秀吉を天下人へ押し上げたのは、弟・秀長の知られざる剛腕だった。
豊臣政権ナンバー2として、毛利や長宗我部との外交を担う「取次」の最前線に立ち、
大和・紀伊・和泉七十万石を盤石に治めた卓越した手腕。
「公儀の事は秀長に」と言わしめた誠実な人柄は、諸大名から絶大な信頼を集めた。
もし彼が長命であれば、豊臣の天下は続いたのか。秀吉の影に隠れた「真の調整役」の生涯と実像について、
呉座勇一さんによる『真説 豊臣兄弟とその一族』からお届けします。
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「取次」秀長の活躍
秀吉の権力が織田家を凌駕し、事実上の中央政権を構成するようになると、補佐役の秀長も単なる武将の域を超え、諸大名との外交交渉に従事するようになる。すなわち、秀長は豊臣政権において「取次」の機能を担ったのである。
さて「取次」とは、政権の主宰者と諸大名の間を取り持つ存在である。取次の役割は、①大名に対する軍事動員・軍事指揮、②大名に対する後見・政策指導、③秀吉の意思の伝達・服属の促進の三点にまとめられる。以下で秀長の「取次」として活動を見ていこう。

本能寺の変を知った秀吉は、備中高松にて毛利氏と急いで講和するが、毛利氏との具体的な領土境界の画定は棚上げされていた。山崎の戦いで明智光秀を討ち、清須会議で織田領の再分配が行われ秀吉の政治的立場が安定すると、秀吉は改めて毛利氏と交渉し、秀吉領と毛利領の境界を画定しようとした。この交渉役を任されたのが、蜂須賀小六(正勝)と黒田官兵衛(孝高)である。
この交渉は長引き、天正十三年(一五八五)正月の妥結まで正勝・孝高の両名は一貫して対毛利氏交渉に関わっている。史料的には明確にできないものの、後述する秀吉の対四国政策を考慮すると、正勝・孝高の上位には秀長が存在し、秀長が「取次」、つまり外交責任者であったと思われる。
蜂須賀正勝は対四国政策でも活躍する。当時、毛利輝元と長宗我部元親が伊予国をめぐって争っていた。既に毛利氏は豊臣政権への服属の意思を示していたので、秀吉は長宗我部氏を滅亡させた後に伊予・土佐両国を毛利氏に引き渡すという方針を立てていた。
しかしその一方で、ほぼ同時期に豊臣政権と長宗我部元親との間にも和議の動きがあり、元親は讃岐・阿波を返上する見返りに、本領土佐の安堵と伊予の付与を要求していた。この元親との交渉を担ったのが、蜂須賀正勝だった。いわば秀吉は和戦両様の構えを見せていたのである。
秀吉から讃岐・阿波両国の接収の命を受けた秀長は四国へ渡り、長宗我部氏に軍事的圧力をかけた。正勝は秀吉・秀長の指示を仰ぎつつ、土佐一国の安堵を長宗我部氏に認めた上で、伊予を毛利・長宗我部で分け合うという案で交渉をまとめようとしていた。
ところが秀吉は毛利氏重臣である小早川隆景との友好関係を優先し、突如、交渉を反故にした。
天正十三年六月、秀吉は長宗我部討伐を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。総大将に任命された秀長は主力部隊を率いて四国へ進軍し、八月に長宗我部氏を降伏させた。秀長は秀吉から戦後処理を一任され、長宗我部元親に土佐一国のみの安堵を認めた。秀長が政権ナンバー2だったことは疑いない。
秀長の領国政策

