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夢を喰う男 ダービー3勝を遂げた馬主、ノースヒルズ前田幸治の覚悟

2022.07.01 更新 ツイート

第三章 青春の汗

#2 実業家として成功してみせる――1968年、幸治は大阪にいた 本城雅人

キズナ、ワンアンドオンリー、コントレイル……日本屈指のオーナーブリーダーの、飽くなき挑戦と専心の軌跡を描いた感動のノンフィクションノベル『夢を喰う男』(本城雅人著)。話題の本書から試し読みをお届けします。優駿たちが駆け抜けたゴールの陰に、密やかに流された汗と涙のドラマがある!!(※ページの最後に、本城雅人さん、福永祐一さん、前田幸治さんの貴重なトークイベント情報があります。お見逃しなく!!)

*   *   *

第三章 青春の汗

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目覚まし時計のベルがけたたましい音を立てたのを、幸治は手を伸ばして止めた。しばらく布団にくるまっていたが、「よしっ」と気合を入れて起き上がる。台所の冷たい水で顔を洗って、布団の中で温めておいた仕事着に着替えた。

アパートの外はまだ夜霧が降りていて、震えるほど寒かった。小走りでトラックの運転席に乗り込む。だがすぐには出発できない。チョークを引っ張り、両手に息を吹きかけながら、エンジンが温まるのを待つ。

カタカタと鳴っていたエンジン音がやっと安定してきたので、冷たいハンドルを握り、その奥についたギアを入れた。朝家を出たら、夜まで働きどおしになるのがほとんどだ。そんなハードワークの連続だった。

一九六八年、幸治は大阪にいた。

二年後に開催が決まった万博に向け、大阪には近畿一帯だけでなく、中国、四国、九州、北陸からも若者が集まり、肉体労働で日銭を稼いでいた。

十八歳で大阪に出てきていた幸治も、運送業のアルバイトで稼いだ金を貯め、十九歳になった秋には、いすゞのエルフという中古トラックを十五万円で購入した。そのトラック一台で、たった一人で始めたのが土木関係の下請け業だった。最初は知り合いを通じて仕事をもらっていたが、二、三カ月後には自分で営業して仕事を増やしていった。

大阪駅周辺は大開発が始まり、高いビルが建ち始めた。だがそれ以外はまだ手付かずのまま、市内の中心地でも住宅の多くはバラックで、公園には路上生活者が溢れていた。

ひとたびトラックを降りると、どこに行っても()えた臭いが漂ってくる。道には至るところに空き瓶の破片やたばこの吸い殻が散らばり、早朝はいくらかましだが工場から出る煙で空気は濁っていた。

それでも幸治にとってはこれこそが大阪の景色であり大阪の臭いだった。

「前田くんの知り合いでやってくれる人はいないかな」

大阪に来た当初からの知り合いである高槻の中華料理店の店主から、友人が家を建てるので建築資材を運搬してくれる人を探してくれないかと相談を受けた。

「それ、自分にやらせてください」

幸治は即答した。

「だけど前田くんは働きどおしじゃないか。いくらきみでもこれ以上の仕事を増やすのは無理だろう」

「僕は大丈夫です。朝早いのは得意ですし、人の三倍働きますから」

「きみなら、私も安心して紹介できるけど。分かった。じゃあ、友達に伝えておくよ」

「ありがとうございます」

毎日、身を粉にして働いた。たまに仕事が早く終わることもあったが、そうした時も休んだりせず、自ら営業した。

「どうだ、幸治、仕事は順調か」

ある時、いち早く大阪に出て建築会社を経営していた国中に呼ばれて、ホットドッグをごちそうになった。

「みんな親切にしてくれますけど、なかなか儲かるまではいきません」

ホットドッグにかぶりつきながら答えた。オーブンで熱したソーセージが、カレー粉で炒めたキャベツとともにパンに挟まれ、冷えた体を温めてくれる。スバルの黄色いワゴンに、ホットドッグと書いた赤文字が目印の「大名堂」は、どこに行っても人気で行列ができていた。

天下の台所・大阪には、安くて美味い店はいくらでもあった。先週は新世界に行き、仲間たちと串カツを腹いっぱい食べた。ソースを二回付けたら店主に「兄ちゃん、二度付けは禁止や」と叱られた。

焼肉屋にも行った。焼肉といってもホルモン中心で、ダクトがなくて煙がもうもうと立ち込めている。入ってしばらくは目が痛かったが、一口食べてからはたまらない美味に箸が止まらなかった。どれも奈良に残っていたら一生縁がなかっただろう。

ただ人の何倍も仕事をしても、貯金ができるまでには至らない。家は高槻の木造アパート。地方から出てきた同じ年頃のほとんどが下宿暮らしだったことを考えれば悪くないが、その日暮らしのような生活をするために大阪に出てきたわけではなかった。

