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リンカーンの医者の犬

2003.05.01 公開 ツイート

とりあえずの幸せ 上原隆

 「ちゅーなま、それとちゅーとろのさしみ」赤に黒のチェックのシャツを着た40代の男がカウンターにひじをつき、両手をこすりあわせながら注文する。
「はい、中生に中トロ刺身がいっちょー」50代の女が厨房に向かって叫ぶ。
 赤と黒の男は出てきた生ビールを一口飲んでから、ゆっくりとスポーツ新聞をひろげる。
 ブルーのトレーナーのすそを紺のズボンに押し込み、胸のあたりでベルトを締めている60代の男が入ってきてカウンターにつく。
「アイスコーヒー」男はニコニコ笑っている。
「アイスコーヒーはないの」50代の女は慣れた様子でそういって、注文をきき返すまでもなくウーロンハイをつくって男の前に出す。
 男は笑いながらウーロンハイをすする。
 ここは赤羽駅前商店街の中にある「まるます家」という大衆食堂だ。店のドアというドアは開け放たれていて、向かいの果物屋が見える。店頭に並んでいるリンゴやミカンに朝陽があたり、輝いている。そう、まだ朝の9時、それも平日、4月中旬の木曜日。「まるます家」は朝から酒が飲めて、美味しいものが食べられることで有名な店なのだ。

 9時10分。すでに7人の客がいる。
 私はカウンターの隅に座って、ビールとたこの刺身を注文した。グラスにビールをついで一口飲む。春の風が店に入ってくる。朝の空気の中で飲むビールがこんなにおいしいものだとは知らなかった。私はゆっくりと店内を見まわす。牛丼の吉野家のようなU字型のカウンターが二つ、隅に四人がけのテーブルがひとつあり、角で男の店員がウナギを焼いている。音楽はなく、店内の話し声や厨房の音、それに外の音が聞こえるだけだ。壁という壁にはメニューの短冊が貼ってあり、赤い文字が踊っている。「げそわた400円」「しらすおろし350円」「まぐろぶつ400円」「キムチチゲ550円」「ワカサギフライ350円」……。
「サッちゃん、ふきのとうの天ぷらちょうだい」私からひとつ椅子をおいて座っている40代の男が注文する。髪を黄色に染めているが、横から見ると、生えぎわが白くなっているのがわかる。
 50代の女は「サッちゃん」というらしい。髪をアップにして、板前さんが着るような木綿の白の上っ張りを着て、その上から前掛けをしている。
「塩味、ついてるからね」サッちゃんがふきのとうの天ぷらを黄白髪氏の前に置く。
「それおいしそうですね」私が男に話しかける。
「この時期しか食えないからね」
 私も同じものを注文する。
 どういう人が平日の朝からここで飲んでいるのだろう?
「お仕事の帰りですか?」私がきく。
「えっ!」彼が〈誰だ、お前は?〉といった顔でにらむので、私は自分のことを話し、私が知りたいと思っていることを説明する。
「まあ、だいたい夜勤明けのヤツばっかりだろうな」
 黄白髪氏は三交替の仕事についていて、今朝仕事が終わって、会社で2時間仮眠をとってから、ここに来たのだという。
「どんな仕事なんですか?」私がきく。
「まあ、サラリーマンってとこだね」彼は職業をいいたくないらしい。
「毎日、ここに来てるんですか?」
「まさか、月に5回くらいだよ」彼はレモンハイをグッとあおって、こちらを向くと、ニッと笑う。「これがまた、いいんだ。朝酔っぱらって帰って寝るのがね。とりあえず今は幸せって気分でいられる」

