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ウェルカム・ホーム!

2022.07.03 公開 ツイート

『ウェルカム・ホーム!』第1章を全文無料公開 丸山正樹

丸山正樹さんの最新刊『ウェルカム・ホーム!』が早くも話題沸騰です。

テレビやラジオ、新聞や雑誌と各メディアで「ビターだが希望の灯る、あたたかな介護小説」だと絶賛の嵐!

今回は本書の第1章を全文無料公開します。

『ウェルカム・ホーム!』の世界の面白さをぜひお楽しみください。

*   *   *

ああ、また始まるのか。

職員用入り口の扉の前に立って、大森康介(おおもりこうすけ)は大きなため息をつく。

今年に入ってから、世間では大きな出来事が続いていた。男性アイドルグループ「嵐」の活動休止発表、世界のイチローの引退、そして新しい元号が「令和」と発表されるなど──。

時代は動き、季節も春を迎えたというのに、康介の心は弾まない。出勤するためこの扉を開けようとするたび、いつも気持ちが沈んでしまう。

(写真:iStock.com/Brian Min)

勤めるようになってすぐに、なぜどの扉もこんなに重くて堅いんですかと先輩職員に尋ねたことがある。先輩はあっさり答えた。

「離設(りせつ)予防だよ」

なるほど、そういうことか。

離設。すなわち、脱走。

ここでは、扉もエレベータも、利用するにはテンキーで暗証番号を入力しなければならない仕組みになっている。それが、中の人間が勝手に出ていかないようにするためのものだとは分かっていた。

だが、扉までこんなに重くしなければならないとは。

要するに、ここはそういうところなのだ。

「おはようございまーす」

夜警のおじさんは「あ、ああ、おはよう」と慌てたように応えてくる。口元によだれが垂れているのは見て見ぬ振りをして事務室に入った。

タイムカードを押す時に、レコーダのすぐ上に貼られた園のモットーが否応なしに目に飛び込んでくる。

〈自分らしさを生かした生活を支援します。利用者様の幸せが私たちの喜び〉

福祉を生涯の仕事と決めて50余年、有沢雄一郎施設長自らがしたためたものだという。

康介が勤める特別養護老人ホーム「まほろば園」は、100人以上の入居者を抱える大規模施設で、介護保険制度の実施前からホームを運営している社会福祉法人が母体だった。

最近の特養は、個室を基本に入居者を少人数のグループに分けて家庭的なサービスを提供する〈ユニットケア〉を謳(うた)う施設が主流だが、大部屋──正確には多床室(たしょうしつ)という──を中心としたいわゆる〈従来型〉の施設もまだあり、「まほろば園」はその一つだ。

それでも昨年全面改装を行い、スタッフを一気に増員したらしい。資格を取ったばかりで実務経験ゼロの康介が採用されたのもそのおかげだろう。

(写真:iStock.com/byryo)

改装されたばかりでピカピカの廊下を通って更衣室へ。人目につかないところには金をかけなかったらしく、狭いスペースで身を縮こまらせながら着替える。

フリーサイズしかないポロシャツは、身長174センチ・体重75キロの康介には少し小さいが、支給されているだけでも有り難いと思わなければいけない。

バックプリントされた「smile for you」とは一体誰に向けた言葉かと毎回疑問に思いながらも、ユニフォームに着替えたところでようやく体は戦闘態勢に入った。

 

「おはよう! 康介くん302お願いね!」

階段を上がってフロアに出た途端、先輩職員の浦島鈴子(うらしますずこ)さんの声が飛んできた。

「はい!」

康介は小走りで302号室に向かった。早番の場合は、いきなり「起床介助」から一日が始まるのだ。

「皆さん、おはようございます!」

返事がいいのと声が大きいことだけ、と言われる取り柄を大いに生かして挨拶をするが、返ってくる声はほとんどない。

「今日もよろしくお願いしまーす。ベッド上げますよ~、いいですかぁ」

302号室の入居者を順番に起こして回った。まだ半分寝ているような彼らの洗顔を手伝い、続いて食堂へ誘導する。その後も配膳、朝食介助、服薬介助、歯磨き、と休む間はない。

