日本中に社会現象を巻き起こした映画「国宝」の原作者・吉田修一さんの作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』が各紙誌で絶賛、感涙の声が続々届いています。
18歳の初恋と二十年後の再会を描いた本作は「究極の恋愛小説」でありながら、「人生そのものを讃える壮大な物語」として、多くの読者の心を揺さぶっています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくも感動の物語。この夏だからこそ読んでほしい一冊です。
未読の方は、まずここで冒頭の一部分をお読みください。
* * *
(承前)
酷暑である。
朝の八時にはすでに三十度を超え、午後一時を回った今、照り返しの強いここ新橋の歩道は、おそらく四十度近くになっているはずである。
「しっかし、暑いな」
横で犬のようにぜえぜえと舌を出しているのは野上である。
「もうちょっと行けば、地下道に入れるよ」
そう励ます尾崎とて、汗腺がバカになったような大汗である。
「コンサルの日榮(にちえい)さんとの約束、三時半だったよな?」
野上に訊(き)かれ、
「とりあえず駅で昼メシ済ませとこう」
尾崎は歩調を早めた。
「なあ、尾崎、時間あるしさ、さくっとサウナどう? 水風呂入って、サウナの食堂で昼メシ」
「あ、いいかも。今夜の接待までまだ一日長いしな。賛成」
タイミングよくすぐそこに安そうなサウナの看板がある。野上もこの看板を見ての提案だったらしい。
二人は吸い込まれるように、その雑居ビルに入った。
熱した体を水風呂で冷やした二人は、やけにサイズのでかいサウナ着で、地下の食堂に入った。
老舗(しにせ)のサウナらしく、食堂は畳敷きで、これでこのあと仕事がなければ、目の前のポスターにある冷えたビールを一気飲みしたいところである。
二人が注文したのは日替わり定食で、生姜(しょうが)焼きも唐揚げも少し味が濃すぎたが、付け合わせの切り干し大根がよく味が染みていて旨(うま)い。
その切り干し大根をほぼ一口で食べた野上が、「あ」と、声をもらす。
「……そういえば、久遠さんから返信きた」
尾崎は不意に出てきた久遠の名前に、「え?」と箸が止まった。
「この前、名刺交換したろ。で、まあ、お互いひどい目に遭いましたねぇ、みたいな、もしよかったら、今度みんなでごはんでも行きませんかぁ、みたいな、やりとりしてて。そしたら、今朝、行きましょうって。ゲリラ豪雨のなさそうな日にって」
聞き終わると、尾崎は生姜焼きを頬張(ほおば)った。そして、告げた。
「久遠、結婚してるよ」と。
「え! でも、結婚指輪してなかったぞ」
野上がひどく慌てる。
「よく見てるな」
「この年の独身男ってのは初対面の女に会ったら、まずそこ見るの」
「そんなもん?」
「違うの?」
先日の再会が高校以来、二十年余ぶりというわけでもなかった。同窓会などにはお互い参加するタイプではなかったが、その間に共通の友人の結婚披露宴で一度、また五年ほど前にも、やはり恩師の葬儀で顔を合わせ、ほんの少し言葉は交わしていた。
「子供は?」
ふいに野上が訊いてくる。
「さあ。でも、俺が聞いてる範囲だといなかったと思う」
「離婚したとかない?」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「俺も詳しくないよ。でも、確か旦那さん、植物の研究してる人」
「大学の先生とか?」
「いや、世界中の珍しい木とか果物とか探してきて、輸入関係?」
「へえ、そんな仕事あるんだな。……あ、でも、もらった名刺に久遠愛(あい)って。ああ、でも、今どき旧姓使うか」
あの日、どしゃぶりの中、タクシーは東小金井駅に着いた。きっちりと料金を四等分している間、なんとなく仕事の話になった。すると、偶然とは重なるもので、「そういえば、なんであんな所でずぶ濡れになってたの?」と尋ねる久遠に、野上が、「今度、あそこの都立多摩公園に美術館を建てることになってて、うちら建設会社なんですよ」と答えたところ、「え! 私たち、その美術館のPRから運営まで請け負ってる代理店で……」と、久遠が目を丸くしたのである。
