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リンカーンの医者の犬

2003.04.01 公開 ツイート

場所 上原隆

 50年間ずっと靴みがきを続けてきた人がいるときいてやってきた。3月のまだ寒い日、午前8時、千駄ヶ谷駅前。
 改札口を出ると、正面の横断歩道の横に、その人は座っていた。キルティングのズボンをはき、ジャンパーをはおり、紺のエプロンをしめ、黒のうでぬきをつけている。ベージュ色の野球帽をかぶり、毛皮でおおわれた座椅子に座っている。
 駅から人が出てきて横断歩道の前に立ちどまり、信号が青になると渡っていく。靴みがきはその人々をボーッと見ている。
 私は近づいていき、挨拶をする。商売のじゃまにならないように、人波がとだえた時に話をきかせてくださいとお願いする。
「べつに話すようなことはありませんけどね」と答えたが、眼鏡の奥で目が笑っているので、了解してくれたのだと思う。靴みがきの名前は倉田光男という、76歳。

 8時30分。人波はまったくとだえない。通勤時間なのだ。何百人という人々が改札口から出てきて、倉田の前でたたずみ、横断歩道を渡っていく。客はひとりもあらわれない。倉田は寒いのか、右手の甲をさすっている。
〈靴みがきを続けてきた50年が彼に残したものは何だろう?〉

 9時を過ぎて、電車の間隔が少しあくようになった。通行人が減ったところで、私は倉田のとなりに行き、しゃがんでテープレコーダを取り出す。
「いつも何時からここに座ってるんですか?」
「7時ですね。毎朝5時20分に家を出るんです」
「今のところお客さんは何人ですか?」
「8時頃、かかとが取れちゃったっていうお客さんがいて、新しいのにつけかえたんです。その人だけですね」
「かかとをつけてもらうと、いくらですか?」
「つけるだけなら二千五百円ですけど、削ったり、貼ったりすると三千円になります」
「みがくだけだといくらですか?」
「五百円ですね」
「ところで」私は膝を立てて、マイクを彼の口元に近づける。「50年間やってきて、つらかったことって何ですか?」
「そうね……」倉田は駅の方を眺める。「急に雨が降ってくると、びっしょりになっちゃうんですよね。道具が濡れちゃうし、しまうのが間にあわない」
「楽しかったことは?」
「だんだん売り上げが上がっていったことでしょうね。やっぱり」
 改札口から人がどっと出てくる。
「じゃ、またあとで」といって私は少し離れる。
〈なんか、予想していた答えと違う〉私は質問の仕方を考える。

 9時30分。駅前に陽が差してきて空気が暖かくなる。改札口から大きなスケッチブックを抱えた中高年のグループが出てくる。タクシー乗り場の近くに、ブルーのジャージ姿の女子高生たちが20人近く集まっている。倉田はラジカセを手に持って、ききたい放送局を探している。
人通りが少しとだえたところで、私は再び倉田のとなりに行く。
「50年前、このあたりは今とは全然違ってたんでしょうね」
「そうなんです。ボクが出た時には、駅舎はまだバラックでね。この辺は今のラブホテルのはしりっていうのが、多かったんですよ。ここと綱島が有名だったんですね。だから、女の人が靴をはかずに逃げだしてきて、そこいらで泣いてたりね」
「へーえ」
「このイチョウの木を剪定していた人が落っこちてね、ヘルメットが割れて、たいへんだったことがあった」
「このイチョウは靴みがきをはじめた時からあったんですか?」
「ありました。ボクが出た当時はこの三分の一くらいだったんです。大正時代に植えられたらしいですよ」
「この街が今のように変わったのはいつ頃からですか?」
「やっぱり東京オリンピックの後ですね。その頃から私の売り上げも上がったんです。長嶋とか田淵とか六大学の野球が神宮球場であると、ボクは忙しかった。昔の学生はいい家の坊ちゃんだったからね。ここに列をつくって並んだんですよ。今の学生はスニーカーだから、全然ダメですね」
 駅から出てくる人が増えてきたので、私は少し離れる。
〈歴史の話は面白いが、私の知りたいこととは少し違う〉私は「靴みがき」と聞いた時に会ってみたいと思った自分の気持ちについて考えている。

