日本中に社会現象を巻き起こした映画「国宝」の原作者・吉田修一さんの作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』が各紙誌で絶賛、感涙の声が続々届いています。
18歳の初恋と二十年後の再会を描いた本作は「究極の恋愛小説」でありながら、「人生そのものを讃える壮大な物語」として、多くの読者の心を揺さぶっています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくも感動の物語。この夏だからこそ読んでほしい一冊です。
未読の方は、まずここで冒頭の一部分をお読みください。
* * *
(承前)
「どうすんだよ!」
追ってくる野上の声を無視して、尾崎はオフィスビルを飛び出した。目の前の大通りに出て、走ってきたタクシーに手を上げる。日盛りでアスファルトの上は四十度近いはずだが、不思議と暑さも感じない。
停まったタクシーに乗り込むと、「どうすんだよ!」と、すぐに野上も乗り込んでくる。
「水天宮までお願いします」
尾崎が頼むと、焦った二人の様子を察した運転手が、少し強引に車を出してくれる。
「どうすん……」
「だから、ここで俺たちが言い合ってたって仕方ないって」
また同じことを繰り返そうとした野上を、尾崎は制した。
「……とにかく日榮に行って、話を聞いて。各部署に相談するのは、それからだよ」
日榮というのは、今案件で船頭役を務める大手建築コンサルタント会社である。
今になって尾崎の額から汗が噴き出てくる。
今朝、とあるアメリカの法律事務所から連絡が入った。実際には仲介している日本の弁護士からの連絡だった。
簡単にいえば、現在、尾崎たちが進めている都立多摩公園に建設予定の美術館の設計デザインに明らかな剽窃(ひょうせつ)が見られるという告発である。
今回の新美術館建設については、尾崎たちの建設会社が国際的なコンペティションを行った。
建築規模がさほど大きくなかったせいか、海外からの参加はそう多くなかったが、それでも国内外から名だたる建築家がコンペに参加し、中には数年前にプリツカー賞を受賞したフランス人建築家の事務所もあった。
厳正な審査の結果、選ばれたのが甲斐宇童(かいうどう)という気鋭の建築家だった。まだ四十代前半だが、五年ほど前には銀座にある大手ブランドの自社ビルで国際的な建築賞を受け、大阪の心斎橋や仙台の一番町のシンボルとなるような商業ビルなど、大きな案件も多く手がけている。
もちろん審査は公正に行われた。東京都公園協会の理事が審査委員長を務め、審査を行った委員には大学教授や建築家など専門的な知識を有する人々が名を連ねた。
実は、このコンペの直後、尾崎はちょっとした不安を感じる話を耳にしていた。
それは審査委員たちを労(ねぎら)うために催されたホテルの立食パーティーでのことである。
尾崎たちも接待要員としてパーティーに参加していたのだが、そんな中、あるベテランの建築家と大学教授が次のような話をしていたのである。
「結局、甲斐くんのデザインというのは、今の時代にピッタリと合ってるんだよね」
そう話すのは、世間にその名の知れたベテラン建築家である。
「ただ、そうなると、どうしても他の今どきの建築家たちと、そのコンセプトやアイデアが被(かぶ)ることがあるでしょう」
そう受けたのは、こちらもNHKで世界の有名建築物を紹介するレギュラー番組を持っている大学教授である。
「その通り。甲斐くんが那須に建てたホテルね。あれなんか、まあ、言ってしまえば、ギリギリだと思いますよ。敢(あ)えてギリギリって言葉を使いますけど」
「ああ、あれは私もちょっと大丈夫なのかなとは思いましたね。だって、オランダ人のヤコブなんとかっていう若手建築家のデザインやコンセプトと、ほぼ同じでしょう」
「まあ、でも、そこが建築の難しいところで、剽窃やパクリなんて言い始めると、どの時点までのアイデアが、その建築家のオリジナルとして認められるかっていう、すごくデリケートな問題になりますからね」
「実際、そのヤコブくんの作品も自分のYouTube で紹介してるだけで、実際にどこかに建ってるというわけでもないですしね」
「でも、そうなると、建てた者もん勝ちっていう、嫌な世界になっちゃいますけどね」
「うーん、でもまあ、甲斐くんの場合は、正直ちょっと多い。考えてみれば、デビュー作からその傾向はあって、よく言えば、器用」
「でも、やっぱり川立ちは川に果てますよ」
大手建設会社で働いてきた尾崎である。もちろんこの手の話も初めてではない。実際、こういったトラブルも多く、力関係にもよるが、ほとんどの場合は和解する。教授たちが言うように、建築デザインの剽窃や盗用というのは、なかなか立証できないもので、現実的に裁判で争うという事例はほとんど見られない。
慌てて乗り込んだタクシーが水天宮に近づいてきたところで、少し尾崎たちも落ち着いてきた。
道が空いていたのも一つ、日榮コンサルタントの担当者と連絡が付いたことも理由の一つである。
ちなみに日榮の担当者も、すぐにこの件で審査委員だった大学教授に連絡を入れたところ、「まだ向こうの設計図が見られないので、早急には判断できませんけど、外観のデザインだけに関して言えば、これくらいは偶然の一致と言えなくもないでしょうね。まあ、かなり厳しいのは厳しいですけどね」との意見をもらったらしく、少しだけ安堵しているという。
