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真説 豊臣兄弟とその一族

2026.07.12 公開 / 2026.05.28 更新 ポスト

悪名は後世の創作だった?――豊臣秀次の素顔に迫る呉座勇一(国際日本文化研究センター准教授)

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 は早くも物語の約半分の放送が終わり、折り返し地点を迎えています。
そんな豊臣家のストーリーですが、今回は豊臣秀吉の姉・ともの子である秀次について見ていきます。

妊婦の腹を裂く「殺生関白」というおぞましい悪名は、秀吉による粛清を正当化するための創作だったのか?
最新研究が描くのは、公家と文芸を愛した教養人・秀次の真実の姿です。秀頼誕生で揺らぐ立場と、天皇の侍医を独占した「不手際」が招いた悲劇。権力を持たぬ名ばかりの関白が、なぜ非情な最期を遂げねばならなかったのか。謀反の嫌疑に隠された豊臣政権の歪みと、一族根絶やしという惨劇の深層とは?
呉座勇一さんによる『真説 豊臣兄弟とその一族』から迫ります。

*   *   *

「殺生関白」の実像

次に、秀次の「乱行」について考察すると、彼の不祥事にまつわる逸話の多くは、後世の脚色である蓋然性が高い。太田牛一の『大かうさまくんきのうち』や小瀬甫庵の『甫庵太閤記』には、秀次が面白半分で罪なき民衆を殺した、といったたぐいの、狂気を疑わせるような行動が記録されている。

しかし、これらの記述は信頼性の高い同時代史料には見られず、秀次死後に、秀吉による秀次一族に対する残虐な処分を正当化するために創作されたと考えられる。

秀次の悪逆のイメージを決定づけたのは、例によって『絵本太閤記』である。同書では秀次の好色酒乱が描かれ、また残虐性が誇張され、後世に多大な影響を与えた。やがて、胎児を見たいと言って妊婦の腹を割いたといった荒唐無稽な俗説が広まり、「殺生関白」(摂政・関白のもじり)という人物像が浸透した。

実のところ、当時の公家の日記では、秀次の暴虐を指摘する記述はほとんどなく、むしろ秀次が文芸活動に積極的に関与していたことが好意的に示されている。

たとえば、公家の山科言経の日記『言経卿記』や同じく公家の西にしのとういんときよしの日記『ときよし』などには、秀次が彼らに経済的な援助を加えていたことが記されており、共に能や茶の湯を楽しんでいた様子も描かれている。

これらの記録を総合すると、関白秀次は朝廷の一員として公家や禅僧と親しく交流し、彼らの文芸活動を支援した文化的な人物であると評価できよう。

前述のように、秀次処分の背景には、豊臣政権内の権力構造の変化がある。文禄二年(一五九三)、秀吉の側室である淀殿が拾(のちの秀頼)を出産したことで、豊臣家の後継者問題が再燃した。秀次は秀吉の正式な後継者として関白に就任していたが、秀頼の誕生によってその立場が揺らぎ始めた。

この頃から、秀次に対する悪い風評が流れ、彼の行動が問題視されるようになったと考えられる。

もっとも、秀次に何の落ち度もなかったわけではない。『言経卿記』などの記録によると、秀次は秀頼誕生の前後から、失脚の恐怖からか情緒不安定な状態が続き、関白としての振る舞いに問題が見られるようになった。正親おおぎまち天皇の崩御に伴い喪に服すべき期間中に狩猟を行ったり、鳥肉を食べたりするなど、禁忌に反する軽薄な行動が目立ち、これが秀吉周辺の不信を招いた可能性がある。

特に、秀次の狩猟好きが石田三成らの反感を買い、狩猟と称して謀反の準備のために軍事演習をしているのではないかとの疑いを深める要因になったとも言われる。

結論として、秀次の問題行動は、後世の物語的脚色や政治的宣伝によって誇張された側面が大きく、その多くは取るに足らない俗説として退けられる。

一方で、彼の振る舞いに、秀吉に処罰の口実を与える不用意な部分があったことは否定できない。秀頼誕生前後の精神的動揺が秀次の奇矯な行動を生んだ可能性が指摘できよう。

天脈拝診怠業事件

さらに秀次の軽率さに焦点を当てると、彼の失脚の一因としててんみゃくはいしんたいぎょうけんが挙げられる。この事件は、豊臣政権の番医であるげんさくが、後陽成天皇の治療を後回しにし、関白秀次の診療を優先したというものである。秀次の命令によって天皇の治療が一時的に滞ったことで、朝廷内に大きな混乱をもたらし、この不始末が秀吉の不信をさらに募らせる結果となった。

秀吉は秀頼の誕生以前から、為政者としての資質に欠ける秀次への不満を抱いていたが、秀頼の誕生と秀吉自身の体調悪化が、その不満を増幅させた。

秀吉は文禄二年(一五九三)から三年にかけて病気がちとなり、失禁や腕の痛みなどの症状に苦しんでいた。先が長くないと自覚した秀吉は、自身の死後の秀頼の将来を深く案じたことであろう。秀吉は秀頼の健康状態に強い関心を持ち、彼が病気を克服する様子を見て、その健全な成長に安堵した。