本来この段階から広告代理店が絡んでくることはない。ただ、今回の案件は都立公園内を民間企業が借り受けて美術館を運営するという全国でもかなり特殊な例となる。
「なーんだ、じゃあ、遅かれ早かれ顔合わせてましたよね」と野上。
ちなみに久遠の隣でまだボロ傘を元の形に戻そうとしていたのは、一緒にチームを組んでいる梅本潤子(うめもとじゅんこ)である。

「あー、また灼熱地獄に逆戻りかぁ」
サウナで日替わり定食を平らげた尾崎は、その場で背伸びした。そのまま立ち上がろうとすると、「なあ」と、野上が呼び止める。
「ん? そろそろ出ないと」
「あのさ、先に一つだけ確かめていい? 久遠さんって高校の頃、絶対モテたよな?」
「なんで?」
「誰でもそう思うって」
「まあ、でもちょっと口悪いんだよ」
「ああ、それはなんとなく、この前、感じた。……あのさ」
野上がここにきて、なぜか神妙になる。
「……尾崎と久遠さんって、何かあったりしたの?」
「なんで?」
「いや、なんでってこともないんだけど。オッソー、クオンって」
「ないよ」
「だったら言うけど、俺さ、彼女、ドンピシャなんだよね。でも、もし尾崎がなんか嫌な思いするんだったら、先に言っといてほしいなって。というか、俺、マジで尾崎に恩を感じてるからさ。お前だけは裏切りたくないみたいな」
異業種の会社で働いていた野上を、今の会社に引っ張ってきたのは尾崎である。まだお互いに新人だった頃、とある営業職の研修で知り合い、なんとなく馬が合って、その後も付き合いが続いていたのである。
「だから、久遠、旦那がいるって。って言うか、美大生のなんとかちゃんはどうしたんだよ」
尾崎は呆(あき)れたように食堂を出た。
二人は狭いロッカー室で手早く着替えた。野上が左胸に貼られた肌色のシールを剥がす。濡れているので皮膚が引っ張られるらしく、「痛(い)たたた……」と、大げさに顔を歪(ゆが)める。
シールの下には、五芒星(ごぼうせい)のタトゥーが隠れている。陰影のあるシンボルマークで、野上曰(いわ)く、五芒星には人生の道しるべ、正しい方向に導くという意味があるらしい。
ちなみに、野上が左胸にこのタトゥーを入れたのは、今年の元日である。
尾崎は、それを会社の同好会でやっているバドミントンの練習後に知った。体育館の隅で着替えていた時である。
「何、それ?」
思わず尾崎は尋ねた。
「あっ、そうだ。忘れてた」
野上が慌ててタオルで隠す。
「何、それ?」と、尾崎は繰り返した。
「だいぶかゆみが取れてきてたから忘れてたよ」
「え? 本物なの? シールじゃなくて?」
「シールなんか、こんな年になって貼るかよ」
「いやいや、こんな年になって本物なんて尚更ないだろ」
ちなみに、野上が年甲斐(としがい)もなくタトゥーを入れた顚末(てんまつ)は次のような流れである。
今年の正月、野上はかねてより親しくしている花乃(はなの)ちゃんと初詣に出かけた。行列に一時間近くも並んでいるうちに退屈しのぎの会話から、今年はなんか新しいことにチャレンジしたいよね、という流れになった。
「花乃ちゃんは、何か挑戦してみたいことあるの?」
「え? 私? あったかなぁ……」
自分で言いだしたくせに、会話の行き先が決まっていないのはいつものことらしく、野上はそんな彼女の横顔を微笑(ほほえ)ましく眺めていた。
花乃ちゃんはテキスタイルを学ぶ美大生である。尾崎も何度か会ったことはあるのだが、偏見を恐れずに言えば、絵に描いたような美大生の女の子で、ハロウィンの魔女のようなマントを着ていることもあれば、膝まである赤いエナメルブーツを履いていたりもする。
一方の野上が、絵に描いたような男子校野球部出身なので、二人が並んでいると、カレーと蕎麦(そば)みたいなのだが、「富士そばにそのセットあるじゃん」と、野上は気にしていない。
ただ、尾崎が言うカレーは独特なスパイスを使って南国の花で飾られたキーマカレーで、やはりその隣に、ぶっとい田舎蕎麦は似合わない。
とはいえ、見かけが不似合いだからといって、外野がとやかく言うことでもない。だが、野上と花乃ちゃんの場合、他にも何かと気になる点が多い。まあ、年の差は今どきそう気にする必要もないのだろうが、片や青春真っ盛り、片や転職したばかりの中堅社員となると、その足並みを揃わせるのはなかなか難しい。
