デビュー作『良い子でいたら幸せになれるんじゃなかったのかよ』が発売後たちまち3刷となり話題の白瀬世奈さんの新連載「お母さんみたいになりたくない」が始まります。
小さい頃からずっとそばで見てきた母。母は苦しんできた。なのに母はすべてを諦めてきた。何が母をこんなに苦しめてきたのか。白瀬さんが「お母さんみたいになりたくない」という決定的な一言に至るまでの幼少期から現在までの記憶を辿りながら、幸せを模索します。
第1回は、泣く母を置いて家を出た日について。
* * *
1年前、母に泣かれた。
実家から出る日の朝だった。私よりも先に仕事で家を出る母に、ひと言掛けようと部屋に向かう。自分の部屋から母のいる部屋までの、陽の光が入らない暗い廊下を歩いていると、何とも言えない緊張感が襲ってきて、心臓がどくどくするのがわかる。いつもそう。子どもの頃から、親に自分の言葉を伝えるのが苦手だ。用意して、タイミングを見計らって、よし今だ! とならないと声が上手く出てこない。真っ直ぐ目を見て話せない。別に怒られるような悪いことをするわけじゃなくたって。母にはよく「はっきり喋りなさい」と怒られた。そう言われると、余計に喋れなくなった。イライラさせてしまっているのが伝わってきて萎縮してしまう。大人になって少しはマシになったかもしれないけれど、何か改まって話すのは勇気がいる。できれば避けたい。それでも、この日はちゃんと区切りをつけたくて、ぐっと気合いを入れて部屋のドアを開けた。
ちょうど身支度が終わった様子の母。まずは、「じゃあね~」と声を掛ける。この別れが特別なことなんかじゃないように。その後、ひと呼吸おいて「何かあったら、私はお母さんの味方をするよ」言った。ドラマの台詞みたいな言葉は、絶対に伝えたかったけれど真剣に言うには重すぎて、恥ずかしくて、気まずさを誤魔化して軽口のようにできるだけ明るいトーンで言った。母も笑って受け流すのだろうと思っていた。
それなのに。母の表情は一瞬で歪んで、目から涙が溢れていた。ぼろぼろという形容詞がぴったりの涙。泣いているのに笑っていて、笑っているのにつらそうで、そんな風に泣く母の姿を私はそれまで見たことがなくて。どうしたらいいのかわからず、「なんで泣くの~」と笑って誤魔化しながら言うことしかできなかった。咄嗟に腕が動いたけれど、こういう時、抱きしめたら良いのか、私がそれをすべきなのか、していいのか、わからなくて。伸ばしかけた腕は行き場がなく、右手で母の腕をポンポンと2回叩いた後に下ろした。
母からの返事は「あとは自分でなんとかするから、世奈はもう気にしなくて良いよ。頑張って」だった。母は泣きながら笑って、仕事に出かけていった。
風通しの悪い家族
私の家は風通しが悪い。ストレートに言えば仲が悪いということだけれど、完全に仲が悪いとも言い切れないのが厄介だ。日々、目に見える大事件が起きているわけじゃない。みんな揃って暮らしている。お盆や正月には集まるし、家族行事もそれなりにやる。きっと外から見たら普通に仲良しの、上手くいっていそうな家族。中にいないとわからない仲の悪さを表現するのには、風通しが悪いという言葉が、私には1番しっくりくる。個々では会話ができるのに、集まると途端にピリピリしだす。場の空気が淀んで重くなる。母と祖母は仲が悪く、祖母と父も仲が悪く、父と母も協力し合う対等な関係性には見えない。相関図はそのまま地獄絵図。家の中の大人同士、それぞれが向け合う鋭い矢印と、黒くて重い空気を子どもの頃から感じていた。みんなでいたらギスギスしていても、私と祖母、私と父、私と母、そうやって切り離されれば大丈夫。それぞれとの関係性は悪くない。徐々に、この空気をどうにかできるのは自分だけだと思うようになっていった。
小学生の頃。祖父が死んだ。祖父という、圧倒的なパワーを持つ存在がいなくなったことで、家の中の空気がガラリと変わった。祖母と母の仲が悪いことに気づいてしまった。男女の役割がはっきりとしている家の中で、女性の役割を、ふたりの間に入ってやるようになった。間に入ってどちらからの愚痴だって聞いた。愚痴を聞くのが嫌だから、そもそも文句のタネになりそうなものを潰しておけば良いと思うようになった。スパイみたいに神経を張り巡らせて、起きそうな事件を事前に防ぐようになった。