 10時。客は14人に増えている。
「あのサッちゃんは頭がいいんですよ。一度来た客の好みは忘れないんだから」黄白髪氏が私に話しかけてくる。少し離れたところにいながら、それが聞こえたのか、
「自分の旦那の好みはわかんないけど、お客さんの好みはわかるのよ」サッちゃんが答える。
「まるます家」で働いている人は見たところ、男5人、女7人くらいだ。いずれも中高年で、元気がいい。
 店主は50代の女で、厨房で料理をつくっている。
「みなさん、元気ですね」私が店主にきく。
「そうね」彼女は漬け物のきゅーりを切りながら答える。「この店で一番古いのはあの人だから、何でも聞くといいよ」といって、厨房の隅にいる女の方を見る。
 女はワカサギにパン粉をつけている。歳は82歳、若い頃から働いていて、一度この店をやめたが、夫が死んでからまた雇ってもらったのだという。腰が曲がっていて、動作がゆっくりしているが、しばらく見ていると、仕事の手は早いことがわかる。
「この店は働きやすいんですか?」私がきく。
 女は私の方を見ない。しわの多い手で衣をつけたワカサギをゆっくりと油をはったアルミの鍋に入れると、ボソッとこういった。
「この歳で雇ってくれるとこはここ以外にないからね」

「活〆はた刺し1000円」とサッちゃんが赤の太いマジックペンで書く。横に黒の細いペンで「特選高級」と書きそえる。
「はた刺しが入荷しました」といいながら短冊を貼る。
「はた刺しちょうだい、特選高級なヤツね」坊主頭の男が笑いながらいう。
「1000円もいただくんだもの高級よ」サッちゃんがいう。
「超高級、おいしいよ」厨房から店主の声がする。
「ちょっと行ってくるから、これあずかっといて、フフフフ」胸にベルトの男がサッちゃんにバッグを渡す。
「ハイ、行ってらっしゃい」サッちゃんがいう。
 男はふらふらと店を出ていく。
 店の外を、ジャージ姿の高校生たちがゾロゾロと歩いている。

 11時。少し客は入れ替わり、15人くらいになっている。
 水玉模様のワンピースを着た太めの女と黒の野球帽をかぶった小柄な男が入ってきて、テーブル席に向かいあって座る。生ビールの大ジョッキとワカサギのフライを注文する。女の顔は丸々として、朝青龍のような目をしている。その目が小柄な男をジッと見つめている。ひとつの皿のワカサギを二人でつまんでいる。
 アディダスのベージュ色の野球帽をかぶった30代の男が入ってくる。
「ビール、それとまぐろ納豆ちょうだい」
 アディダス氏はビールをコップにつぎ、一気に飲む。タバコに火をつける。カウンターに新聞をひろげる。しかし、それは見ない。左手で頬杖をつき、人が出はじめた外の様子をボーっとながめている。タバコの煙が立ちのぼっている。金属縁の眼鏡の奥で、目が細くなっている。
「今日あたり、荒川沿いは気持ちいいだろうね」サッちゃんが誰にいうともなくつぶやく。

 11時30分。客の数は変わらない。みんなノンビリしている。新聞を読んでいる人、ボーっと外をながめている人、となりの人と話をしている人、さかんにサッちゃんに話しかける人……。
 胸にベルトの男が戻ってくる。
「おかえり」サッちゃんがウーロンハイを出す。
「15万円の頭だよ」男は散髪にいってきたのだ。
「えー、1500円もかかったの。私が切ってやったのに、950円で。その分うちで飲んでくれれば良かったのよ」サッちゃんがいう。
「フフフフ」男はウーロンハイを飲んでいる。
「床屋に行っても、顔は変わらないわね」サッちゃんがつぶやきながら、男の前を去る。
「なにさ?」
「なんでもなーい」
 男はサッちゃんを目で追ってニコニコしている。
「おあいそ」黄白髪氏がいう。
「ハイ、2千と50円」
 ゆっくりと立ちあがって出ていく彼のうしろ姿に、サッちゃんが声をかける。
「お疲れさまでした。おやすみ」

 11時50分。昼食の客で店は混みはじめる。私は料金を払い外に出る。太陽が真上にあり、通りを明るく照らしている。商店街を駅に向かって歩く。行き交う人々の話し声や店員たちの呼び声でザワザワしている。ビールを2本飲んだ頭には、水の中の音のように聞こえる。ゆっくりと歩いていると、頭の中でさっきの声が聞こえてきた。
「とりあえず今は幸せって気分でいられる」

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心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らす上原隆さんの新連載始動!

 

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上原隆

1949年横浜市生まれ、コラムニスト。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎)などがある。心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らしている。お話を聞かせてくれる方は uehara@t.email.ne.jp までご連絡をください。

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