天正十三年(一五八五)四月、秀長は紀伊・和泉の統治を任され、閏八月には四国平定の功績により大和国をも領有することとなった。これにより、秀長は大和・紀伊・和泉の三国(約七十万石)を領国とする羽柴一門の筆頭大名となった。
しかし、秀長の領国経営には多くの障害があった。
まず、大和国においては、従来の大名であった筒井定次が伊賀国へ移封された際、多くの武士がこれに従って大和を離れたため、新たな統治機構を構築する必要があった。特に宇陀郡には秀長の直接支配が及ばず、厄介であった。秀吉の直臣で、それまで筒井家の後見役を務めていた伊藤掃部助が同郡を管理していたが、天正十四年に熊野一揆の鎮圧戦で戦死すると、一時的に秀吉直臣の加藤光泰の管轄となった。
その後、加藤光泰が近江へ移封されると、秀長の宿老である羽田正親が宇陀松山城に入り、ようやく大和国全域が秀長の統治下に組み込まれた。
紀伊国においては、雑賀衆などの一揆勢力が秀吉に対して激しく抵抗し、統治が困難であった。中でも、天正十四年に熊野地方で勃発した牢人や反豊臣勢力による一揆(前出の熊野一揆)は深刻で、秀長が直接鎮圧に乗り出す事態となった。
さらに、紀伊国では地元の国衆である新宮(和歌山県新宮市)の堀内氏善や和佐(同日高川町)の玉置氏が一定の自治権を持ち続け、秀長の直接支配が及ばない地域も存在した。
筒井氏の城であった大和郡山城は秀長の本拠地として整備された。天正十四年から天正十八年にかけて、城郭の防備を強化し、羽柴一門筆頭にふさわしい壮麗な天守が築かれた。
秀長は、多岐にわたる施策を通じて領国の安定と発展を目指した。
第一に、検地の実施と知行宛行・寺領給与である。秀長は領国内の正確な土地把握と年貢徴収の安定化を図るため、検地を実施した。天正十三年時点で早くも紀伊国での検地を計画したが、実施が確認できるのは天正十五年以降である。
大和国では、天正十四年に興福寺領の検地を行い、翌天正十五年には十津川地域を中心に広域検地を実施した。検地の結果に基づき、知行宛行が行われ、秀長の判物によって知行が保証された。
第二に、大和郡山における商工業の保護である。
秀長は大和郡山城下町の商業振興に力を入れた。天正十三年九月、秀長は大和郡山城に入ると、従来大和国の経済の中心であった奈良における商業を制限し、大和郡山での商売を奨励した。
天正十五年には奈良と大和郡山の座を廃止し、営業税の免除を行った。天正十六年の「郡山惣町分日記」によれば、大和郡山城下町では本町・魚塩町・堺町・柳町・今井町・わた町・藺町・奈良町・雑穀町・茶町・材木町・紺屋町・鍛冶屋町といった町の形成が確認できる。
第三に、年貢徴収と農業振興である。秀長は年貢徴収の効率化を図るとともに、農業振興にも取り組んだ。天正十四年二月二十一日付で和泉国に発給された掟書では、年貢納入と人夫役負担の義務を確認する一方で、代官らの違法行為を取り締まることを定めている。
また、年貢米計量の基準として「十合枡(京枡)」を公定枡とし、統一された枡制度を導入した。さらに、天正十七年九月には旱魃対策として岩淵谷に灌漑用の池を造成するなど、農業生産の安定化にも努めた。
第四に、寺社政策と宗教統制である。大和・紀伊には大寺社が多いため、秀長は宗教勢力との関係を重視し、寺社政策を積極的に推進した。大和国の奈良春日社、長谷寺、紀伊国の熊野本宮大社の造営を支援し、宗教統制を強化した。
さらに、大和多武峯(現・談山神社)にあった大織冠(藤原氏の祖であり神格化されていた藤原鎌足)の木像を大和郡山に遷座している。これは、藤原鎌足の霊験を利用することで、豊臣政権の宗教的正統性を補強しようとしたものと考えられる。
秀長の性格

秀長はどのような性格の人物だったのだろうか。
この問題を考える上で良く引かれるのが、天正十四年(一五八六)四月六日付の大友宗滴(宗麟)の書状(「大友家文書録」)である。この書状は、島津氏の圧迫を受けていた大友宗麟が大坂に赴き豊臣政権の支援を求めた際の状況を国元の家老に伝えるものであり、秀長の人柄はもとより、豊臣政権において秀長が果たしていた役割についても明確に記されている。
この時、宗麟は豊臣秀吉に直接謁見し、九州出兵の支援を確約された後、秀長の宿舎を訪問している。そこで秀長が宗麟の手をとって「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」との言葉をかけたことに、宗麟は深く感銘を受けたという。
秀長がいう「公儀の事」は、豊臣政権の公式な交渉・取次・指南を意味し、大友氏への「馳走」(支援)を担う立場を指していたことが推察される。すなわち、秀長が豊臣政権の中枢で外様大名との交渉を担当していたことを示している。
秀長の発言からは、千利休と秀長が豊臣政権の二本柱として機能していたことが見てとれる。利休が「内々の儀」(私的ルート)を担当し、秀長が「公儀の事」(公式ルート)を担当することで、政権運営のバランスを取っていたのだろう。秀長は外様大名と豊臣政権を結ぶ公的な窓口としての役割を果たしており、秀長の発言は大友氏に対する豊臣政権の支援を保証するものであった。
同書状からは、秀長の性格も垣間見える。大友宗麟は「宰相殿(秀長)をお頼み申すことが大切だ」と述べており、秀長を全面的に信頼していた。初対面の宗麟の心をここまでつかんでいることから、秀長の温厚で誠実な性格、人付き合いの上手さがうかがわれる。
文政元年(一八一八)に成立した津藩の藩祖である藤堂高虎(もとは秀長の家臣だった)の伝記『聿脩録』によれば、秀長は温厚謙虚で大人物の風格があり、秀吉が法に基づいて諸大名を処罰しようとすると、常に寛大な心でこれを救おうとしたので、諸大名から頼りにされたという。同書は、秀長の寿命がもう少し長ければ、豊臣家が滅ぶことはなかったのではないか、と論じている。
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