(写真:iStock.com/kazuma seki)

食事の片づけを終えると、ようやく座ることができた。朝礼ミーティングで夜勤の職員からの申し送りを受ける。

「301の加藤さん、40分ほどかかって食べてますが、むせが3回、痰も多いようです」

「303の佐野さん、嚥下(えんげ)の力が落ちてきたので食べる時、体を45度起こすようにしてください」

康介が働く「3階」は、認知症などの重症の入居者がほとんどだった。

認知症については康介も資格をとる過程で一通り学び、実務研修もしたのだが、実際のところはやはり勤めてみなければ分からない。

たとえば、302号室の神崎登志子(かんざきとしこ)さん・81歳との会話はこんな具合。

「登志子さん、トイレ行きましょう」

「あんたが行けばいい」

「さ、食べましょうね」

「あんたが食べればいい」

当惑を超えて、脱力。ひたすら脱力。

かと思えば、305号室の金井惣之助(かないそうのすけ)さん・78歳が、廊下にうつ伏せになり、這うようにして前に進んでいるのに出くわしたことがあった。当然康介は「何やってんすか惣之助さん」と起こそうとしたのだが、通りかかった先輩職員から「放っておけ」と言われて驚いた。

「下手に歩かれて転ばれるよりいいから」

そういうものかと感心する一方で、本当にそれでいいのか、とも思う。

はたまた同じく305号室の當間英輔(とうまえいすけ)さん・68歳は、認知症ではなく、脳梗塞の後遺症で右半身と口に麻痺が残っていた。手間はさほどかからないのだが、麻痺のせいで何を言っているかがよく聞き取れない。

適当に返事をしていてもさして問題はなかったが、食事の後などにたまに口にする「アアイオウエ」という暗号のような言葉が気になったりする。

他にも、認知症に加えて弱視である江藤(えとう)ユキさん・85歳からは20分に1回はトイレ誘導のコールで呼ばれ、頸椎(けいつい)損傷で下半身麻痺の井村克夫(いむらかつお)さん・65歳からはトランスファー(車椅子への移乗)の度に「お前じゃダメだ、他の職員と代われ」と怒鳴られる。

そんな手のかかる入居者ばかりを25人、日勤でも3人の職員で見なければいけないのだから毎日が戦場のようだった。

ミーティングを終えたら、息をつく間もないまま「おはようケア」が待っている。

「おはようケア」とはずいぶん聞こえの良いネーミングをしたものだと感心するが、要はオムツ交換の時間だ。

「まほろば園」では、1日に5回、オムツ交換の時間がある。施設紹介のパンフレットの「オムツ交換」の項には「その他随時」とあるが、基本は定時だ。

1日5回というのが入居者にとって多いのか少ないのかは分からない。しかし、少なくとも康介にとっては「多すぎる」ほどだ。トイレに行ける人を誘導している際に「失敗」してしまった場合の交換も含めたら、一日中オムツ交換をしている感覚に陥ることさえあった。

 

「慣れないのは、臭いなんすよ」

その日の帰り、康介は、同じ早番だった鈴子先輩と、5時からやっている駅前の居酒屋に寄っていた。

(写真:iStock.com/kanzilyou)

鈴子先輩は、康介の指導係だ。年こそ27歳の康介より3つ上なだけだが、「まほろば園」に勤めて10年近くになるベテランで、利用者さんからも「すずちゃん」「すずこさん」と名前で呼ばれている数少ない職員だった。