「それだったら幸治、わしの会社に来い。おまえだったら大事な仕事を任すよ」

国中の会社に入れば収入が増えるのは分かっていたが、自分一人でやると決めて大阪に出てきたのだ。悩むことなく断った。

「まぁ、おまえの人生だ。本当に困ったらわしのところに来ればいい」

「ありがとうございます」

「だけど幸治、おまえ、営業も現場も全部自分でやってるんだろ? そんな効率の悪いことをしてるから儲からないんじゃないのか」

「どういう意味ですか」

「子供の頃から人の上に立ちたいと言ってたやないか。なにも幸治がすべて請け負うことはないだろう。幸治が仕事を集めて、それを仲間に回してあげればいいんだよ」

その言葉に膝を打った。そうだった。大阪に来るのは実業家になるためだったのだ。それが毎日食うことに必死で、そんな夢も忘却していた。

自分が営業して、取ってきた仕事は下請けに任せる。そうすればこれまでの何倍も仕事を増やせるだろう。

国中に言われてからというもの、それまで以上に汗をかき、ズックの底が抜けるほど大阪の町を歩き回った。

土でも木材でもレンガでも、トラックに積めるものはなんでも集めた。

時代は高度成長期だ。ビジネスチャンスはいくらでも転がっていた。

二十四歳になる頃には仕事が増えすぎて、とても幸治一人では手が回らなくなった。

奈良から父の正治と、成人して大阪に出てきた晋二を呼んだ。家族三人でのスタートだ。それでも足りなくなり、さらに三人を雇った。

勢いに乗った幸治は他の事業にも着手した。高速道路の清掃や保護点検の仕事だ。

一九六三年に栗東─尼崎間が開通した名神高速道路が日本の高速道路の始まりだが、その翌年には東は一宮、西は西宮まで延長され、それまで大阪─名古屋間は六時間を要したのが二時間で行けるようになっていた。さらに六九年には東名全線が開通して、東京から大阪まで一本の高速道路で結ばれた。関西圏では大阪を中心に、高速道路が蜘蛛の巣状に延びていく計画ができていたが、当時の乗用車は高速走行に耐えられるように作られておらず、すぐに部品を落とす。そのため幸治の会社が導入したスイーパーと呼ばれる路面清掃の機械が大いに役立った。

まさかそのスイーパーが、幸治をホースマンとして導くことになるとは、その時点では夢にも思わなかった。

週に一度あるかどうかの休日はいつも父と弟と一緒だった。その頃、父が凝っていたのは競輪だ。物事をじっくり考えるタイプの晋二も、競輪選手たちの出身地や卒業年、練習場所などによるラインを読むのが好きで、いつも赤ペンを手に競輪新聞をチェックしていた。

男の娯楽はパチンコ、麻雀を含めてギャンブルしかなかったこともあり、幸治も一緒に出かけたが、競輪だけはどうにも好きにはなれなかった。

なにせ遊びに来ている人たちの身ごしらえが悪すぎる。客だけでなく、競輪場に入ると二級酒の匂いが漂ってきて、酒がそれほど好きではない幸治は競輪場に足を踏み入れるや、毎回不機嫌になった。

「ニイ、なにつまらなそうにしてんのよ。競馬やったらもっと楽しそうなのに」

「競輪はどうも好きになれないんだよ。この雰囲気がな」

周りを見回して呟く。それでも車券を買って一喜一憂する父や弟のために付き合っていたが、ある日、向日町(むこうまち)競輪場で本命選手が落車したことで観客が八百長だと騒ぎ出した。さらに騒いだ一人が新聞紙に火をつけて車券購入窓口に投げたのだ。待機していた機動隊が出動して騒動は収まったが、それ以来、幸治たちも競輪場へは足がすっかり遠のき、親子三人で遊ぶ時は京都競馬場に行くようになった。

京都競馬場も今のようにきれいではなく、客は外れ馬券をそこら中に投げ捨てて、階段には足の踏み場がないほど新聞紙が敷かれ、馬券師たちが占拠していた。トイレも汚く、きれい好きの幸治はとても使う気にはなれない。ただ馬が必死に走っている姿にはいつも胸を打たれた。ゴール前で馬券を握りしめ、「そのまま!!」「差せ!」と声が()れるほど親子三人で応援した。