「野上、寝てない?」
「分かる?」
ある時、尾崎は目の下に濃い隈(くま)を作って出社した野上を呼び止めた。
「昨日さ、花乃ちゃんと夜中の三時くらいまでクラブにいて。とりあえず始発で帰って、ちょっとだけ寝て、今ここ」
「学生じゃないんだからさ、平日だぞ。それ、きついって」
「いや、俺だって分かってんだよ。分かってんだけど、一緒にいると、あっという間なんだもん」
「なんだもんって……」
「俺さ、朝帰りなんて学生以来だよ。働くようになってからなんて、何もなければ十時には布団に入ってた退屈な男だぞ。だから楽しいんだよ、なんか。体の細胞がさ、全部『楽しい!』って叫んでるみたいなんだよ」
野上が花乃ちゃんと知り合ったのは、近所の小料理屋である。当時、花乃ちゃんはバイトで入っており、花乃ちゃんファンの客も多かったという。
そのうち、花乃ちゃんを囲む食事会などが始まった。花乃ちゃん一人に対して、男たちが三、四人。近所に新しいイタリアンができれば訪れ、話に出た映画が始まれば観に行き、たまにはレンタカーを借りて鴨川の水族館にも足を延ばす。
側(はた)から見れば、少し奇妙なグループなのだが、小料理屋でのふだんの状況がそのまま延長されているだけなので、本人たちにはさほどの違和感もないらしい。
ちなみに男たちの中には、大学生もいれば、野上よりも年上の大学講師もいるという。
で、話は今年の初詣の場面に戻る。
「あ、私、やってみたいことあった。ずっとやりたかったけど、なかなか勇気出なくて。でも、野上さんとだったら、できるかも」
あとほんの少しで賽銭箱(さいせんばこ)に到着するタイミングだった。
「何?」と、野上は花乃ちゃんに尋ねた。
「一緒にタトゥー入れようよ」
野上曰(いわ)く、人間というのはあまりにも予想外の方から球が飛んでくると、本能で思わずナイスキャッチしてしまうものらしい。
「それで、それ?」
尾崎もさすがに言葉がなく、まだ痛々しい野上の胸元の五芒星を改めて見た。
「そう、それでこれ」
照れ臭そうに野上が頷(うなず)く。
「……いや、分かってるよ、そんなの。言われなくたって、正式な彼女でもないしさ、他にも俺みたいな男がいるんだろうしさ、もっといえば、たぶん遊ばれてるだけだと思うよ。でもさ、初詣だぞ。それも二人きり。なんか、期待しちゃうじゃんか」
野上が一気に吐き出す。きっと自分でもいろいろと分かっているのである。だからこそ、こんなにも苦しそうなのである。
沈黙が続いたあと、
「笑うなよ~」
野上がいよいよ恥ずかしそうに、まだ痛々しい五芒星を手のひらで隠す。
「笑わないよ」と、尾崎は即答した。
「……似合ってるかどうかっていったら微妙だけど、でも、別に笑わないよ」と。
胸から少しだけ手のひらを離し、五芒星を覗(のぞ)き込んだ野上が、「ありがと」と笑う。
「……そうだよな、尾崎は笑わないよな。尾崎って、こういうの、笑わない奴だよな」
「でも、ごめん。帰り、急に思い出して、電車の中で吹き出すかも」
なんとなく神妙になった空気を尾崎は笑い飛ばした。
「いいよいいよ、俺がいない所だったら、いくらでも笑え。どうせ聞こえないし」
「はい、ポーズ」
尾崎はカメラを向けた。
「いいって」と照れながらも野上がボディビルのポーズをとる。
(つづく)
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この夏イチオシの恋愛大作『タイム・アフター・タイム』

「国宝」著者の作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』。各紙誌絶賛、読者から感涙の声が続々届いています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくもあたたかな物語。全536ページの堂々たる長編でありながら、一度読み始めると止まらない圧倒的なリーダビリティも大きな魅力です。
この夏だからこそ読んでほしい一冊。
ぜひ、この冒頭試し読みで話題の物語を覗いてみてください。