本当は、鈴子と書いて「れいこ」と読む。

──みんなにはすずこって呼ばれてる。まあ鈴っていうより釣り鐘だけど。

初めて会った時、鈴子先輩は自分でそう言って、からからと笑った。

「なに、2か月もいて利用者さんの便臭にまだ慣れないの?」

店に入って20分も経たたないというのに早くも生ジョッキ2杯を空けた鈴子先輩は、とろんとしてきた目で訊いてくる。

「いや、それにはもう慣れました。気になるのは、自分の臭いなんです」

「自分の? 自分の体からうんこの臭いがするわけ?」

「ちょっと、声でかい」

慌てて周囲を見回したが、幸い店内はまだガラガラで誰も聞いている者はいなかった。

それにしても若い女性が「うんこ」って。やっぱりこういう仕事をしているとデリカシーなくなるよな、と康介は幻滅を隠せない。

そんな反応が面白かったのか、さらに鈴子先輩は康介の体に顔を寄せ、くんくんと嗅ぐ真似をする。

「やめてくださいって」

「大丈夫、何も臭わないって」

「それは先輩が慣れちゃってるからですよ。最初に注文を取りに来た女の子が顔をしかめたの分かりませんでした?」

「そんなことないわよ、考えすぎ」鈴子先輩は笑って手を左右に振る。「ちゃんと、手洗い消毒はしてるんでしょ?」

「もちろん、処置が終わる度に石鹼(せっけん)でごしごし洗ってますよ。どんなに疲れてても家に帰ってからシャワー浴びてますし……それでも、消えないんすよ、この臭いが」

「ああ」鈴子先輩はようやく合点がいったように肯いた。

「もしかして、自分の臭いが気になって、友達にも会えなくなっちゃったりしてる?」

「そうなんすよ!」康介は顔を前に突き出した。「もしかして、先輩もそういう経験ありました?」

「鼻の奥に臭いのもとがこびりついているんじゃないかと思って鼻に指を入れて洗ったり、痛いのを我慢して『鼻うがい』なんかもしたりして?」

「しました、しました! でも消えないですよね? ねえ、これ、何なんすか? どうすれば消えるんですか?」

「それねえ」

鈴子先輩は、何でもないように答えた。

「『気のせい』よ」

「はあ!?」思わず大きな声が出てしまう。

「いやいや気のせいじゃなくて、ほんとに」

しかし鈴子先輩は動ぜず、ゆっくりと首を振った。

「それがね、ただの気のせいなの。そういう感じがするだけ。実際は臭いなんてしてないの。私もそうだったから。みんな経験することよ。まあ3か月もすればなくなるかな。ある日突然ね。そういうもんだから」

そこに先輩が頼んだ生のお替りと大好物のとんぺい焼きが運ばれて来たため、彼女はそれらに夢中になってもう康介の話など聞く耳をもたないようだった。

気のせい? 康介は、一人心の中で叫ぶ。この臭いが? マジ?

到底信じられないが、しかしもしそれが事実なら、自分は頭がおかしくなっているんじゃないか、と思う。いやこれ以上この仕事をしていたら、絶対に本当におかしくなる。

辞める。康介はそう誓った。今度こそほんとーに、辞めてやる。

かろうじて更新が続いていた派遣の契約を切られ、仕方なく資格をとって今の仕事に就いてからおよそ2か月。その間、毎日、いや一日に何度もそう思っている。一定の金が貯たまったら、こんなところ辞めて先輩からLINEスタンプをつくる仕事を紹介してもらうのだ。

専門学校時代の先輩が独立してアプリの開発をやっていて、「お前にも仕事を回してやってもいい」と言われていた。とはいえ、最初はあまり稼げないし、先輩の会社にも投資しないといけないらしいので、ある程度の初期費用が必要になる。その金が貯まるまで、今は我慢して働くしかない。

「とりあえず」だ、「もうしばらく」だ。康介は毎朝そう自分に言い聞かせて、重い体を引きずり仕事場に向かっているのだった。

 

そろそろ混み始めた下り電車の中でつり革に掴まりながら、康介は時計に目をやった。8時10分過ぎ。

まっすぐ帰れ。理性はそう言っていた。明日の朝も早い。少しでも多く寝るんだ。

しかし酔った頭にはよからぬ考えが浮かび始めている。いや実を言えばその考えは朝アパートを出た時からあったのだ。

今日の飲みが割り勘だったら大人しくそのまま帰るつもりでいた。しかし鈴子先輩は奢(おご)ってくれた。そのため、手つかずの万札が2枚、そのまま財布の中に残っている。

給料日まであと1週間。行ける。ぎりぎり何とか行けてしまう。

それは貯金に回す金だろう。再び理性がそう言う。お前の目標は何だった。目先の欲望に負けていいのか。

いい、負けていい。あっさりそう結論が出て、康介は途中下車をした。

(写真:iStock.com/piratedub)

