
ここ数年、休みの日になるといそいそと、東京の東側に出掛けていくことが増えた。東側に行くといっても何かの用事のついでに、神保町や上野・浅草、そこから隅田川を渡った本所や両国、清澄白河あたりを歩くだけ。わたしがふだんいる、必要以上に行き届いた杉並の住宅街とは異なり、人がいつのころからか住み着いて肩寄せ合って暮らしている、「東京」の原風景を見る思いがするのだ。
わたしは神戸から出てきて、転勤でこの街を離れていた時期を除けば、もう四半世紀を東京で暮らしている。しかし、いまだ東京を自分の街だと心の底から感じることは少なく、店はやっているがそれも賃貸なので、どこか仕事のためにいるという「仮=借り」の気分が抜けないのだ。
しかし御茶ノ水の聖橋や不忍池のまわり、表参道を赤坂方面に歩いているときなど、不意に「東京っていい街だな」と思うことが増えてきた。それは自分の嗜好を知って誰かと比べる無意味さを悟り、ささやかではあるが自由になるお金が増えた――つまりは少し枯れた大人になった――ことと関係があるのかもしれない。思えば若い頃は、この街との付き合いかたがよくわからなかった。そして東京はそうした「周縁にいる」若い人たちに対し、ときに厳しい顔を見せるのである。
わたしが思うもっとも東京らしい場所といえば、台東区日本堤にあるカフェ・バッハだ。わたしがカフェ・バッハに行くのは年に一二度だから、足繁く通っているとは言えないが、毎年必ず行くので好きな店と言ってもよいだろう。内装はいたってふつう。しかし椅子に腰かけよく見ると、さりげない意匠が施されたどっしりとした木の椅子で、カウンターから壁の絵からホンモノ感が漂っている。スタッフも揃いのユニフォームを清潔に着こなし、きびきびと気持ちがよく、こちらから話しかけない限りは決して踏み込んでこない。そして供されるコーヒーやケーキは、もちろん美味しい。
バッハが落ち着くのは、そこにいる客の年齢や風体がバラバラなところだ。カウンターに座るコーヒー通のうるさ型の人、商談するサラリーマン、ちょっと休憩という年配のかた……。わたしのような遠くからわざわざ来た人から、スウェットでサンダル履きの近所のかたまで、そこにいて浮いている人をひとりも見かけないのは、この店の懐の深さを表すものだ。これは労働者の街・山谷に店を構え、彼らと深く交わり、時には厳しく接しながら、場所をつくりあげてきたオーナー夫妻の人柄と無縁ではないのだろう。
一杯のコーヒーの前では、よそ者も地元の者もみな同じ。カフェ・バッハにはそのようなサバサバとしたおおらかさがある。常に外から人を受け容れてきた、東京ならではの店だと思う。
今回のおすすめ本

『うっかりくまさんたちの おかしなおんがくかい』へんみあやか 学研
何につけ意味を求められる世界で、このユルさがたまらなくいい! そして眺めていて見飽きることのない、魅力のある絵だと思う。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2026年2月6日(金)~ 2026年2月24日(火) 本屋Title2階ギャラリー
『パタパタどうぶつえん』(岡田善敬 作/タケウマ 絵/ブロンズ新社刊)の出版を記念して、原画展を開催いたします。原画の展示をはじめ、お二人の書籍やグッズの販売、タケウマさんの複製原画の販売も行います。ぜひ足をお運びください。
◯2026年2月27日(金)~ 2026年3月16日(月) 本屋Title2階ギャラリー
霧やもやをテーマにした新作の版画展。霧に包まれた幻想的な風景や、ぼんやりと現れたり消えたりする幻のようなものをイメージして描きました。今回の展示では、版を分けて奥行きを出し、輪郭をぼかして刷ったりするなど、あらたな制作方法にもチャレンジしています。
版画の展示・販売のほかに、これまで作ってきた手製本やポストカードなども並びます。ぜひご覧いただけましたらうれしいです。
◯2026年3月12日(木) 19時30分スタート/21時頃終了予定 Title1階特設スペース
これまでの本屋、これからの本屋
『本のある場所を訪ねて』刊行記念 南陀楼綾繁トークイベント
編集者・ライターとして35年以上にわたり出版の現場に携わってきた南陀楼綾繁さんの新刊『本のある場所を訪ねて』(教育評論社)が発売になりました。2019~2025年にかけて各地の書店や出版社を訪ね歩き、そこで働く人たちの声や営みを記録した1冊です。
本書の刊行を記念して、「これまでの本屋、これからの本屋」と題した対談を行います。
かつてはチェーン店の書店員、そしてこの10年は本屋Titleを営んできた店主の辻山を相手に、本屋とはどのような場所であり得るのか、そしてこれからどう変わっていくのかを語り合います。
【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売中です】
本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えました。この度10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になりました。
各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。
Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
■書誌情報
『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』
Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
養生としての〈わたし〉語り|〈わたし〉になるための読書(8)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は、話すこと、そしてそれを通じて自分自身を考えさせられる3冊の本を紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。