 10時。茶色のオーバーコートを着て、右手にセカンドバッグをかかえた男が客用の椅子に座っている。倉田は客にスリッパを履かせ靴を受けとる。膝の上にB4大くらいの板を置き、その上に靴を乗せてみがく。ブラシをかけ、靴ずみを塗り、布で拭き、液状のものをつけ、再び布でみがく。客に靴を渡す。客は靴をはき、靴みがきの台に足をのせる。倉田が黒い布でみがく。靴がピカピカになる。客は立ちあがると金を払い、倉田が受けとる。客は横断歩道を渡りながら、しきりに自分の足元を見ている。
 客が去ってから、私は倉田のとなりにしゃがむ。
「失礼なことをききますが」私がいう。「靴みがきということでバカにされたことはありますか?」
「ありますよ、そりゃ」倉田は靴墨のビンに蓋をしている。
「どんなことがありましたか?」
「親や兄弟から勘当された」
「どうしてですか?」
「美空の歌じゃないけど、靴みがきはガード下でやってると思うらしい、とくに田舎の方じゃね、みっともないからやめてくれっていわれた」
「ご自分としてはどうなんですか?」
「べつに悪いことしてないしね、これで生活してるんですから」
「26歳の時に、どうして靴みがきになろうと思ったんですか?」
「なんか自分で商売をはじめたいと思って、だけど、店を持つことはできないからね。それで靴みがき。独立独歩っていうのは、気分がいい。収入が少なくてもいいと思って」
「不安はなかったですか?」
「最初はあったけどね、だんだん稼ぎが良くなって、それに職業として認められるようになったし」
「一番稼いだ時でどのくらいですか?」
「そうね……。一日3万円くらいあったでしょうか。このへんの信用金庫の人がわざわざ集金に来てくれてね。うれしかったですよ。フフフ」倉田が目をへの字にして笑う。
 倉田は結婚して2人の娘を育てた。現在、妻は亡くなり、下の娘の家族といっしょに暮らしている。家にいてテレビを見たり、孫の世話をするより、ここに来て仕事をしている方が体に良いのだという。

 11時。電車の間隔がかなりあくようになり、通行人の数が少なくなった。私は倉田にききたいことはほとんどきいた。しかし、なんだかものたりない。
〈靴みがきの50年が彼にもたらしたものは何だろう?〉私は回答を得ていないもどかしい気持ちのまま、倉田を眺めている。
 その後、靴みがきの客はあらわれていない。倉田はうで組みをして改札口の方をボンヤリと眺めている。ラジオのアナウンサーが聴取者からの手紙を読んでいる。ゆっくりと時間が流れていく。彼の頭がガクッとうしろに倒れる。口をあいている。眠っているのだ。何度か頭をガクガクさせてから目を覚ます。大きなあくびをして、タオルで涙をぬぐう。小さなステンレスのポットを取りだすと、ふたを開け、ふたに飲み物を注ぐ。ゆっくりと飲む。彼はゆったりとくつろいでいる。ふたからは湯気が立ちのぼっている。
〈あっ〉と私は思った。目の前の光景が一枚の写真のように見えてきたからだ。スローシャッターで撮られた写真のように行きかう人や車は光の軌跡となって消え、動かないイチョウの木と靴みがきの倉田だけがハッキリと見える。
 50年が彼に与えたものは、この駅前の人通りの多い歩道の一画を、倉田にとってのくつろげる場所としたことだった。

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心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らす上原隆さんの新連載始動!

 

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上原隆

1949年横浜市生まれ、コラムニスト。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎)などがある。心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らしている。お話を聞かせてくれる方は uehara@t.email.ne.jp までご連絡をください。

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