 

「あー、また来てくれたんだー。ありがとー」

狭い個室のドアを開けて入ってきたこのみちゃんは、眩(まぶ)しいほどの笑みを浮かべて抱きついてくる。

ああ、なんて可愛いい──。

日中、利用者さんが非常ベルを鳴らしてしまい大騒ぎになったことも、男性入居者さんを着替えさせている最中に首にシャツが引っかかってしまい、「殺す気か!」と凄まれたことも、すべての憂さが一遍に吹き飛ぶ。

やっぱりここは心のオアシスだ。康介は心底思った。

初めて訪れたのは、ひと月ほど前、遅番勤務の後で疲れているのに一向に眠れず、一人部屋で飲んでいてどうしようもなく寂しくなった時だった。

酒の勢いを借り、最寄りの歓楽街まで足を運んだ。帰り道にはむなしさと後悔でいっぱいになることは分かっていた。これまで何度もそういう経験をしてきたのだ。

それでもいい、むしろとことんみじめな思いに打ちのめされた方が二度とこういう場所に足を踏み入れなくて済む。そう思ってわざと場末感漂う雑居ビルの2階──いまどき風俗もデリバリーが主流なのにいまだ店舗に固執しているこの店──ファッションヘルス「いたずら子猫ちゃん」のドアを開けたのだった。

(写真:iStock.com/MasterLu)

しかし。

「お客さん、ラッキーですよ。たまたまキャンセルが出たんですけど、うちのナンバーワンの子ですから」

いかにもチャラい男性店員の言葉に、嘘はなかった。

「はじめましてー。『あなたのお好み』のこのみです!」

限りなく布地面積を小さくしたミニスカワンピに身を包んだ写真の数倍も可愛い女の子が、輝くばかりの笑顔で現れたのだった。

「お仕事のお帰りですか? お疲れさまでーす。短い時間ですけど良かったら癒されちゃってくださいね~」

そう言ってこのみちゃんは、康介のことをギュッとハグした。

そのマシュマロのように柔らかな体、そして全身から漂うフローラルな香り──意味は分かっていなかったが、康介はそれを「いい匂い」の代名詞として使っていた──に包まれた瞬間、康介は恋に落ちた。

せいぜい月に2回会うのがやっとの、40分指名料込み1万4千円の恋に。

ただの欲望のはけ口だろう、などと言うなかれ。別れた瞬間、次はいつ会えるのだろうとせつなくなる。もうすぐ会えると思うとドキドキする。話していれば楽しくてあっという間に時間が過ぎる。これを恋と言わずして何と言おう。

「あー、もうこんなに元気になってるー。脱がしちゃおー」

会っていきなりこういう展開になるのが普通の恋とちょっと違ってはいたが。

 

ことが終わってもまだ余韻にひたりながら、狭いベッドの上でいちゃいちゃしている時、康介は思い切って訊いてみた。

「ね、俺、臭くない?」

「ん? 何が?」

このみちゃんは怪訝(けげん)な顔で訊き返してきた。

気を遣って気づかない振りをしているようには見えなかった。

鈴子先輩の言うことは信じられなかったが、このみちゃんの言うことは信じられた。

そうか、俺、臭くないのか。ほんとに気のせいなのか。

「なーに、どうしちゃったの、にやにやしちゃってー」

「何でもなーい」

そう言ってこのみちゃんに抱きつく。

「あ、なんか当たってる。チョー元気。もう一回する?」

しかし、「もう一回する」ことは叶わなかった。30分延長料金6千円を払ってしまったら、文字通り一文無しになってしまう。

「ありがとう、また来てねー」

ぶんぶんと手を振るこのみちゃんに手を振り返し、駅へと向かう。財布の中身をもう一度確認した。残りの6千円。これで何とか1週間生きていかなければならない。

こうして金は貯まらず、いつまで経っても今の仕事を辞めることはできないのだった。

(写真:iStock.com/Miyuki Satake)

