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九州男児、東京を人類学する

2026.11.05 公開 ポスト

第3回

「#さす九」は女性差別の告発か、地方差別の烙印か室越龍之介(文化人類学研究者)

\『コテンラジオ』『ゆる言語学ラジオ』出演で話題/

九州で生まれ育ち、キューバでの在外研究やコロンビアの日本大使館での勤務を経て、各地のフィールドワークに取り組んできた文化人類学研究者の室越龍之介さん。「箱根の向こう」のさらに向こう側、化外からやってきた「九州男児」の文化人類学研究者が、東京に暮らし、歩き、奇妙なまなざしを浴びながら、東京を人類学の視点から描く新感覚のエッセイ! 

今回は、「九州男児」の室越さんが、「#さす九」問題を文化人類学します。

*   *   *

ここのところ、僕は髪を伸ばしている。髭(ひげ)は、堅い職場への就職面接の時を除いて、若い時分から伸ばしてきた。蓬髪蓬髯(ほうはつほうぜん)。おまけに体重が多少過多である。人に連れられて飲み屋などに行くと、その人が面白がって「この人の仕事、なんだと思います?」と聞いてしまうことがある。聞かれた方からすれば何も面白くない、バカバカしいクイズである。先方も計りかねて、「プロレスラーですか?」と口走ったことは一度や二度ではない。体がデカくて、髪も髭もぼうぼうの人間を、人はプロレスラーだと考えるらしい。

そんな人間が九州出身だと知ると、人はさらに「こいつは大酒を飲むに違いない」と思うようだ。付き合いの浅い人々は、良い酒をくれたり、会食の折に珍しい酒の置いてある店を用意してくれたりする。

だが、心苦しいことに、僕はあまり酒に強くない。飲まなくてよい場面では、アルコールなしで済ますことも多い。九州の男は大酒を飲むというステレオタイプと僕の風体とが相まって、期せずして酒豪のイメージができあがっているわけだ。

期待に添えず、申し訳ないことである。

「九州男児」は、よく食べ、よく飲むと喜ばれる

少し調べてみると、九州の新聞4紙が合同で集めた「九州男児」にまつわるエピソードに行き当たった。「九州男児」あるあるとして、「下戸なのに酒を勧められる」という話が並んでいる。「九州男児は大酒を飲む」という観念は、どうやらそこここにあるらしい。

思い返せば、僕の経験からしてもそのようである。祭りの席などに行くと、客人である僕は若輩にも関わらず、偉い人達に並んで座らせてもらえることが多かった。様々な人が挨拶に来て、お酌をしてくれる。コップに酒が残っていれば飲み干して空にし、返杯をする。そうこうしているうちに出来上がっていく。ぼさっと座っていると、今度は長老たちに挨拶に行ってこいと尻を叩かれる。行けばお酌をし、向こうがグッと飲み切ると返杯がくる。気がつけば、這う這う(ほうほう)の体というわけだ。

男衆の間にいるとこういうことになる。逃げ出そうと、料理を作ったり運んだりしている女性陣の手伝いをしてみるものの、しばらくすると「こんなところにいないで、向こうに行って飲みなさい」と席に返される。戻ると、兄貴たちが酒を注ごうとするが、空だ。兄貴が「おーい」と言うと、若い衆か女性陣が酒を持ってきてくれる。

若いうちは、とにかくたくさん食べ、たくさん飲むと喜ばれる。できることの少ない僕は、歓待に応えようと、とにかく食べ、飲む。楽しい席である。

男たちは座敷で酒を酌み交わし、女たちは台所で立ち働く。そんな光景を、近ごろSNSでは特別な言葉で呼ぶようだ。

その言葉こそ「さす九」である。

「さすが九州」

「さす九」とは「さすが九州」の略である。九州の男性が男尊女卑的に振る舞ったとき、皮肉を込めて使われる。Xでは「#さす九」のハッシュタグとともに、九州で育った女性たちの体験談が次々と投稿されている。僕が祭りで見たような座敷と台所の話のほかにも、「女の子だから」と県外への進学を、あるいは進学そのものを反対されたという話が並ぶ。

