日本中に社会現象を巻き起こした映画「国宝」の原作者・吉田修一さんの作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』が各紙誌で絶賛、感涙の声が続々届いています。
18歳の初恋と二十年後の再会を描いた本作は「究極の恋愛小説」でありながら、「人生そのものを讃える壮大な物語」として、多くの読者の心を揺さぶっています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくも感動の物語。この夏だからこそ読んでほしい一冊です。
未読の方は、まずここで冒頭の一部分をお読みください。
* * *
(承前)
翌日、久遠たちとの食事の日取りが決まったという連絡が野上から早速届いた。
「携帯、鳴ってたよ」
風呂から出た尾崎に妻の美南(みなみ)が教えてくれる。
見れば、次の三連休の初日で、平日は相手方の仕事の終わりが読めないからだという。
尾崎は、「今度の三連休、久しぶりに秩父行かない?」と声をかけた。ほとんど無意識だった。
秩父は美南の実家がある。
冷蔵庫からビールを出して、冷やしておいたグラスに注ぐ。
ダイニングのいつもの席に座り、「休日出勤、お疲れ~」と、自分で自分を労(いたわ)る。
「秩父? どうしたの急に? この暑い中、畑仕事やらされるよ」
美南がゴーヤの炒め物を出してくれる。
「一日だけ手伝って、あとは子供たち連れて、川に行けばいいじゃん」
「まあ、お父さんたちは喜ぶだろうけど」
「それこそゴーヤもらってさ。あ、あとトウモロコシだよ。あの甘いの。ちょうど今じゃない?」
そこに自室から今年八歳になる息子の海斗(かいと)が出てくる。
「お父さん、今日土曜だからゲームあと三十分だけやっていい?」
すでにパジャマに着替えているが、上着のボタンが二つもずれている。
「お前のその粘り強さ、将来、絶対に何かの役に立つと思うよ、お父さん」
「え?」
「何が、『え?』だよ。毎週毎週、初めて聞きますけど、みたいな顔してさ」
「ダメ?」
「だからダメだって」
「じゃあいい」
粘るわりには、諦めは早い。
自室へ戻ろうとする海斗に、「海斗、今度の休み、秩父行く?」と、尾崎は尋ねた。
「行く行く!」
途端に機嫌が直り、ダイニングに戻ってくる。
「一日目は畑の手伝いして、次の日からは川でキャンプ」
「僕がドライブコースとか休憩するパーキングとか決めていい?」
すでに楽しげな海斗に、台所から美南が、「あんたスイミングは?」と、声をかけてくる。
「休むよ。記録会ないし」
海斗が自室に戻ると、大皿の麻婆(マーボー)豆腐を運んできた美南が、「仕方ない。行くんなら持てるだけ
野菜もらってこよっと」と、ドンとテーブルに置く。
山椒(さんしょう)の香りがツンと鼻にくる。
麻婆豆腐を平らげると、もう一度風呂に入った方がいいくらい汗だくになった。それでもタオルで汗を拭いながら、汚れた皿を食洗機に突っ込んでいく。
「この鍋、食洗機いいんだっけ?」
尾崎は、エアコンの風の下で洗濯物を畳んでいる美南に尋ねた。
「ごめん、それ手洗い」
「オッケー」
「そっち暑い? 扇風機回す?」
「大丈夫」
いったん食洗機をスタートさせたところで、野上からの返信がある。さっき三連休は予定があるから久遠たちとの食事会に参加できないと送っていたのである。
『三連休、予定なしって言ってたろ?』
『ごめん、嫁の実家に行くの忘れてた』
『秩父?』
『そう。ごめん』
その辺りまで続けたところで、畳んだ洗濯物を抱えた美南が近づいてくる。
「さっきから誰とピコピコしてんの? 仕事?」
「野上」
「ああ、野上さんと今度同じチームになったんでしょ」
「そうそう。あいつがうちに来て初めてだから、なんか仲良いんだよ」
「前の木場さんだっけ? 合わなそうだったもんね」
「何が気に入らないのか、明らかに俺のこと嫌いオーラ出してくるからさ。やりづらかった。最後まで理由分かんないし。まぁでもその反動で野上とは仲良しこよしだよ」
そう笑う尾崎の話を最後まで聞きもせず、美南は洗濯物を各部屋に運んでいく。
『去年もらったトウモロコシ、めちゃ甘かった』
『またもらってくるよ』
『じゃ、延期? 久遠さんたち』
『行けば。誰か別の奴、誘えば』
『それヘンだろ。でも了解』
そこで野上からの連絡は途絶えた。
尾崎は皿洗いに戻った。焦げた麻婆豆腐がこびりついた土鍋をたわしで擦こする。ふと汗が引いているのに気づいて見ると、いつの間にか、美南が扇風機をこちらに向けてくれていた。

「あら、帰ってきた? 颯さんも海斗くんも暑かったでしょう。先にお風呂お風呂。水風呂みたいにぬるくしてるから」
畑仕事から戻った尾崎たちを、ちょっとした旅館のような玄関で迎えてくれるのは義母の梶原妙子(かじわらたえこ)である。
美南の実家は古くからの農家で、広い敷地には天守閣のような屋敷が建っている。