「あーあ、今週はちょっとゆっくりできるかと思ったら……」
やはり少し落ち着いたらしい野上が、久しぶりに口を開く。
「……秩父、どうだった? あっちの方が都内より暑いんじゃないの?」
野上に訊かれた尾崎は、「子供たち連れて渓流で遊んできたよ。久しぶりに川に入ったりして」と笑った。
状況としては、そんな呑気(のんき)な話をしている場合ではないのだが、この狭い車内の空気を険悪にしたところでどうにもならない。
「そっちは?」
今度は尾崎が尋ねた。ふと口にしてみて、自分がかなりそのことを気にしていたことが分かる。
「こっち? ……暑くて、一歩も部屋から出てないよ。メシはUber Eats 。あとはずっとサッカー観てた」
「じゃなくて、久遠たちと食事行ったんじゃないの?」
「え? 行ってないよ。だって、尾崎が行けないっていうから」
「だから、誰か別の奴誘えばって送ったら、了解って」
「ああ、あの了解は、尾崎が行けないなら、また今度って意味の『了解』」
改めて野上に言われると、確かにあの「了解」はそういう意味にしか取れなくなる。
となると、桔平と行ったスナックで、今ごろ二次会かななどと思いながら、野上からの連絡を待っていた自分が可笑(おか)
しくなる。

日本橋浜町のビルに入っている日榮コンサルタントに到着すると、尾崎たちを予想外の人物が待っていた。
会議室を取ってますから、という担当者に案内されたブースの窓からは、きらきらと川面(かわも)を輝か
せた隅田川が見下ろせる。その景色を眺めていた女性二人が振り返る。
「あれ」
「え?」
声を上げる尾崎と野上に、「お疲れさまです。この前はどうも」と、挨拶(あいさつ)してきたのは、久遠と、あの雷雨の日も一緒だった梅本潤子である。
「あれ、もう会われてます?」
日榮の担当者が不思議がる。
「先日、公園で偶然お会いして」
答えたのは久遠である。
「じゃ、紹介はいいですね。ちょっと待っててもらえますか。うちの担当者たちもすぐに呼んできますんで」
担当者が会議室を出ていく。
「お疲れさまです」
四人だけになると、誰からとなく、また挨拶を交わした。
「久遠さんたちはどうして?」
尋ねたのは野上である。
もちろんいずれ報告は行くだろうが、少し早すぎる。
「そちらに送られてきたものと同じものが、うちだけじゃなくて、スポンサーにも送られたんですよ」
答えたのは梅本潤子である。この前の豪雨の日は、壊れたビニール傘ばかり気にしていたが、その話し方のせいか、かなり印象が違って仕事ができそうである。
「あららら」
野上が大げさに声を上げる。
業界の慣例で、これが建築家同士のことであれば、この手の剽窃や盗用問題は内々に処理できる可能性もあった。しかしここに何よりも世間体を気にするスポンサーが絡んでくると、まったく話は違ってくる。
「スポンサーって全社にですか?」と、尾崎は尋ねた。
「残念ながら大口の三社ともに」
頷いたのは久遠である。
「そうですかー。……で、各社の反応はどうなんですか?」
尾崎は尋ねた。
今度は梅本の方が、「良くはないですね」と、一つため息をつく。
「……もちろん、内々で解決できるんであれば問題ないんですけど、向こうサイドがさらに騒いだ場合、日本のマスコミに広まる可能性が出てくるでしょ。そうなると、さすがにこのまま進めるわけにもいかないですし、もし強引に進めたりすると、それこそスポンサー企業にとってはかなりのイメージダウンですからね」
梅本の話を受けて、「世間って好きですからねー、こういう剽窃とか盗作の話題」
野上がそう口にしたところで、日榮の担当者たちがやってきた。
すぐにテーブルや椅子を準備して、車座になると、今朝方アメリカから送られてきたデータをみんなで覗き込む。
「うーーーん」
「これは……」
「さすがにひどいな」
口々にもれてくるのは、そんな言葉である。正直、素人目にも甲斐の設計デザインが剽窃や盗作と呼ばれて止む無しなのである。
その後、侃々諤々(かんかんがくがく)の話し合いが続いたあと、少し休憩することになった。
尾崎も会議室を出て、トイレの洗面台で顔を洗った。その足でリフレッシュルームに入ると、そこに久遠がいた。自動販売機で買ったコーヒーを片手に、隅田川を眺めている。梅本はいないようだった。
「うちからも川が見えるよ。隅田川じゃなくて、荒川だけど」
尾崎もコーヒーを買いながら声をかけた。
振り向いた久遠が、「川って街だよね。街の一部。でも、海って空だよね。空の一部」と呟く。
「海は空か。なんか分かる気がする」
「山の中の川もやっぱり街なんだよね。いや、村かな。どっちにしろ、人のもの」
「長崎にはこんな大きな川なかったもんな」
「海はどこに行ってもあったけどね」
振り返った久遠は笑顔である。
※この続きは書籍でお楽しみください。
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東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくもあたたかな物語。全536ページの堂々たる長編でありながら、一度読み始めると止まらない圧倒的なリーダビリティも大きな魅力です。
この夏だからこそ読んでほしい一冊。
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