馬券にも夢中になった。自分には博才があると思っていたが、なかなか当たらない。

──ああ、このレースもダメだったか。

がっかりして馬券を捨てに行こうとすると、隣で晋二が大騒ぎした。

「ニイ! 当たった、百三十倍や、百三十万になったよ!」

「晋二、なんでそんな穴馬券を買ったんだ」

「ニイの馬券の縦目を買っただけよ。一番人気馬を外して、相手だけで買ったらこんな配当になった」

「晋二、おまえ天才だな」

父は声も出せずに、晋二が手にする馬券と配当の掲示板を交互に眺めている。

晋二は換金して分厚い札束を持ち返ってきた。心優しい晋二は、父と幸治にその中から万札を数枚引き抜いて配った。

「ありがとう、晋二」

この日初めて、弟から小遣いをもらった。

一九七七年、二十八歳になっていた幸治は、道路スイーパーを製造、販売するドイツの会社の、現地工場見学ツアーに参加した。これが初めての海外旅行だった。

当時の飛行機はすべて東回りで、アラスカのアンカレッジで給油もしなくてはならない。狭いエコノミー席に押し込められたまま、ヨーロッパまで片道三十時間近くかかった。

アンカレッジに到着し、タラップを下りていく。息は白く、鼻水まで凍りそうだ。乗客たちはアンカレッジ名物のうどんを食べにターミナルに駆け込んでいった。

ツアーは十八日間、毎朝五時には起きて、ドイツ、オーストリア、フランス、スイス、イタリア、スペインを飛行機とバスを乗り継いで回るという強行日程だった。一つのスーツケースに十八日分も下着を用意できないから、毎朝ホテルの洗面所で手洗いして、湿ったままビニール袋に入れてトランクに詰め、次の宿泊先に着いてから部屋干しした。

業者仲間は珍しい食事とお土産くらいにしか興味はない様子だったが、幸治は町に繰り出し、建物を眺めた。

アパート一つにしても、いったい何百年前から建っているのか想像がつかないほど、古くても趣きがある。どこからか鐘の音が聞こえてきた。その音色に誘われるように歩いていくと、小さな教会があり、扉は開放されていた。

足を踏み入れると、ステンドグラスを(すか)した光が幾重にも重なって射し込む主聖堂の美しさに、思わず息を呑む。幸治は最後列の椅子に座って、神様に祈りを捧げた。

ヨーロッパはどこに行っても大きな川が流れ、船が走っていて、右岸と左岸とでは別の国かと思うほど賑やかさが違っていた。

ラウンドアバウトを中心に放射状に広がっていく道路も、日本では見たことがなく新鮮だった。住宅の屋根の色も、町によっては橙色だったり、赤茶色だったり、はちみつ色だったり……街全体がアートなのだ。石畳の道は歩きやすくはなかったが、剥がれた箇所はきちんと補修されていて、住人たちが町の景観を大切にしているのが伝わってきた。

「前田さん、どこ行ってたの? もうバスの出発時間だよ」

幸治だけが集合時間に現れないので、ツアーコンダクターがホテルの前でイライラしながら待っていた。

「すみません、景色に見惚(みと)れて、つい時間を忘れてしまいました」

「いないから、どこ行ったのかと思って捜したんだよ。観光ならちゃんとやってるじゃない」

「そうなんですけど、有名な観光地以外の場所も見たくなって」

ツアーコンダクターは渋い顔をしたものの、幸治をバスに乗せて、運転手に出発を指示した。仲間たちはバスの中で酒盛りをするか、いびきをかいて寝ていたが、幸治はずっと車窓を眺めていた。

どこに行っても肥沃な牧草地帯が続いていた。それだけなら日本でも目にしたが、ヨーロッパは必ず馬がいた。母馬と生まれたばかりの仔馬が青草を()み、お腹がいっぱいになると、母馬は首を伸ばし、仔馬の毛繕(けづくろ)いをする。そういう時の仔馬たちは、とても気持ちよさそうだ。そんな微笑ましい姿を幸治は夢中で見続けた。

7/6(水)19:00~紀伊國屋書店グランフロント大阪店にてトークイベントを開催!! 


※残席わずか!! イベント参加にはチケットのご購入が必要になります。7/5、7/6は紀伊國屋書店グランフロント大阪店までお問い合わせください。

本書の刊行を記念し、ノースヒルズ代表・前田幸治さんと、著者の本城雅人さん、そしてスペシャルゲストに福永祐一騎手をお迎えし、7月6日(水)にトークイベントを開催いたします(会場:グランフロント大阪北館(タワーB)10階
ナレッジキャピタルカンファレンスルーム タワーB Room B01+02)。プロの勝負師たちの見方、考え方に触れる時間は、競馬ファンのみならず、多くの人にとって貴重な体験となること請け合いです。ぜひ奮ってご参加ください!

 

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本城雅人

1965年、神奈川県生まれ。2009年『ノーバディノウズ』が松本清張賞候補となり作家デビュー。17年『ミッドナイト・ジャーナル』で吉川英治文学新人賞を受賞。18年『傍流の記者』が直木賞候補になり話題となった。近著に『あかり野牧場』『オールドタイムズ』。

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