「お義母(かあ)さん、先にもいできた野菜だけ、車に乗っけちゃいますから。海斗だけ風呂に入れてもらえます?」
ファン付きの作業着は着ているが、頭から顔から玉のような汗である。
「そんなの、私が車に運んどくから」
「いやいや、それだけ僕がやりますから」
「まったく、颯さん、せっかくのお休みなのに。畑なんか出なくていいのよ」
尾崎はとりあえず海斗だけを預けて外へ戻った。幸い、雲が多い日で、風もある。
尾崎は大きな段ボール箱三つ分ももいできたトウモロコシやゴーヤや茄子(なす)を、軽トラから自分の車の荷台に載せ始めた。
しばらくすると、義父と義兄がそれぞれ運転するトラクターが敷地に入ってくる。
「尾崎くん、そんなの俺が移しとくから、先に風呂入んなよ」
トラクターの上から義兄の桔平(きっぺい)が声をかけてくる。
「いや、もうこれで終わりなんで」
停車したそれぞれのトラクターから二人が降りてくる。
「尾崎くん、まだまだ体力あるなあ」
義父の哲郎(てつろう)が頼もしそうに微笑む。
「さすがにもうへばりましたけど、今どき都心の夏を生き抜いてる営業マンを舐(な)めてもらっちゃ困りますよ」
「らしいね。暑さ、きっついんだってね」
そう言いながら義兄が農具を納屋に運んでいく。ちなみに義兄の桔平は婿養子である。
美南は、四歳上の姉、真朝(まあさ)との二人姉妹で、義父たちは後継ぎがなければ、将来的には離農するつもりでいたのだが、トヨタのディーラーで働いていた桔平が真朝との結婚を機に、後を継ぐことになった。
二人には中二、小六、小三になる三人の娘たちがいる。実は義父の哲郎も婿養子で、この梶原家は代々女系家族である。
夏場、この梶原家では、まだ日の高いうちから夕食が始まる。朝の涼しいうちに農作業を始めるためだが、すでに六時前には、全員が風呂も済ませて食卓に集まってくる。
「颯くん、そっちに扇風機回してね」
義姉の真朝が忙(せわ)しなく座敷と台所を行き来している。
三つ並べた座卓には夏野菜の料理や刺し盛り、さらに梶原家定番の豚の角煮が大皿で供される。
「こっち涼しいですよ」
台所に戻る真朝に、尾崎は応えた。実際、エアコンからの強風で少し寒いほどである。
「じゃ、先にほら」
義兄の桔平が缶ビールを渡してくれる。みんなで乾杯というわけでもなく、桔平が旨そうにゴクリと飲み、上座にいる哲郎もすでに焼酎の水割りを飲んでいる。
「いただきます」
尾崎もビールを注いで一口飲んだ。数時間の農作業で心地よく疲れた体に、冷えたビールが染み渡っていく。
「尾崎くん、メシ食ったらカラオケ行かない?」
桔平が誘ってくる。
「この前のスナックですか? いいですよ」
桔平の携帯が大きな着信音を立てたのはその時で、すぐに何やら返信している。
台所から戻ってきた真朝が早速その様子に、「こんな時間に、誰?」と尋ねる。
「農協の島崎さんだよ」
「ほんと? 颯くん、ちょっと確かめて」
「え?」
真朝に頼まれた尾崎は苦笑いした。
「だって、颯くんをスナックに誘った途端に連絡があるなんて、ヘンじゃない」
そう勘繰る真朝の背後から美南が顔を見せ、「ちょっと、やめてよ」と口を挟んでくる。
「だって、うちの人は前科者だから」
真朝の口調は柔らかいが、目は笑っていない。
「子供たち、降りてきちゃうから。お姉ちゃん、やめてって」
呆れ果てたような美南に、「子供たちの前でも、普通にこの話するもん」と、真朝はしれっとしたものである。
「ほら」と、桔平がスマホの画面を尾崎に見せたのはその時で、確かに「農協・島崎」とある。
真朝も本気で尾崎に確認させたかったわけではないようで、「さっ、私たちも食べよっか」と、席に着いたかと思うと、今度は、「亜子(あこ)ー! ごはんよー! みんな連れてきてー!」と、体を廊下の方に捩(よじ)って二階に声をかける。
この真朝と美南を見て、姉妹だと思う者はほとんどいないのではないだろうか。姉の真朝は母親似で、どちらかというと頑丈なイメージである。逆に美南は父親似で、目鼻立ちの通った細面(ほそおもて)である。
姉妹仲はそう悪くないらしいのだが、顔や雰囲気だけでなく、その話し方や言葉選びなどを見るにつけ、なぜ同じ家で同じように育てられてきて、こうも違ってくるのだろうかと思わされる。
美南も決しておとなしいタイプではないのだが、それでも何かと開けっぴろげな真朝の隣にいると、ちょっとしたお嬢様育ちのように見える。
ちなみに、真朝が桔平を前科者と呼ぶのは、もう四年も前になるのだが、桔平がスナックで出会った女性と二人きりで食事に行ったことがあったせいである。
美南の話によれば、それ以上のことはなかったらしいのだが、真朝は根に持っているという。
(つづく)
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