さて、次はどこに泊まろう? お気に入りのホテル検索サイトを何気なくスクロールしていたら、指が止まった。「うん、これって……?」。スマホの画面には見たことのない光景が広がっていた。水盤に浮かぶカラフルなキューブ。可動式展示室ですって? 美術館の外壁のミラーガラスには瀬戸内の穏やかな波と島々が映りこむ。「いや、でもここ美術館だよね?」。高速でスクロール、スクロール。「海辺の建築作品に泊まる」。そんな惹句を発見! なるほど、そういうことか。巨大な石油化学コンビナートを抱える広島県大竹市の海辺に2023年突如として姿を現したアート複合施設「SIMOSE」。世界的建築家・坂茂氏が設計デザインを手掛けた美術館、レストラン、個性豊かなヴィラがひとつの風景をつくりあげていた。これはもう即、予約。目指すは「Simose Art Garden Villa」。
海岸線に沿って350mほど続く敷地内に足を踏み入れた途端、世界が変わった。宿泊エリアは、水盤に面した「水辺のヴィラ」と木々に囲まれた「森のヴィラ」の二つにわかれていた。結論から言うと、好みすぎて、どちらにも泊まってしまった。最初に訪れたのは、敷地の北側。海辺に広がる水盤に向かって五棟が並ぶ「水辺のヴィラ」。ゲストの再訪の愉しみのため、各部屋の内装は少しずつ違うのだという。私はヒノキの半露天風呂つきの和室タイプを選んだ。木製素材「キールステック」の透かし彫りのような断面が壁面に使われていて、差し込む光はさながら木漏れ日のよう。畳の上でうたた寝してみたり、海からの風とせせらぎの音を感じながら露天風呂に浸かってみたり、縁側を想わせる広いテラスにぼーっと佇んでみたり……。いつ、どの場所で寛いでも、目前に瀬戸内の景色が一幅の絵のように広がる。
二度目に訪れたのは敷地の南側にある「森のヴィラ」。木立の中に坂氏がこれまでに手掛けた別荘建築をリメイクしたヴィラが立ち並ぶ。紙の家、ダブルルーフの家、十字壁の家、壁のない家……それぞれに個性があり、趣が異なる。すべて惹かれる。迷いに迷って選んだのは「家具の家」。クローゼットや本棚を、そのまま壁や柱の構造として使っているという。本棚に囲まれたリビング、掘りごたつのある和室、海を眺めるテラス。ほんとうに「暮らすように」滞在できる。全開口サッシで壁の中にすっぽり収まる窓を開け放つと、室内と外がそのままつながる。海風がすっーと通り抜けていく感じ。たまらない。
「水辺のヴィラ」と「森のヴィラ」。どちらにも共通しているのは「軽やかな余白と開放感」だ。内と外を区切る無骨な窓枠もないし、梁や柱型の凸凹といったちょっと気になる要素もない。余計なものはいっさいなくて、整っている。だけど、モデルルームみたいな無機質さはなく、シームレスに自然とつながれる。「絶景かな」思わず呟いてしまう景色をテラスに座って眺めていると、瀬戸内の空と海は刻々と姿を変えていく。光、陰影、風……。時間や天候によってふたつと同じ表情はない。自然そのものがアートみたいに見えてくる。
「アート オーベルジュ」。その名の通り「SIMOSE French Restaurant」では食事の時間までもがアート体験になる。オープンキッチンからは、シェフがフライパンを返す音や火が立ち上がる気配がそのまま伝わってくる。全開口の窓の向こうでは、瀬戸内の空と海がゆっくりと、だけど確実に表情を変えていく。広島産の肉や魚、有機野菜、柑橘など素材をまっすぐに生かしたフレンチ。香りが立ち上がって、地元の幸の存在感が伝わってくる。絵画のような一皿に舌鼓を打ちながら、ふと視線をあげれば窓の向こうに幻想的な風景が広がる。ついさっきまで見えていた山影や建物は闇の中に消え、ライトアップされたキューブが浮かびあがる。漆黒の水盤は鏡のように色ガラスを映し出す。「このキューブは瀬戸内の多島美に着想を得てつくられたんですよ」。グラスにワインを注ぎながら、スタッフが教えてくれた。宿泊者だけが見ることのできる「瀬戸内の夜景」。五感のすべてがひらいていく……。
翌日、朝食を終え、レストランを出ると息を飲んだ。美術館のミラーガラスには、ゆったりと宮島が映し出されていた。海と空、山と緑。瀬戸内の自然の美しさが何倍にもなって迫ってくるのを横目にエミール・ガレの庭園へと進む。アール・ヌーヴォーを代表する工芸家で植物学者としても活動していたガレが愛した花々を朝の光が照らす。久しく忘れていた土の匂い。ここでもミラーガラスに樹々が映りこみ、森の中にいるような錯覚にとらわれる。さらに北側に歩を進める。望洋テラスピラミッド状に盛土された、なだらかな坂をあがっていくと、一面に瀬戸内の海が広がる。宮島、阿多田島、江田島などの島々とともに可動展示室も眼下に一望できる。風が頬を撫でていく。海の香り、輝く陽ざし。こんなに心地よい朝散歩は久しぶりだ。
心地よい時間は瞬く間に過ぎ、チェックアウトの時間。旅の終わりは木の香りがする三角屋根のレセプション棟で。送迎車で「SIMOSE」を後にしながら、夢のような滞在を振り返る。ここでは見るもの、触れるもの、すべてがアートだった。でも、滞在を終えてもなお、私の中のセンサーはONのまま。すべては真似できない。でも、一部なら。なにげないディスプレイ、モノ選び、植物との距離……。日々の暮らしの中にアートを添えるヒントを貰えた。そうだ。事始めに家に戻ったら、買ったままクローゼットの中で眠っているヒノキの精油でも開けてみようか。
暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。










