日本中に社会現象を巻き起こした映画「国宝」の原作者・吉田修一さんの作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』が各紙誌で絶賛、感涙の声が続々届いています。
18歳の初恋と二十年後の再会を描いた本作は「究極の恋愛小説」でありながら、「人生そのものを讃える壮大な物語」として、多くの読者の心を揺さぶっています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくも感動の物語。この夏だからこそ読んでほしい一冊です。
未読の方は、まずここで冒頭の一部分をお読みください。
* * *
第一章 夏を奪う者
炎暑日の終わりに夕立がきた。重い雨雲が道端に落ちてきたようだった。
雷雨の中、スーツの上着を傘代わりにした男が二人、悲鳴とも歓声ともつかぬ声を上げながら公園内から走り出てくる。
「わぁーー、管理事務所に戻ろうか?」
ずぶ濡れで叫ぶのは、尾崎颯(おざきそう)である。
「もう遠いって! ひゃーー、走れ、走れ!」
そのあとを同僚の野上洸一(のがみこういち)が追ってくる。
さっきまで草いきれでむんむんしていた芝生から冷えた土の臭いがする。
二人がやっと走り出たのは、東八(とうはち)と呼ばれる幹線道路で、片側三車線の道路をまるで遊園地のアトラクションのように高い水飛沫(しぶき)を上げながら多くの車は走っていくのだが、通行人はおろか、雨宿りできそうな建物もない。
場所は、都心からは離れた都立多摩公園で、界隈(かいわい)にあるものといえば、府中運転免許試験場か多磨霊園くらいである。
「とにかく試験場のバス停まで!」
「そうタイミングよくバス来るか? それまで二匹のおっさんトトロじゃん!」
「野上、トトロ、見たことないだろ」
野上のくだらぬ譬(たと)えに、思わず尾崎も笑ってしまう。
そもそも、あまりの雨の激しさに、二人して怒鳴り合っているのか笑い合っているのかさえ分からぬ状況である。
「タクシータクシー。タクシー呼ぼうぜ」
尾崎がスマホを出そうとするが、濡れたポケットからなかなか出せない。
「こんな所、タクシーなんて走ってないって!」
「じゃどうすんだよ!」
尾崎がやっとスマホを引っ張り出した時である。
「ああ!」
野上が指差した先に、空車のタクシーが走ってくる。
「停(と)まれ! 乗りまーす!」
二人はちょうど青になった横断歩道に駆け出した。が、次の瞬間である。
反対側からも、女が二人、
「乗りまーーーーーす!」
すでに複雑骨折した一本のビニール傘を、律儀に二人で差して走ってくる。
とにかく激しい雨である。稲光だって近い。近いだけでなく、次は確実に自分たちに落ちそうである。
最初に空車のタクシーに駆け寄ってドアに触れたのは、尾崎だった。
運転手と目が合う。タクシーのワイパーがブンブン振れている。ずぶ濡れの尾崎を見て、運転手の顔が曇る。そりゃそうである。しかし次の瞬間、バン、バンバン、と次々に手のひらが濡れた車体を叩く。
野上と、反対側からの女二人である。
「乗りまーす!」
複雑骨折した傘を握っている女が叫ぶ。
「俺らも乗りまーす!」
負けじと野上が声を上げる。
さすがに不憫(ふびん)に思ったのか、運転手がドアを開けてくれる。その僅(わず)かな隙間に四人が一斉に手を突っ込む。

「ちょっと待った!」
野上が浅ましいみんなを制するように叫ぶ。その口にも雨が流れ込む。
「……ここは、仲良く相乗りしませんか! どうせ最寄りの駅とかでいいんでしょ!」
野上の提案に、女たちが一度顔を見合わせる。おそらく互いのずぶ濡れの様子に、自分の現状を見たはずである。
「じゃあ、そうしましょう。先に見つけたのは私たちの方だったけど」
一言ありそうだが、とにかくまず一人目が乗り込む。
「じゃ、俺が前に」と、尾崎は助手席のドアを開けた。
「じゃ、ほら、先に先に!」
野上がもう一人を乗せようとするが、この期(ご)に及んで瀕死のビニール傘を畳もうとする。