僕が若い時には聞かなかった言葉だ。いつ誰が言いはじめたのかは突き止められなかったが、遅くとも2024年の夏ごろにはネット上で使われていたようだ。

早くも2024年8月には、反発の声も上がっている。佐賀県で生まれ育った30代の男性が、はてな匿名ダイアリーに「ネット民からの九州差別が苦しい件」と題する文章を投稿した。自分は何も悪いことはしていない。九州だけが特別に男尊女卑的だという客観的な根拠はあるのか、と。つまり、「さす九」は九州人に対する差別だと主張したわけだ。

2025年3月には、福岡に本社を置く西日本新聞が朝刊一面でこの言葉を取り上げた。見出しは「九州の住民から『地域差別だ』の声」。反発の側に寄り添った記事である。ところが、記事を紹介したXの投稿の表示回数は1週間足らずで2.9億回に達し、そこには九州で育った女性たちから「九州」の男尊女卑を裏付けるような体験談が次々と寄せられた。

女性差別と地方差別

九州における男尊女卑の話題が「さす九」という言葉を生んだ。それに対し、そのような言葉を生み出すのは「地方差別」であるとの反論が出た。一見、「さす九」という言葉を真ん中に二つの立場があり、真っ向から対立しているように見える。

でも、その対立はまやかしに過ぎない。なぜなら、一つは女性差別の問題、もう一つは地方差別の問題で、二つはまったく別々の問題だからだ。

ややこしいのは、どちらも本当に起きていることだ。本当の問題同士を突き合わせて「どちらが本当の問題か」と問えば、揉めるに決まっている。「みかんとりんご、どちらがより美味しい魚ですか?」と聞くようなもので、設問がおかしいのだ。

二つの本当の問題がある。では、どのように同時に成立しているのだろうか。

思うに、この二つは「起きていること」の問題と「語られ方」の問題ではないか。一方では、誰が座敷で飲み、誰が台所に立つのか。誰が進学を許され、誰が地元に留め置かれるのか。このようにいま起きている女性差別の問題。もう一方では、七つの県を一括りにし、ラベルを貼り、ある種の人間像を特定の地域の人間に押しつける、そのような「語り方」が問題にされている。こちらが地方差別だ。

だから実のところ、「事実なのだから差別ではない」という理屈も、「差別なのだから事実ではない」という理屈も、どちらも成り立たない。

順を追って話そう。

 

あなた自身が女性を虐げていなかったとしても

まずは「起きていること」を見てみよう。

弁護士ドットコムニュースが読者から募った体験談に、こんな話がある。10年ほど前、長崎の祖父の家で、祖父が親戚の男性にお茶を出したところ、「男が茶を持ってくるとは何事か! 女が持って来い!」と怒鳴り声が上がった。慌てた母親がお茶を出し、その場はなんとか収まったという。

この怒鳴り声を、どう理解すればよいだろうか。

オーストラリア出身の哲学者ケイト・マンは『ひれふせ、女たち』で、ミソジニーという言葉を定義し直した。ミソジニーはふつう「女性嫌悪」と訳され、女性を嫌う個人の感情だと思われている。だが、マンによればそうではない。ミソジニーとは、家父長制の秩序からはみ出した者を罰し、所定の位置へ押し戻す「取り締まり」の働きなのだという。

この定義に照らすと、怒鳴った人が女性を嫌っていたかどうかは問題ではない。お茶を出すのは女の仕事だ、という秩序がある。男がお茶を出したことで、その秩序が乱れた。だから、怒鳴って正したのだ。

面白いのは、秩序を乱したのは男の方だったのに、それを正すために呼ばれたのは女だったという点だ。乱したのは祖父でも、帳尻を合わせるために立ち働くのは母親なのである。取り締まりの負担は、女性の側に回されるわけだ。

たしかに、佐賀の男性が言うとおり、彼自身は何も悪いことをしていないのかもしれない。だが、取り締まりは誰か一人の悪意で働くものではない。集団の中で、知らず知らずのうちに働くものである。怒鳴る声も、慌ててお茶を出した母親も、その仕組みの中でそれぞれの役を演じている。「私は悪くない」と感じることと、仕組みが動き続けていることとは、両立してしまうのである。

ケイト・マン(著)小川芳範(翻訳)『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』

九州は「遅れた土地」?

