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リンカーンの医者の犬

2003.12.01 公開 ポスト

エジプト人の彼上原隆

 7年前に「容貌」という文章を書いた。それは顔が美しくないから、15年間も男性と2人で話したことがないし、母親からは「美容整形に行く?」といわれるし、一生ひとりで生きていくと決意した女性の話で、彼女は誰にも見せたことのない自分の裸を写真に撮って、その写真を宝物のようにして生きていた。
 私の文章は悲しい調子だったかもしれない。それは私の感じ方を反映したもので、彼女自身はどちらかというとサバサバとした明るい感じの人だった。
 女性の名前は木村信子(現在54歳)という。

 その木村信子から絵葉書が届いた。表に「エジプト人の彼がいます」と書いてあり、裏にはピラミッドとラクダのカラー写真が印刷されていた。
 私は彼女に会いたいと思い、連絡した。彼女はいつも忙しくしている。昼間は仕事だし、夜は習い事や人と会うことが多い。火曜は英語、水曜は映画鑑賞、木、金はアラビア語で、土曜は食事会、日曜は実家の母親と会ったり、図書館に行ったり。唯一あいているのは月曜日なのだが、その日は雑用をすることにしているのだという。どうにか月曜日をあけてもらい会うことにした。
 会うと、挨拶もそこそこに木村信子は早口で話し始めた。以前に会った時から7年もの歳月が経っているのに、彼女は少しも歳をとっていない、むしろ若くなったようにさえ見える。

 6年前の春、公園でサンドウィッチを食べていると、「このへんに靴屋はありませんか」と外国人がたずねてきた。信子はこのへんにはないが、駅の方ならあるだろうと英語で答えた。男は英語が通じることがうれしかったのか、自分はJICA(国際協力機構)の招きで日本に研修にきていて、明日帰るのだという。どこの国から来たのですか、と彼女がきくと、男はエジプトだと答えた。
 その瞬間、信子の頭の中にピラミッドがあらわれ、次に4人の妻をはべらすターバンを巻いた男があらわれた。
 目の前の男に強い興味がわいた。
 2人で駅前まで歩き、喫茶店に入った。男の名は、アデル・サラエルディン・アブデルラソール、42歳、離婚して独身、2人の子どもがいて、元妻の母親が育てている。繊維会社に勤める科学者だ。たどたどしい英語で2時間くらいおしゃべりをした。
 突然、アデルが信子に結婚してほしいといった。
「たった今知り合ったばかりで、何で結婚してくれなんていえるの?」信子は少しムッとした。
 アデルはニコッと笑うとこう答えた。
「オンリー・ゴッド・ノウズ」

 信子はアデルと文通をつづけた。彼の手紙には「美しい」「愛してる」「寂しい」「会いたい」などの文字が書き連ねられていた。信子にとっては小説の中でしか見たことのない言葉だ。
 彼女は毎週映画を見ているし、一年間で200冊以上もの本を読んでいる。とくに恋愛ものが好きだ。自分は美しくないからと、人にはあきらめたようなことをいっていても、内心では恋愛やセックスへの強いあこがれがある。彼女はこういう。
「小説なんかで2人が結ばれるシーンって美しいじゃない。私にもそういうシーンが一生に一度くらいあってもいいんじゃないかって思うの」

 アデルと出会ってから一年後、信子がカイロ空港に降り立った時、彼女の頭の中にはしっかりと再会シーンができあがっていた。彼女は到着ロビーに出てアデルを見つけた。彼の方でも信子に気づいた。信子はアデルと向き合うと同時に、彼に抱きつきキスをした。キスは今までに一度も経験したことがないのだが、頭の中で何度も思い描いていたのでスムーズにできた。すると、アデルが驚いて、両手で信子を離した。そしてこういった。
「エジプシャン・ネバー・ユーズ・タング」
 信子は彼の口の中へ無意識に自分の舌を入れていたんだろうかと思った。

 後でイスラム教国では戒律が厳しく、外で抱き合う男女なんていないことを知った。アデルが同じホテルに泊まることも許されなかったし、結婚前の若い男女が手をつないで歩くのさえ見かけなかった。警察が見張っているのだという。彼は自分のアパートからホテルに通ってきて、信子をいろいろなところへ案内してくれた。
 その後、現在まで、彼女は年に3回、一週間ずつ休みを取り、17回もエジプトに行き、また、お互いの手紙は144通にもなっている。

 2回目から、彼に部屋を借りてもらい、いっしょに過ごすようにした。夜、いっしょにいると、アデルが信子とセックスをしようとした。
 彼女は45歳の時に閉経していた。医者からホルモン剤をもらい強制的に生理をおこしている。
 アデルが無理に入ろうとすると痛かった。思わず叫んだ。彼が信子の口を手でふさいだ。彼は強引に入れようとする。彼女は痛いけれどがまんしようと思った。一時間近く努力したが、入らなかった。とうとう信子の性器から血が出た。
「彼、ビビッちゃって」と信子は思い出して笑う。「アイ・キャント・ビリーブ・ユー・アー・バージンだって」