翌日は、朝からトラブル続きだった。

日勤の康介が出勤した時から、304号室の入居者さんがティッシュを大量に飲み込んだということで提携する病院に搬送する騒ぎになっていた。

その後も小さな面倒ごとがいくつか起こった挙げ句、極め付きは夕食前のエレベータの故障だった。

人の昇り降りにさして支障はなかったが、あおりをくったのはその日の配膳係の康介たちだった。

配膳車が使えず、康介たちは両手に抱えられるだけの食事を抱え、1階の厨房と3階のホールを階段で何往復もしなければならなかった。

手すきの職員に手伝ってもらっても普段より30分以上遅れ、ようやくすべての配膳を終えた時には膝がかくかくと笑っていた。

しかしそんな事情などお腹を空かせた入居者さんたちが理解してくれるわけもなく、あちこちから不平不満の声が飛んでくる。慣れたはずの井村さんからの嫌味たっぷりの言葉も、疲れた身にトゲのように刺さった。

 

遅番の職員と交代して日誌を書きながら、何が「最新の給食システム」だ、と康介は胸の内で悪態をついていた。せめてご飯ぐらいは各フロアで炊けば、こういう事態は避けられるのに。

「まほろば園」では、食事はすべて外部の給食業者に委託している。

〈すべての工程で温度管理を行い、徹底した衛生管理で食中毒などの危険を回避し、安全で温かいものは温かく、冷たいものは冷たいままで提供するシステム〉

なのだと、面接の時に有沢施設長が誇らし気に語っていた。「オリジナル完全調理済み冷凍食品」──簡単に言ってしまえば冷凍ものを温め直したその食事を、康介は勤め始めの1週間、入居者と一緒に食べた。

「どう?」

最初の食事の後、生活指導員──入退所の手続きや生活において入居者や家族の相談に乗る担当者──の谷岡智子(たにおかさとこ)さんから感想を訊かれ、康介は「うーん」と首をひねった。

まずくはないがおいしくもない。それが、正直なところだった。

「結構悪くないでしょ?」

ほほ笑みながらもメガネの奥の眼は笑っていない。そんな谷岡さんから再度尋ねられ、康介は仕方なく「はあ、まあ」と肯いた。

確かに、味は決して悪くない。それでも、お世辞にも「おいしい」と言えないのはなぜだろう。

何度か食べるうちに、康介はその原因に思い当たった。

食感だ。

全部が全部、固くもないが軟らかくもない。何と言っていいか、人工的な──そう、まるでゴムを食べているみたいな感じなのだ。

(写真:iStock.com/kazuma seki)

しばらくして、献立に季節感が全くないことにも気づいた。

冷凍ものなのだから当たり前だし、康介とて日々の食事で季節物など意識して摂っているわけではなかったが、真夏にマツタケのお吸い物などを出されても喜ぶ人はいないのじゃないかと思う。

しかしそんな意見を日誌に書いたとて、何かが変わるわけではない。谷岡さんに呼び出され、「うちのシステムに不満でもあるの?」とあの冷たい眼で問いかけられるだけだろう。

康介は通り一遍の反省事項を記入すると、さっさと帰り支度をし、フロアに出た。

その時、「康介くん!」後ろから鈴子先輩の大きな声が掛かった。

何事かと足を止めると、先輩は抱きつかんばかりに駆け寄ってきて、言った。

「登志子さんが、夕飯全部きれいに食べた!」

「え、マジっすか?」

「マジ、マジ。びっくりでしょう? こんなこと、何か月振りよ!」

鈴子先輩がこれほどまでに喜ぶのにはわけがあった。

認知症が少しずつ進んでいる登志子さんは、ここのところ、出された食事にほとんど手をつけない、ということが続いていた。介助して食べさせようとしても、口を真一文字に結んで、開かないことさえあった。

いわゆる「拒食」と呼ばれる行動で、体調が悪くて食欲がないとか、嚥下障害があって食べられないなど、原因がはっきりしていればまだ対処のしようがあった。だが登志子さんの場合、そのどれにも当てはまらない。

