
本屋という仕事は、人の人生の隣にある。
その主な仕事のひとつに、店に在庫していない本を注文してお渡しする「客注」があるが、中には手に入るかわからない本もあるので、お代は本と引き換えにいただいている。そしてそこには、〈見ず知らずの人のことを信用する〉といった大前提があるのだ。
もちろんほとんどの場合、何事もなくお客さんに本を渡して、話はそこで終わり。しかしこれまでには約束が果たされず、苦い思いをしたことも幾度かあった。しかるべき人に渡されず、店に残ってしまった本を見ていると、人の人生とは本来不安定なものであることを思い知らされる。
昨年、アンドレ・ブルトンの評論を注文した男性がいた。着ているものはうす汚れ、言動におぼつかないところもあったので、最初は受けるのをためらった。だが彼は、この本は若いころ読んだことがあり、どうしてもまた読みたいのだという。それならばと注文したが、待っているあいだも、「まだ入りませんか」という催促の電話が二度ほどあった。
ようやく本が入荷して電話をしたところ、彼は「そのうち行きます」という。しかし来店はなく、それでも「必ず行くから」というので待っていたが、結局彼は現れず、電話もそれきり不通になってしまった。
数年前にも会社の役員だと言って、雑誌や書籍など十冊ほどを注文した初老の男性がいた。入荷後、一冊だけ買いに来たと思ったら、そのあと来店がない。仕方がないので電話をすると、弟だと名乗る人物が出て、「彼はいまタイヘンなのだからまたにしろ」と怒られ、一方的に電話を切られてしまった。
いずれにせよ注文のあと、その人に何か変化が生じ、本はもう必要なくなったということだろう。わたしはその度に、自分ひとりがその場に取り残されたような気持ちになるが、それでもたまには、もっと人を信じてもよいのではと思わせる話もある。
ある時、イギリスに住んでいるという見ず知らずの女性からメールが届いた。その中には「来年一時帰国したとき店まで取りに行くから、ここに書いている本をすべて取り寄せてほしい。あなたのことはインターネットで知って応援している」と書かれていた。メールの後ろには本のリストが長々とあり、彼女はその後も必要な本を追加していったから、最終的に客注の本は、十万円を超える金額となった。
注文するのはいいが、会ったこともない人だし、果たして取りに来られるのだろうかと心配になったころ、彼女はほんとうにやってきた。簡素な身なりで、持ってきたトランクに素早く本を詰め込むと、「長々とありがとうございました」とだけ言って、足早に帰っていった。彼女とはそれきり会っていない。
Aさんは自動車が好きで、車の雑誌を定期購読していたが、一度奥さまが代わりに本を受け取りにこられたときがあった。「いつもすみません。あの人イラチだから、ご迷惑をおかけしているかもしれませんね」。彼女はわたしと同年代か、少しだけ年上に見えた。
その時は「ああ、関西の人なんだな」と思っただけだが、それからしばらくして、彼女が急に亡くなったことを知った。わたしはそのことを直接Aさんから聞いたが、そう話す彼は、見ていてかわいそうなくらい落ち込んでいた。同じ頃、店の前の青梅街道をランニングするAさんの姿も見かけたが、目の前の一点を見つめ、足早に走り去ったので、声をかけることができなかった。
それから二年が経ち、三年が経ち、五年以上が経過した。その頃にはわたしも「Aさん大丈夫かな」とは思わなくなっていたが、ある時彼が定期購読の雑誌を取りに来ていないことに気がついた。
すこし胸騒ぎがしたが、「きっと忙しいのだろう」としばらく待つことにした。だが、それから数ヶ月経ってもAさんは現れず、留守番電話だったメッセージも、いつの間にか使用不可のそれに変わっていた……。
Aさんは年が経つにつれ、人知れず寂しさの波に飲みこまれてしまったのだろうか。いや、彼はただここから引っ越しただけなのかもしれない。それならばそれでよいが、わたしは心より願っている。Aさんがまた何事もなかったかのように、本を取りに来られる日のくることを。
今回のおすすめ本
『就職しないで生きるには』レイモンド・マンゴー 中山容訳 晶文社
この本が書かれた時代からは約半世紀。この息苦しく、いやなよのなかを生きのびるためにも、自分の身の回りにある小さくて誠実なものごとに目を向け、そこから何かをはじめようとする人たちが、いま様々な分野で再び現れている。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年7月18日(金)~ 2025年8月3日(日) Title2階ギャラリー
「花と動物の切り絵アルファベット」刊行記念 garden原画展
切り絵作家gardenの最新刊の切り絵原画展。この本は、切り絵を楽しむための作り方と切り絵図案を掲載した本で、花と動物のモチーフを用いて、5種類のアルファベットシリーズを制作しました。猫の着せ替えができる図案や額装用の繊細な図案を含めると、掲載図案は400点以上。本展では、gardenが制作したこれら400点の切り絵原画を展示・販売いたします(一部、非売品を含む)。愛らしい猫たちや動物たち、可憐な花をぜひご覧ください。
◯2025年8月15日(金)Title1階特設スペース 19時00分スタート
書物で世界をロマン化する――周縁の出版社〈共和国〉
『版元番外地 〈共和国〉樹立篇』(コトニ社)刊行記念 下平尾直トークイベント
2014年の創業後、どこかで見たことのある本とは一線を画し、骨太できばのある本をつくってきた出版社・共和国。その代表である下平尾直は何をよしとし、いったい何と闘っているのか。そして創業時に掲げた「書物で世界をロマン化する」という理念は、はたして果たされつつあるのか……。このイベントでは、そんな下平尾さんの編集姿勢や、会社を経営してみた雑感、いま思うことなどを、『版元番外地』を手掛かりとしながらざっくばらんにうかがいます。聞き手は来年十周年を迎え、荒廃した世界の中でまだ何とか立っている、Title店主・辻山良雄。この世界のセンパイに、色々聞いてみたいと思います。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】NEW!!
〈いま〉を〈いま〉のまま生きる /〈わたし〉になるための読書(6)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は〈いま〉をキーワードにした2冊。〈意志〉の不確実性や〈利他〉の成り立ちに分け入る本、そして〈ケア〉についての概念を揺るがす挑戦的かつ寛容な本をご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。