「それ、いいですってもう!」
耐えかねた野上が先に乗り、そのボロボロの傘を引っ張って、もう一人の方も引きずり込む。
とにかく、慌てているし、濡れた靴は滑るし、役に立たない傘は邪魔だしで、後部座席はちょっとした乱闘騒ぎである。背後からクラクションを鳴らされ、タクシーが走りだす。
「どちらまで?」
客が乗ったのだからそうなるのだが、あまりのテンションの違いに、どっと車内に笑いが起こったのはその時である。
「とりあえず、ここから一番近い中央線の駅に向かってもらえますか」
笑いを堪(こら)えて尾崎が運転手に告げた。濡れた体が冷房の風で急激に冷える。
「ここからだと、東小金井駅ですかね」
「じゃそこで。あの、そちらもいいですよね?」
尾崎は後部座席に声をかけた。
「はい、私たちもそこで大丈夫です」
どちらかは分からなかったが声が返ってくる。
「運転手さん、今さらだけど、本当にごめんなさい。こんなずぶ濡れで乗り込んじゃって」
こちらもどちらかは分からない。
「横断歩道を両側から走ってくるお客さんたちの形相を見た瞬間、もう逃げられないって覚悟決めましたから」
そんな運転手の言葉にまた笑いが起こる。
「でもそれで言ったら、こっちこそすいません。こんなずぶ濡れのおっさんと相乗りしてもらって」
ここに来て、やっと野上も平常心を取り戻したようで女二人の間で小さくなっている。
「だって、こんな雨ですよ。相手がゾンビでも相乗りしますって」
そう答えたのは、先に乗り込んだ方である。
「あ、ゾンビといえば、さっき一瞬ヒヤッとしたんですよね」
野上が笑いだす。
「……だって、多磨霊園から稲光の中をずぶ濡れの女の人が駆け出てくるんだもん」
「あー、確かに怖いかも」
受けたのは、まだ瀕死の傘をちゃんと畳もうとしている方である。
「あの、ちょっといいっすか?」
この辺りで尾崎も口を挟んだ。
「……その傘なんですけど、複雑骨折で再起不能だと思うんですけど」
尾崎としては二人を笑わせようとしたのだが、なぜかしらっとした空気が流れる。
「あー、それ、もうさっき笑っちゃったやつ。土砂降りの中で」
「複雑骨折?」
「そう、それ」
「恥ずっ」
尾崎は振り返った。奥に座った女と初めて目が合う。
「え?」
次に二人の声が揃(そろ)った。
「オッソー?」
先に口にしたのは、女の方である。
「久遠(くおん)……」
すぐに尾崎も続く。
「えーーー?」
また二人の声が揃う。
「何? 何何? オッソークオン?」
狭い車内で大声を出す尾崎たちを、野上が訝(いぶか)しがる。
「え? 知り合い?」
「うん」
野上の問いに、二人同時に答える。
尾崎は改めて久遠を見つめた。よくよく見れば、目も当てられないようなずぶ濡れの姿とはいえ、気づかないのがおかしいくらいに昔のままである。
「高校の同級生」
また二人の声が揃う。
もちろん尾崎も久遠もお互いの連れに伝えたのである。
「へー、そんな偶然あるんだ」
野上が呟(つぶや)く。
「ねー、びっくり」
「俺がびっくりだよ」
二人はまだ互いを見つめ合っていた。
「オッソーって?」
割り込んできたのは、もう一人の女である。
「ああ、この人、尾崎颯っていうの。だから、オッソー」
「ああ、なるほど」
次に質問してきたのは野上で、となるのが普通なのだが、なぜか口を挟んできたのは運転手で、
「じゃあ、クオンさんは?」
「えっと、久しく遠いで、久遠、です」
尾崎もなぜか運転手に答える。
「ああ、そっちでしたか。いや、私の嫁が韓国人でクオンって苗字(みょうじ)だったもんですから」
「ああ」
車内全員の声が揃う。
さらに雨脚が強くなった。最速で動くワイパーでも間に合わず、水の中を進んでいるようである。
「なんか恐ろしいくらいの雨ですよね」
野上がそう呟いた途端、すぐ横で稲光が走った。
「ぎゃっ!」
「うわっ!」
一番の悲鳴を上げたのは、運転手だった。
(つづく)
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