 日本に帰ってから、会社の友だちにセックスの一部始終を報告した。しばらくして、新入社員の女性からジェルをプレゼントされた。
「木村さん、今度エジプトに行く時に持っていってください」
 娘のような歳の女性が、54歳の女性の冒険を知って、応援したいと思ったのだ。
 しかし、3回目に行った時に、信子がジェルを使おうとすると、アデルから拒否された。

 自分のヌード写真をサービスサイズにして、ボストンバッグの底に隠して持ちこみ、「おみやげ」といってアデルに渡したことがある。彼はチラッと見て、落ち着かなくなった。こんなの持ってたら警察に捕まっちゃう。砂漠に埋めてこなくちゃ。彼のあわてぶりがおかしくて、信子が笑っていると、アデルはまじめな顔をして、こう問いつめてきた。
「どうしてカメラマンに自分の裸を見せたんだ」

 夜、いっしょに部屋にいると、アデルはサッカーが好きで、大きなソファに座ってテレビを見ている。信子はシャワーを浴びて、彼の横に座る。サッカーに興味がないのでつまらない、セックスはできないけれど、ベタベタしていたい。それで抱きついたりする。
「彼はセックスをしたいといわないんですか?」私がきく。
「ベッドルームに行こうっていわれることもある」と信子はいう。「私は経験はないけど、本を読んだり、映画で見たりして、いろいろ知ってるから、何だってできる。そういう時はいつも手でしてあげるの」

 エジプトでは結婚以前の男女は手をつながないどころか、2人で会うことも許されてない。そういう国でも性欲はあるのに違いない。「みんなどうしてるの?」信子はアデルにきいた。彼は近くの新聞をとると、その余白にでちょこちょこと書いて、恥ずかしそうに彼女に渡した。そこには小さな文字でこう書いてあった。「マスタベーション」

 夏にエジプトに行った時、アデルの下の毛がなくなっていた。「どうしたの?」ときくと、暑くて不潔になるから剃るのだという。話によるとエジプトの女性は一年中剃っていて毛がないらしい。アデルが信子の性器への愛撫をしないのは、毛が生えていて気持ち悪いからなのではないかと思った。きいてみると、そんなことはないと彼は否定した。
 お互いを愛撫し、セックスを楽しむ文化がないのだ。セックスの楽しみという考えそのものに罪の意識を感じているらしい。
「あなたにとって、そのことは不満じゃないですか?」私はきいた。すると、信子はこういった。
「イタリア男やフランス男、ましてや日本人だと、私なんか相手にしてもらえないかもしれないから、ちょうどよかったんじゃないかな」

 アデルの月給は日本円にして1万円ちょっと。エジプトでは高給な方だ。半分近くを養育費として離婚相手に支払っているので、いつも金がないといっている。エジプトへ行く旅費は信子が自分で払っているし、滞在中の食事や交通費も彼女がアデルに1万円を渡して、その中から出してもらっている(それほどかかってはいないだろうと彼女は思っている)。さらに、部屋代として5万円が必要だといわれ、渡している(これも実際はずっと安いのに違いないと疑っている)。さらに、いつでも連絡できるように携帯電話を持ってくれるように頼むと、5万円するというので現金を渡した(これにも疑問をもっている)。
 友だちに話すと「彼に貢いでいるようなものじゃない」と誰もがいう。
 信子もそうかなと思う。家賃も食費も安いのに月給の1万円を何に使ってるのと問いただすと、彼は養育費にとられていつも金がないんだという。そんなに金がない、金がないといっているのに、通りを歩いていて物乞いに出会うと、彼は必ず小銭を渡す。
 信子が習っているアラビア語の先生によると、彼らの社会では、金を持っている者が持ってない者に与えるのは当然のことなのだという。
 それをきいて、信子はアデルのことが少しわかったような気がした。

 つきあい始めてからずっと、アデルは今すぐ結婚して日本に来たいといい続けている。信子自身は無理だと思っている。日本に来ても科学者としての仕事はないからだ。彼女の希望は定年退職後、年金をもらって長期間エジプトで彼と過ごすことだ。

 ふと私は思った、自分たちのまわりにいったいエジプト人と恋愛をしている人なんているだろうかって。
 木村信子は積極的な人だと思う。
 若い頃にひとりで生きていくと決心して新宿にワンルームのマンションを買ったし、自分は本当は美しくないとは思っていないのでその証拠にヌード写真を撮ってみたし、エジプト人の彼と出会って興味があったのでつき合ってみた。
 彼女の恋愛を知って、彼に騙されて金を貢いでいるのだという人がいるかもしれない(私も最初はそう思った)。でも、その人は人生の評論家でしかない。彼女は人生の実践家だ。生きている。
 どうしてそれほどに人生に積極的になれるのだろう?
「明日どうなるかわからない」と彼女はいう。「できることは今しておきたいっていう気持ちが強いの。だから、アデルがこういった時、ピンときたの」木村信子はそれまでの早口ではなくゆっくりとこういった。
「オンリー・ゴッド・ノウズ」

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リンカーンの医者の犬

心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らす上原隆さんの新連載始動!

 

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上原隆

1949年横浜市生まれ、コラムニスト。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎)などがある。心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らしている。お話を聞かせてくれる方は uehara@t.email.ne.jp までご連絡をください。

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