専門学生の頃。祖母と父も、仲が悪いことに気づいてしまった。特別仲が悪いなんて思ったことはなかったけれど、激しく口喧嘩をするふたりを見て、話をしないのは、話をしたら喧嘩になるからだったのだと知った。話をしないのは、お互いに話もしたくないと思っているからなのだと知った。ふたりが直接話して言い合いになると、その後フォローを。そもそもそうならないように間に入って、言い合いにならないようにフォローを。
20代半ば。父と母の関係性って、全然対等じゃないのかもしれないと気づいた。それまで父が、父として子どもたちにしてくれたんだと思っていたこと、全て母がしてくれたことだった。家族旅行も、プレゼントも、準備してくれたのは母で、父は全く関わっていなかったと大人になって知った。そう言えば、学校のことも進路のことも、全て母に話した。親に相談するということは、そのまま母に相談するということで、家事も子育ても全てが母の役割だった。家の中のことや子どものことは女がやるもの。それはとても時代遅れな考えで、世の中の夫婦ってもっと家のことを分担して協力してやってたりするんだって、そんなパートナーシップが現実にあるんだって、母が父に全く意見できないことがやっぱりおかしいんだって、大人になって明確にわかった。
数年前、30歳でメンタルダウンして会社を休職することになった。初めは家族に言わなかったけれど、動かない頭と身体に限界を感じ始めた頃。主治医の勧めもあって、実家に戻ることになった。そのまま休職期間が終わって無職になった。30歳無職の実家出戻り娘。どうしてこうなってしまったんだろう。そうやってぐるぐると考え続ける日々。何が引っかかっているのか、何を後悔しているのか。つらさの原因を探る、出口の見えないトンネルにいるような果てしない時間。どんな角度から人生を振り返っても、最後に行き着くのが家族だった。
家族関係のほころびを感じながら20年以上生きてきた。家での立ち回り方はしっかりと身体と心に染み付いて、今の私を作った。これが人格形成に全くの無関係だなんて、到底思えやしない。生まれてから最初に出会った、小さな社会。家族。その社会での私の生き残り方がこれだった。この役割をすることで、私は家族という社会を生きてきた。誰も頼んでなんかいない、勝手に背負った役割だと言われたらそうなのかもしれないけれど、子どもの頃の私の世界のほとんどを占めていた家族という社会を、良くしたいと思うこと、そこで安心して心地良く過ごしたいと思うこと、それは自然なことなことだと思ったらいけないだろうか。だって、家が全てだった。そこで生きられなかったら、どこに行ったらいいかなんてわからなかった。学校に行ったって、習い事に行ったって、最終的に帰る場所は家族がいる家なのに。重くて暗い空気をかき混ぜるように、誰かと誰かの間をバタバタと動き回る。そんな子ども時代、身体は丈夫で健やかに育ったと思っていたけれど、心は全然健やかじゃなかったんだと気づいた。
母が進んだ道を避けてきた
幼少期のこと、家族のことを振り返りながら、はっきり浮かんできた感情がある。私はずっと、「お母さんみたいになりたくない」と思ってきた。当時は意識していなかったけれど、無意識にずっとそう思っていたようだった。それは、母とは違う道を選ぶという行動に現れていて、今過去の選択を一つひとつ振り返ってみると、母が進んだ道を綺麗に避けていることがわかる。母という存在は、1番近くにいる将来像だ。女性として自分よりも数十年先を行っている存在。1番身近な、大人への道のりのモデル。私は、大人になっていく過程でいくつもしてきた選択のうち、ただのひとつも母を手本にしたことがない。
家族の中で一番一緒に過ごしたのは母だ。家族の誰より、母の話を聞いた。家族の誰より、母を見ていた。そう思う。家事の時間。テレビを見ている時間。買い物に行く時間。母と兄、母と弟より、母と私のふたりという時間が多くあったように思う。それは、唯一の女の子だったからなのか。男女の役割がはっきりと分かれた家の中での、女同士の連帯なのか。母と息子とは違う、母と娘という繋がり。お母さんみたいになりたくないとしても、お母さんは嫌いになれない。お母さんには幸せになってほしい。そう思わせる、母という絶対的な存在。
もう知らないふりをしたくない
