポルノグラフィから学んでいく、というのが常道だ。しかし、そこに存在する物語は、依然として、男性の力と支配、対して、女性の受け身と暴力を快感と変換するマゾ的心情が描かれ続けている。その物語でもって、マスターベーションの欲望回路を肥大させてしまうと、もし、男と女が本当に「一緒にいて楽しい」だとか、お互いの尊敬などという「良き感情」をもとに愛し合おうとすると、もうそこにポルノ的侮辱テイストのセックスを持ち込めなくなってしまっている(愛する人とあんな不潔なセックスは、出来れば子作り以外はしたくない、という意を述べた、若き社会学者もいる)。つまり、私たち日本人の性文化は、人間的尊敬がそのまま性的リビドーに繫がる快感回路をほとんど持ち合わせていないのだ。そのあたりは、この対談のクライマックスとも言えるところで、二村さんが試みている、オルタナティヴなAV作品についての言及が非常に刺激的だった。

もともと、セックスはふたりだけの営みであり、秘め事であった。公私で言ったら、完全に「私」。しかし、世にあふれるセックス情報は、「公」の基準で満ちている。つまり、セックスには人並みの基準があり、ふたりでいろいろ試してお互いの快感を探るよりも、お手本通りにするべきだという考え方だ。私なぞの世代では、よく親から「人は人、ウチはウチ」と言われ、家庭それぞれの「私生活」の部分は違っていて当たり前、というモラルがあったが、今は、その「私」というものが、「公」と違っていることを不安に思う空気が圧倒的だ。他人と違う「私」をキープし続ける力がなく、常に「公」に受け渡して安心する。セックスだけの話ではない。これは今、私たちが急速に慣れ親しんできている考え方で、問題はそれが徹底されると、人生が損なわれることが多くなるというところ。当たり前だけれど、「私的」な部分こそ、その人の本質であり、そこが充実しないことには、生活、そして人生の満足が得られない生き物が人間なのだから。

私たちのセックス観は、成熟した男女が自由に相手を選び、自由競争だからこそ、選ばれない男女もいて当然。その現実のもと、相手と身も心も解け合って一体になれれば本望、ということになっているが、そのことが、完全に「絵に描いたモチ」になっているのが今。つまり、セックスはこの世の中、普通の人間が普通に出来る欲望行為から、一種の贅沢品になってしまっているのだ。

贅沢という意味は、本当にそのまんまだ。私たちはリアルセックス無しでもそれなりに幸福に生きていかれる、というツカミをすでに得てしまっている。もちろん、セックスはあった方がいいが、そこにエネルギーを投じても損するほうが多いかも、と考えがちな時代と環境に突入している。そういう状況下における豊かなリアルセックスは、そのことに非常に興味があり、欲望と意思がある人間が手に入れればいい、という嗜好品、いわば贅沢品だ。琵琶湖の湖北にわざわざ鮒鮨(ふなずし)を食べに行くグルメがいるが、セックスライフを享受している人は、そんな輩やからにも見える。そんなグルメを一般の人が「ああ、自分もそうなりたい」と羨むのではなくて、「そういう快楽が好きな人もいるよね」と言うような意味での贅沢品。

対談の後半は、名実ともにセックス方面のグルマンである二村さんが、器具やテクニックを駆使した性的快楽の追求を提示してくれているが、そんな幸福の道が目の前にあるのにもかかわらず、多くの人はそれを実行しないだろう。わざわざ、鮒鮨を食べに行かないように。

60年代後半、ジェーン・フォンダ主演の『バーバレラ』というB級SF映画があった。そこには、手を合わせるだけでセックスと同じ快感を得られる未来人が描かれていて、最終的に彼らは、地球人のおかしなやり方、つまり、下半身を使ったセックスのほうがイイ、という結論に達するのだが、今後の民意は前者の手合わせでオッケー、なのではないか。いや、現在の科学をもってすれば、本気でそういう商品がAI、人工知能の方面からも開発されていくだろう。そういう予測も立つところに、このリアルセックスの問題の深さがあるのだ。

最後に、セックスを語る長い旅にフルパワーで付き合っていただいた二村ヒトシさんに最大の感謝を。対談をまとめていただいた安楽由紀子さん、そして編集者の竹村優子さん、ありがとうございました。

湯山玲子+二村ヒトシ『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』

恋人のいる若者は減り、童貞率は上昇、夫婦のセックスレスは当たり前の日本。セックスは、子どもを作る以外に必要ないのか? 自分の中の暴力性を嫌悪する男性たち。男性に好かれるためにバカなふりをする女性たち。セックスは普通の人間には縁のない、贅沢品になったのかもしれない。それでも気持ちのいい人生を諦めない方法を語り尽くす。

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湯山玲子

著述家、プロデューサー。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。自らが寿司を握るユニット「美人寿司」、クラシックを爆音で聴く「爆音クラシック(通称・爆クラ)」を主宰するなど多彩に活動。現場主義をモットーに、クラブカルチャー、映画、音楽、食、ファッションなど、カルチャー界全般を牽引する。著書に『クラブカルチャー』(毎日新聞社)、『四十路越え!』(角川文庫)、『女装する女』(新潮新書)、『女ひとり寿司』(幻冬舎文庫)、『ベルばら手帖』(マガジンハウス)、『快楽上等!』(上野千鶴子さんとの共著。幻冬舎)、『男をこじらせる前に 男がリアルにツラい時代の処方箋』(KADOKAWA)などがある。

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