こうなると、「食べ物を認識できていない」「口の開き方が解らなくなっている」可能性が考えられる。認知症が重症化しているのだとしたら、大きな問題だ。

「このままの状態が続いたら、ドクターに相談して『胃ろう』にすることも考えなければいけないですね」

ミーティングに参加した看護師の松尾(まつお)さんがそう呟いたのは、1週間前のことだった。

「胃ろう」とは、お腹に穴を開け、管を通して直接流動食や水を入れることで、口から食べられなくなった時に行う人工栄養補給法の代表的なものだった。

「そうね、一度ご家族にもお話ししてみましょうか」

谷岡さんも肯く。

登志子さんの家族は遠方に住む50代後半の娘さん1人きりで、面会も数か月に1度来ればいい方だった。「胃ろう」の許可を問えば拒否することはまずないだろう。

確かに鼻から管を入れて栄養を送る方法に比べれば不快感が少ないし、長期間の管理もしやすい。しかしその一方で、「口から食べる」という、人の生きる喜びの最たるものを奪うことにもなり、当人のQOL(生活の質)より介護する側の利便性を優先するものでは、と批判的な声もあった。

「『胃ろう』には絶対にしない」

ミーティングが終わってから、誰にともなくそう宣言したのは、鈴子先輩だった。

それから鈴子先輩は、登志子さんが少しでも食べてくれないかと、傍目にも懸命な努力を始めた。1回の食事の量を減らしておやつを増やしたり、食事介助の仕方を変えたり、登志子さんが以前好物にしていたものを自腹で買ってきたり……。

(写真:iStock.com/byryo)

しかし、そのどれも効果がなく、最近はほとんど栄養補助食品に頼るようになっていた。それでなくとも小柄で痩せ気味だった登志子さんは、今や骨と皮ばかりになっている。

その登志子さんが「食事を全部食べた」のであれば、鈴子先輩がはしゃぐのも無理はなかった。

「良かったですね」

「うん、ほんと良かった! あ、引き留めてごめんね。お疲れさまでしたぁ」

鈴、ならぬゴム毬(まり)のように弾んで去って行く後ろ姿が、康介の目にはいつになく可愛らしく映った。

 

だが、そううまくことは運ばなかった。

翌日、登志子さんは朝食に全く手をつけなかったのだ。

「でも昼は食べるかも。あ、夜だけ食べるようになったのかもしれない」

鈴子先輩の期待もむなしく、登志子さんは結局その日、一食も口をつけることなく、再び補助食品のお世話になることになった。

翌朝のミーティングの後、谷岡さんと鈴子先輩だけが残って深刻な表情で向かい合っているのを康介は目撃した。

登志子さんについて話し合っているのだろう。いよいよ「胃ろう」について家族に話す時がきたのかもしれない。

 

「何であの時に限って全部食べたのかな……。康介くん、何か変わったことした?」

その日の午後、おやつを配り終えて一息ついている時、鈴子先輩が真剣な表情で尋ねてきた。

「いや特に変わったことは……あの日は、配膳が遅れて皆さんからは文句を言われたぐらいで……」

「そうよね……」

それでも鈴子先輩は諦めきれない様子で、「でもあの日、登志子さんがご飯を食べたのには何か理由があるはずなのよ」と言った。

「献立でも体調でもないとすれば何なのか……。ね、何でもいいから思いついたら教えて。お願い」

鈴子先輩から頼られたのは初めてのことだった。

康介とて、登志子さんを「胃ろう」にしたくはない。しかし、どうあの日のことを思い出してみても、あの時に限って登志子さんが食事に手をつけた理由になるようなことは何一つ思いつかないのだった。

 

給料日直後の早番明け。

康介は振り込まれたばかりの口座から2万円を下ろし、帰りの電車を途中で降りた。

今までより行くペースが速いのは分かっていた。今日はこのみちゃんにただ会いに行くだけではなく、ある決意を秘めて店に向かっているのだ。給料が振り込まれたばかりで気が大きくなっている今しかできないことだった。

「あのさぁ」

いつものいちゃつきタイムに、康介は思い切ってそれを口にした。

「今度、ご飯でも食べに行かない?」

「ご飯ー?」

「うん、仕事が休みの時とか。代官山にいいお店があるんだけど」

康介は、数日前にコンビニで立ち読みした雑誌で紹介されていたカジュアル・フレンチの店の名を挙げた。手軽な料金で高級店並みのコース料理を味わえ、最近若い女の子に人気の店、と紹介されていたのだ。