母に泣かれたあの日から1年。家を出てから1年。家族と物理的な距離ができてから1年。この1年間、仕事を理由にほとんど実家に帰らなかった。物理的な距離を置くことが、私の心の安定に必要だった。実家に帰ると、どうしても心が気遣いモードになってしまうから。物理的な距離はそのまま心理的な距離になって、日常的に家族のことでもやもやするようなことはない。普段は頭の端の方に追いやられている。それでも時々、母に泣かれたあの日を思い出す。
母だってひとりのいい大人で、「あとは自分でどうにかする」って、本当にその通りなのかもしれない。「自分でどうにかしなよ」って、綺麗さっぱり手を離してしまえばいいのかもしれない。
でも、できない。家を出たあの日見た母の涙を思い出すと、泣きたくなくても涙が出る。悲しいのか、悔しいのか、同情してるのか、なんなのかなんてわからない。わからないけど涙が出る。「あとは自分でどうにかする」という言葉が、拒絶のように感じて、急にシャッターを下ろされたようで苦しい。自分で離れたいと望んだのに矛盾しているのはわかっているけれど。
私が、祖母に、父に、母に、向けてきた複雑な感情の全て。その中でも、母に向けた他のふたりへとは違う温度の感情。まだ心の中に上手くしまうことができない。納得、してない。本当に距離をおけていたら。自分には関係ないと割り切れていたら。何も引っかかっていなかったら。あの涙を思い出してこんなに苦しくならない。お母さんの涙も、まだ終わってない、納得できてない、そんな涙だと思う。そうでしょう?
「お母さんみたいになりたくない」そう思ってしまうのはどうしてなんだろう。母のことを嫌いなわけじゃない。母の人生を否定したいわけじゃない。でも、どうしても幸せそうに見えない。私が母だったら、母の人生はつらすぎる。私たちが生まれて、母は母になって、本当に幸せだろうか。
母は私の母であることをやめられないし、私は母の娘であることをやめられない。どれだけ距離を置いたって、その事実は絶対に消すことができない。こうやって母のことを考えてしまう私の状態が、他者との境界線が引けてないってことならそれでもいい。自他の境界線をしっかり引いた方がいいなんて、そんなの他人に言われなくたってわかってる。でもこれは、境界線を飛び越えなきゃいけない問題だから。母と私の、あるいは母と家族の誰かとの、どうしても切り離せずに交わってしまう感情の問題だから。
「何かあったら、私はお母さんの味方をするよ」と言ったこと。本心だった。寄り添いたい気持ちと、距離を置いてしまうことの罪悪感が混ざった言葉。それを言うことで、私だけが家族の問題なら離れることへの罪悪感を和らげたかった。そんな打算的な気持ちもあったことは事実。言ったらすっきりすると思ったのに、全然すっきりしなかった。終わらなかった。母が、母のこれまでの人生どう思っているのか、残りの人生をどうしたいのか、わからない。わからないけれど、私は母にこのまま死んでほしくない。このままの人生で良いと思ってほしくない。私もこのまま死にたくない。このままの人生で良いと思ってない。そのことはわかっている。わかっていて、もう知らないふりができない。母が涙を流した理由を、どんな気持ちだったのかを、どうしたいのかを、知りたい。
母と私が、本当の意味で離れられるように。
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お母さんみたいになりたくない

「お母さんみたいになりたくない」。泣く母をおいて、家を出た。30歳、無職。再出発のひとり暮らし。母を見殺しにしたような罪悪感に襲われながら、仕事を探し始める。
小さい頃から母のことをずっと見てきた。母は苦しんできた。なのに母はすべてを諦めてきた。何が母をこんなに苦しめてきたのか。それは夫である父であり、義理の母である祖母であり、家父長制という世の中の仕組みだった。
周囲にも「お母さん予備軍」がたくさんいるような気がしてしまう。自分のキャリアを諦めて、夫の転勤についていく友人が、子育てや家事に追われて仕事を諦めた母の姿に重なって見える。本当にそれでいいの?
「お母さんみたいになりたくない」という決定的な一言に至るまでの幼少期から現在までの記憶を辿りながら、幸せを模索するエッセイ連載。
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