では、「語られ方」のほうはどうか。

ここで、人類学の古傷に触れなければならない。ドイツ出身の人類学者ヨハネス・ファビアンは、『時間と他者』(1983年)で、人類学がその研究対象をいかに作りだしてきたかを問うた。

人類学者はフィールドで、人々と同じ時間を生き、同じ飯を食う。ところが論文を書く段になると、人々を「未開」「伝統的」な存在、つまり過去の時間の住人として描いてしまう。ファビアンはこれを「同時代性の否認(denial of coevalness)」と呼んだ。遠くの人々は人類の過去を今も生きている、という19世紀の進化主義の発想が、学問の作法にしぶとく生き残っていたわけだ。

「さす九」の語りにも、同じ時間の配置が埋め込まれている。九州は遅れている。東京がとうに通り過ぎた過去に、九州はまだとどまっている、という前提である。

だが、果たしてその前提は正しいのだろうか。

政治学者の三浦まりによれば、2022年に公表された都道府県版ジェンダー・ギャップ指数で、夫の家事・育児時間は福岡が全国最下位だったという。九州には低い順位の県が多い。とはいえ、時間で見ると九州の男性だけが際立って少ないわけではなく、全国が「どんぐりの背比べ」なのだそうだ。最近、色々な地方に出かけるようになって、僕も確かにそう思う。割とどこにでも、カジュアルに「取り締まり」は転がっている。

それでも、三浦が言うように、「やっぱり九州男児だからね」という言葉があると、人はそれで納得してしまう。そうして納得のために使われたステレオタイプは、強化され、再生産されていく。

思うに、九州を過去に置くことで、「#さす九」で喜んでいる人々は自らの現在を問わずに済んでいるのではないか。ここで言うのは、我が身に起きた「取り締まり」を告発している女性たちのことではない。それをエンターテイメントとして消費し、バズらせている人々のことだ。彼らのおかげで、日本全体が抱える問題は「九州の問題」として遠くへ放り投げられ、語る側は「進んだ現在」に安住できる。

ついでに言えば、「九州男児」という言葉自体、そう古いものではない。確認できる最古の用例は1884(明治17)年で、多く使われるようになったのは日清戦争のころだという。従軍日記には、「九州男子」の命の捨て処、といった書きつけも残る。近代の戦争とともに広まった言葉が、いまでは家父長たちを表す言葉になっているのは、皮肉なものだ。

「さす九」的骨の髄を押さえ込む

さて、では「さす九」なる言葉が人口に膾炙して、僕がどう受け止めていたかというと、まるで他人事のように面白がっていた。

繰り出されるエピソードは、「そういうことあったよなー」というものが多かった。「女は県外に進学するな、と言われる」という投稿には、「嘘松(作り話という意味)」という返事がたくさんついていた。でも、僕はそう親から言われて志望校を変えた同級生を知っている。

だけれども、そのような「後進性」を嘲笑する人々が愉快だったかと言われると、そうでもない。「九州男児」の「未開性」を笑いながら、「それは性加害では……」と思うような話を面白恋愛エピソードとして語ったり、飲み屋で女性に横柄になったりする男たちを、僕は日本各地で見てきた。笑っている人たちだって、「同時代」に生きている。九州にだけミソジニーが存在するわけではない。

世界経済フォーラムの2026年版ジェンダー・ギャップ報告で、日本は145か国中117位である。厚生労働省の令和7年の調査では、男女の賃金格差は月額で約8万7,500円、女性の賃金は男性の76.6%にとどまる。これはフルタイムで働く人たちの数字で、短時間労働の人たちを含めれば差はさらに広がる。この原因を九州や地方だけに求めるのは無理がある。国中がそうだ、と考える方が自然だ。

