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そして少女は加速する

2025.09.19 公開 ポスト

物語は、2021年の東京オリンピック陸上男子4×100mリレー決勝のシーンから始まる――!宮田珠己

「陸上青春小説の名作が登場した!」と、方々から声が上がっている小説。――タイトルは『そして少女は加速する』。

著者は宮田珠己氏なのだが、いつものゆるゆるクスクスのエッセイモードは封印。爽やかさと切なさに圧倒されるストーリーを生んだ。

主役となるのは、高校女子陸上部の5人で、彼女たちが挑むのは、4継(4×100mリレー)だ。インターハイを目指す少女5人の目線で描かれる群像物語に、この秋、胸が熱くなること必至!

世界陸上で、選手たちの走る姿に胸が熱くなっている今、特別に本書の冒頭を特別公開!

物語は、2021年の東京オリンピック陸上男子4×100mリレー決勝のシーンから始まる――。

写真は、八重洲ブックセンターグランスタ八重洲店

*  *  *

プロローグ

《ちょっと遠いか――ちょっと山縣(やまがた)待った――ちょっとバトンが渡らなかったああああ!》

アナウンサーの絶叫と同時に、さっと血の気が引くのがわかった。

東京オリンピック陸上男子4×100mリレー決勝。

日本チームは9秒台の選手を3人も擁し、史上最強のメンバーと言われていたが、第1走者の多田修平選手から第2走者の山縣太亮選手へのバトンが渡らなかった。

反射的にリモコンを拾い上げ、テレビを消す。

大丈夫、落ち着いて……。

大きくひとつ深呼吸をする。

早寝の習慣のある両親はすでに寝てしまっており、自分以外誰もいないリビングは静まり返っている。テレビからの喧騒が突然断ち切られると、まるで世界にぽっかりと穴が開いて、そこから黒々とした闇が顔をのぞかせているような恐怖を覚えた。不吉な、どろっとしたものが胸の中に兆し、膨(ふく)らみはじめる。だめ、そっちに行っちゃ、だめ。

息が苦しくなりそう……そう思うだけで、本当に苦しくなる。

冷静さを失わないよう、静かに階段を上って自室に戻り、すぐにベッド脇のディフューザーのスイッチを入れた。

ラベンダーの香りがふんわり立ち昇る。

好きな香りだ。穏やかな眠りを誘う優しい香り。

だが、それでこの胸騒ぎが収まる気がしない。不安はどんな抵抗もなぎ倒すようにして増幅するから。

タオルブランケットをとりあげ、体に巻き付けた。

そうして、リモコンで部屋の温度を2度下げる。空気がひんやりすると、気持ちが少し落ち着く。

ベッドに座ってまた深呼吸をした。

オリンピックなんて観なきゃよかった――。

まさかこんな、一番見たくない結果になるとは。

最後まで走り切って競り負けたのなら、しかたがない。悔しいのひとことで済ませることができた。でもあの負け方だけは――。

でも、これはオリンピック。自分には関係ないことだ。大丈夫、私は大丈夫……。

アロマの本を広げ、記憶を消す効果のある香りを探した。

香りが記憶と結びつきやすいのは、脳の中でそれらを司る部分に直接届くから、という話を聞いたことがある。だとすれば、脳の内部で記憶に働きかけてそれを消し去る香りがあってもよさそうなのに、そんなものはないようだった。

灯りを落とした部屋の中でただひとり、胸苦しさが膨らんでいく。

忘れたい、あの記憶。

だが、ふり払おうとすればするほど、それは脳裏に、頑強に、生々しくよみがえってくる。

大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「先輩ごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

そうやって気持ちを言葉にすることで、少しは気が収まるかと思ったが、ひとかけらの安心もやってこない。

「大丈夫、私は大丈夫」

小さな声で、呪文のようにまたくりかえす。

一度不安の底に落ちはじめてしまったら、そうする以外に為す術を知らない。

「大丈夫、私は大丈夫」

でも、部屋の中に、その言葉を受け止め、気持ちを和らげてくれるものは何もなかった。

嫌だ。もう嫌。

たった一度、ほんの一瞬、判断を間違ったせいで……。

こんな思いが一生続くのだろうか。

だとしたら絶望しかない。

自分にもっと強い心があれば、よかったのに。

陸上なんて人生のほんの小さな一部でしかない。そう思えたなら、よかったのに――。

高幡高校陸上部ショートスプリント女子 プロフィール

(つづく)

関連書籍

宮田珠己『そして少女は加速する』

それは、あまりに儚く、あまりに永い、「一瞬」――。 わずかな一瞬で悪夢に陥る、バトンミス。期待された400メートルリレーで勝利を逃した高校女子陸上部が、どん底から這い上がる!圧倒的感動を呼ぶ、青春陸上小説。

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そして少女は加速する

コンマ1秒で悪夢に陥る、バトンミス。
それは、あまりに儚く、あまりに永い、「一瞬」――。

+++++
高幡高校陸上部の4継(4×100mリレー)の女子リレーチームは、痛恨のバトンミスによりインターハイ出場を逃していた。
傷の癒えぬまま、それでも次の年に向け新メンバーで再始動する。

部長としての力不足に悩む水無瀬咲(2年)、
チーム最速だが、気持ちの弱さに苦しむ横澤イブリン(2年)、
自分を変えるために、高校から陸上を始めた春谷風香(1年)、
なんとしてもリレーメンバーになって全国に行きたい樺山百々羽(1年)、
部のルールに従わず、孤独に11秒台を目指す手平あかね(1年)。
そして、ライバルや仲間たち。

わずか40秒あまりの闘いのために、少女たちは苦悩し、駆ける――!
+++++

100分の1秒が勝敗を分ける短距離競技は、天国も地獄も紙一重だ。
個人競技でありチーム競技でもあるリレーの魅力を、とことんまで描いた!
悔しさも、涙も、喜びも、ときめきも全部乗せ!のド直球な青春陸上物語。

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宮田珠己

1995年に『旅の理不尽~アジア悶絶篇』を自費出版しデビュー。以来、紀行エッセイを中心に、日常エッセイ、書評、小説なども執筆。『東南アジア四次元日記』で 第3回 酒飲み書店員大賞、『ニッポン47都道府県正直観光案内』で第14回エキナカ書店大賞を受賞。他にも『ときどき意味もなくずんずん歩く』『いい感じの石ころを拾いに』『だいたい四国八十八ヶ所』『明日ロト7が私を救う』『路上のセンス・オブ・ワンダーと遥かなるそこらへんの旅』などエッセイ多数。小説に、東洋奇譚をもとにした『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』がある。2作目の小説『そして少女は加速する』で、青春小説に挑戦。賞賛を集めている。
(撮影:干田哲平)

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