(写真:iStock.com/Kondor83)

手軽といっても康介には大金だったが、毎日の食費を切り詰めれば何とかなる。すでに場所も確認済みで、来週の火曜の夜に仮の予約さえ入れていた。火曜はこのみちゃんのオフ日であり、康介も日勤のシフトだった。

「うーん……」

このみちゃんは少し迷う仕草をしたものの、「ごめんなさい」と頭を下げた。

ああ、やっぱりダメか。

予想はしていたものの、落胆は大きかった。もしかしたら、という期待もほんの少しだけ抱いていたのだ。

「大森さんがどうこうっていうんじゃなくてね」

このみちゃんは申し訳なさそうに言った。最近は「お客さん」じゃなくて名前を呼んでくれるようになっていて、康介はひそかに嬉しく思っていた。

「私、高級レストランのコース料理とか、堅苦しいところ苦手なの。会席料理とかも。一つずつちまちま出てくるでしょ。ああいうの、まどろっこしくて」

「……このみちゃんらしいね」

そう言って笑みを浮かべるのが精いっぱいだった。

だったらその辺のラーメン屋に誘えばOKしてくれたのか。自分とて、性に合うのはラーメン屋や焼き鳥屋、せいぜいチェーンの居酒屋だ。高級レストランのコース料理なんて俺だって──。

ん?

何かが引っかかった。

最近、誰かに似たようなことを言われなかったか。ものすごい嫌味な口調で。

──まるで高級レストランのコース料理だな。

そうだ、あれは──。

 

翌日のホール。夕食の配膳をする係とは別に、康介が登志子さんの席の脇に立っていた。

他の入居者にはすでに配膳済みだったが、登志子さんの前にはまだ何も置かれていない。

康介は、その日の献立のうちの一品、チンゲン菜のおひたしを、登志子さんの前に恭(うやうや)しく差し出した。

「本日のオードブルでございます。どうぞ」

康介の背後で、鈴子先輩が祈るような視線を向けているのを感じる。

──まるで高級レストランのコース料理だな。

それは、登志子さんが完食をしたあの日、配膳が遅れておかずを時間差で出さざるを得なかったことを詫びる康介に対し、井村さんが皮肉たっぷりに言った台詞だった。

もしかしたら。康介は、そう思ったのだ。

鈍い動作で康介の方を見た登志子さんは、やがてその視線を落とし、目の前のチンゲン菜へと向けた。その脇には、いつものお箸とは別に、フォークとスプーンが置かれている。

登志子さんの手がおもむろに動いた。

フォークを手にすると、チンゲン菜を器用に載せ、そろそろと口に運んだ。

「!」

背後で、鈴子先輩が声にならない声をあげたのが分かった。

康介は思わず手を握りしめた。他の職員も介助の手を止め、その光景を見守っている。

登志子さんはゆっくりとチンゲン菜を嚙みしめている。

急かすことなく、康介は登志子さんが食べ終わるのを待った。

そして登志子さんがチンゲン菜を食べ終えたところで、次の一品を差し出した。

「本日のスープでございます」

登志子さんは迷わずスプーンを手に取り、キャベツの味噌汁のお椀へと近づけていった。

(写真:iStock.com/jreika)

よし、もう大丈夫だ!