もっとも、「九州男児」のミソジニーを「日本男児」に押し広げたところで、言い逃れになるわけではない。さらに言えば、「さす九」的価値観は僕自身にも深く根付いている。他人事として面白がっている場合ではない。僕だって「取り締まり」の当事者なのだ。

たくさん食べ、たくさん飲む人が偉いと心のどこかで思っている。若い人が酒を飲まないと、「一杯ぐらいは飲まんかい」と心の中で思う。逆に、女性に酌をされたり、お茶を出されたりしても、その不自然さを感知できないこともある。生来の怠け者が祟って、若い人や女性がテキパキ物事を進めている横で、ぼさっとしていることもままある。

気がつくたびに「よくない」と思ってはいても、習い性になった振る舞いや骨の髄まで染み込んだ価値観を、一朝一夕に変えるのは容易ではない。

容易ではないなりに、骨の髄を押さえ込もうとはする。だけれども、漏れ出るものは残念ながらやはりある。

「家父長制の秩序の中で生きること」「地方は中央より遅れていると考えること」があまりに当たり前の「世界の見方」だったから、「さす九」はこれほどウケたのであろう。

マンは前者の秩序が誰に何を強いているかを、ファビアンは後者の視線が誰を過去に置き去りにしているかを教えてくれる。歪んでいるのは九州でも東京でもなく、僕たちの「世界の見方」なのだ。その歪みに気づくことは、骨の髄を押さえ込むよりさらに難しい。

難しいなりに、僕たちは「起きていること」がどのように「語られている」のかを考え、自分の視線を疑ってみるほかないのであろう。

 

【参考文献】

●ケイト・マン『ひれふせ、女たち――ミソジニーの論理』小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年

●Johannes Fabian, Time and the Other: How Anthropology Makes Its Object, Columbia University Press, 1983.

●「考・九州男児」九州4紙合同企画(熊本日日新聞・西日本新聞・宮崎日日新聞・南日本新聞)、2022年11月

●熊本日日新聞「刷新か“博物館送り”か 『九州男児』は転換期 『若い女性ほど否定的』 上智大の三浦まり教授」2022年11月19日(九州4紙合同企画「考・九州男児」)

●弁護士ドットコムニュース「『九州は男女差別がひどい』“さす九”と揶揄する投稿、出身男性が『地域差別。悪いことはしていない』と反論」2024年9月1日

●弁護士ドットコムニュース「九州の男尊女卑やゆ『さす九』波紋、男女で対極的な反応も……識者指摘、ジェンダー格差は『全国の問題』『少子化の要因にも』」2025年3月29日

●はてな匿名ダイアリー「ネット民からの九州差別が苦しい件」2024年8月20日

●西日本新聞「男尊女卑やゆ『さす九』SNSで拡散 九州の住民から『地域差別だ』の声」2025年3月9日朝刊

●中川淳一郎「『男はそげんことせんでよか!』SNSで拡散される“九州の男尊女卑”を揶揄する『さす九』の実態」マネーポストWEB、2025年3月

●世界経済フォーラム「Global Gender Gap Report 2026」2026年9月

●厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査 結果の概況」

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\『コテンラジオ』や『ゆる言語学ラジオ』出演で話題/

九州で生まれ育ち、キューバでの在外研究やコロンビアの日本大使館での勤務を経て、南米のフィールドワークに取り組んできた文化人類学研究者の室越龍之介さん。40歳を目前に上京しますが、「東京」という街の奇妙さに戸惑いを覚えます。

東京と地方、中央と周縁、階級と競争、フェミニズムとの出会い……。

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室越龍之介 文化人類学研究者

株式会社Anthronomos代表。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。専攻は文化人類学。九州大学大学院人間環境学府博士後期課程を単位取得退学後、在外公館やベンチャー企業の勤務を経て独立。企業向けに調査、研修、諮問などを請け負っている。Podcast番組「アポカリ」「のらじお」を配信中。

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