一方で、自身の死後に秀頼の天下を脅かしかねない秀次の存在は次第にうとましくなっていったと考えられる。

天脈拝診怠業事件は、文禄四年六月十九日に秀次が伏見へ出かけ、翌日発病したことに端を発する。秀次は番医である玄朔を呼び寄せ診療を受けたが、玄朔はその直前まで後陽成天皇の治療にあたっていた。天皇の病状は重く、治療が必要な状態だったにもかかわらず、玄朔が秀次のもとにいたため、宮中では処方薬を取り寄せることで応急処置をとらざるを得なかった。この結果、天皇の治療が遅れたことに対し、朝廷側が強い反発を示した。

天皇の治療よりも自身の診療を優先させるという秀次の軽挙妄動は、天皇の権威を背景に成立した豊臣政権の正統性を脅かす行為とみなされた可能性がある。そのため、秀次の行為は「相届かざる子細」として処罰の対象となったと考えられる。

既述の通り、七月三日、秀次の屋敷である京都の聚楽第に石田三成らの奉行衆が訪れ、秀次謀反の噂について詰問している。

すると秀次は、同日に朝廷へ五千枚の白銀を献納している。これは、秀吉から謀反の嫌疑をかけられた秀次が、天脈拝診怠業事件で生じた朝廷との溝を修復し、朝廷に秀吉への取り成しを依頼するために献金したと考えられている(近年の研究によれば、名目上は秀吉の病気平癒を祈禱してもらうための献金だという)。

けれども、この行動はむしろ逆効果となった可能性がある。献金の目的が秀吉に怪しまれ、秀次の失脚を早めたかもしれない。

なお、この問題に関連して、蒲生がもううじさとの遺領相続問題における秀吉と秀次の政治的対立が秀次失脚の要因だとする学説もある。

しかし、蒲生氏郷の嫡子つる(のちのひでゆき)から会津領を没収する秀吉の方針が撤回されたのは、前田利家ら諸大名の反対意見があったからで、秀次が処分を覆したという説には史料的根拠がない。秀吉と秀次の政策的対立というより、秀次の軽率な振る舞いが秀吉に粛清の口実を与えたと見るのが妥当である。

関白秀次に実権はあったか

秀次の失脚の背景には、老衰した秀吉の幼児秀頼に対する盲目的な愛情という単純な問題だけではなく、秀次自身の資質不足が深く影響していた。

いったん持ち上がった秀次謀反の嫌疑は、生前に既に打ち消されており、公式な処分理由は「相届かざる子細」という抽象的な表現であった。この表現の曖昧さがかえってこうかんに「謀反」の噂を広める皮肉な結果を招いた。しかし事実は、関白就任以来の秀次の度重なる不始末を問題視したものであり、彼の失脚は思慮分別の欠如や関白職への過度な執着に起因している。

大きな失態とみなされたのは、前述のように、後陽成天皇が病に倒れた際の出来事である。天皇の治療にあたっていた豊臣政権の番医・曲直瀬玄朔を、秀次は自身の診療のために自邸に召喚した。

この行為は、関白の地位を濫用し、天皇を差し置いて自身の治療を優先する傲慢な行為と捉えられた。これは朝廷内における天皇と関白(天皇の臣下)との序列を逸脱するものだった。この天脈拝診怠業事件と、それに関連すると見られる秀次の朝廷への献金が、秀次処罰の直接的な理由として利用されたと推定されている。

ところで、秀次事件の背後には、豊臣政権内部における太閤秀吉と関白秀次との権力闘争があったとの説がある。当時の豊臣政権は朝鮮出兵という戦時体制下にあり、太閤秀吉が対外戦争に専念するため、内政の実務は関白である秀次を通じて行われたというのだ。この説においては、国内統治に関与する秀次の権力が増大していく状況を秀吉が警戒したことが、秀次粛清を生んだとされる。

しかしながら、同時代史料を検討する限り、関白就任時点で秀次には全国統治権が与えられておらず、その後も秀吉から権力を譲られた形跡はない。関白職は名目的なものであり、政権中枢の政策決定から排除されていた秀次は実質的には一大名にすぎなかった。

そのため、秀次と秀吉の間に「同格」としての権力闘争があったとは言い難い。関白は太閤の命令を忠実に執行する機関に留まり、関白と太閤との間の駆け引き、交渉によって豊臣政権が運営されていたわけではなかった。

秀次事件を契機として、石田三成らぶん派(集権派)による中央集権強化が進められたとの見解も提出されているが、必ずしも実態に即していない。後述するように、三成は既に秀吉側近として権勢をふるっており、秀次失脚後に新たに権力を得たわけではなかった。三成が秀吉に讒言して秀次を葬ったという話も後世の創作である。

結論として、全国統治の政策決定権は、秀次の関白就任後も一貫して秀吉が握っていた。関白秀次は太閤秀吉の命令を忠実に実行する立場であり、秀次が独自の政権を築いていたわけではなかったのである。

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呉座勇一 国際日本文化研究センター准教授

一九八〇年、東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科研究員、東京大学大学院総合文化研究科学術研究員などを経て現職。日本中世史専攻。『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『応仁の乱』(中公新書)、『頼朝と義時』(講談社現代新書)、『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)、『動乱の日本戦国史』(朝日新書)など著書多数。

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