康介は後ろを向いてOKサインを出す。

鈴子先輩は何度も肯いた。

それから、

「メインの魚料理でございます」とイカの煮つけ。

「メインの肉料理でございます」と鶏肉のねぎみそ焼き。

差し出す料理を、登志子さんは次々にたいらげていった。

一品一品優雅に味わうその姿は、まるで高級レストランのコース料理を食べているかのようだった。

「きっと登志子さん、昔、フルコースの料理をどこかで食べたことがあったのね」

登志子さんが最後のデザートのぶどうゼリーを慈しむように口に運んでいるのを見ながら、鈴子先輩が呟いた。

「その時のおいしさ、ぜいたくさが忘れられないんでしょうね……」

「亡くなった旦那さんと一緒に行ったんですかね……」

康介も、登志子さんの思い出に寄り添ってみる。

「どんなに年を取って、呆けたとしても、そういう思い出は残ってるもんなんですね」

「そうね……」

しみじみとした口調で言ってから、鈴子先輩は康介の背中をバン! と叩いた。

「それにしても康介くん、今回はお手柄よ。よく思いついた!」

「いやあ、まあ」

初めて鈴子先輩に褒められた嬉しさと背中の痛みで、複雑な表情を向ける康介に、先輩が笑いながら訊く。

「ところで何がキッカケで思いついたの?」

「あ、いや、それは……」

しどろもどろになっている時、後片づけをしている職員に向かって當間さんが何か言っているのが見えた。

「アアイオウエ、アアイオウエ」

またいつもの暗号だ、と康介は苦笑する。

言われた職員もやはり何を言っているか分からないらしく、曖昧な表情でただ肯いている。

「アアイオウエ」ねえ。一体何のことやら……。

そう思いながら、康介は當間さんが指さしている方に目を向けた。

登志子さんが、ぶどうゼリーの最後の一口を口に入れたところだった。

(写真:iStock.com/MellowPink)

ぶどうゼリー……アアイオウエ……。

「そうか!」

突然、閃(ひらめ)いた。

「アアイオウエ」は「アマイのクレ」──「甘いの、くれ」だ。

自分もデザートがほしい、と言っているのだ!

見れば、當間さんはいつの間にか糖尿病食と間違われて、デザートをはずされていた。

高齢の男性がまさか甘い物好きだとは思わずに、今まで誰も気づかなかったのだ。

「分かったよ。當間さん、今デザート持ってくるからね!」

エレベータへと向かいながら、康介は思う。

自分は今まで何を見てきたんだろう。

康介がいつまで経っても入居者から名前を覚えてもらえないように、康介の方も彼らのことを「入居者」「認知症」「高齢者」という括りでしか見ていなかった。

ホームでの食事に忘れがたい思い出を重ねていた登志子さん。

誰にも気づいてもらえないささやかな望みを訴え続けていた當間さん。

当たり前のことだけれど、このホームに入居している人たちには皆、それぞれの人生があり、人格があり、心の中ではいろいろなことを考えているのだ。

これまで、そんなこと考えもしなかった──。

エレベータのボタンを押そうとした康介に、鈴子先輩の声が飛んだ。

「階段の方が早い!」

「はい!」

首をすくめ、康介は階段へと向かった。

鈴子先輩の叱責も今日はなぜか心地良い。

この仕事、結構悪くないのかもな。

康介は、そう思い始めている自分を感じた。

*   *   *

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関連書籍

丸山正樹『ウェルカム・ホーム!』

大森康介は新米介護士。特別養護老人ホーム「まほろば園」で働き始めたものの、便臭にはまだ慣れることができない。しかも認知症の人、言葉が不明瞭な人相手の仕事は毎日が謎解きだ。認知症の登志子さんが一度だけ食欲を取り戻したのはなぜ? 口に麻痺のある當間(とうま)さんが言う暗号「アアイオウエ」の意味は? その答えにたどり着いた康介は、この仕事の面白さにちょっとだけ気づき……。

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ウェルカム・ホーム!

2022年5月25日発売『ウェルカム・ホーム!』(丸山正樹著)の最新情報をお知らせします。

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丸山正樹 作家

1961年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業後、シナリオライターとして活動。頸椎損傷による重い障害を持つ妻と生活をともにするうち、さまざまな障害を持つ人たちと交流するようになる。次第に、何らかの障害を持った人の物語を書くことを模索するようになり、2011年、ろう者の両親のもとで育った聴者を主人公にした『デフ・ヴォイス』(文庫化にあたり『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』に改題)でデビュー。「デフ・ヴォイス」はスピンオフを含めて5冊刊行の人気シリーズとなる。ほかに居所不明児童を題材にした『漂う子』、事故で重傷を負った妻を介護する夫が主人公の『ワンダフル・ライフ』など一貫して社会的弱者とされる人の視点から物語を紡ぐ。『ワンダフル・ライフ』で「読書メーター OF THE YEAR 2021」総合第1位を獲得。

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