

アパートで一人、新聞紙にくるまって眠った「再出発の日」
24歳で、愚かで、そして何もない。ある6月の夜、私は鞄ひとつで北池袋の片隅にあるアパートに越して、いわゆる「再出発」的なものをはかることになった。いくつかの人生の選択を誤り──端的に言えば結婚に失敗したのである。鞄のなかにはノートパソコン、文庫本が1冊、数枚の下着にTシャツ、財布と携帯電話。もう寒くない季節だから、布団などいらないだろうという想定は見事に外れた。寒いのである。仕方ないので、バイト先でもらった新聞紙にくるまって寝た。それが再出発初日の思い出である。
部屋は東向きで、カーテンがないので早朝に目が覚めた。当時の記憶で一番に思い出すのは、いつもお腹が空いていたことだ。
あの頃の私には、居場所を知られないようにしたいということを中心に複数の困難があり、不動産屋さんを大いに悩ませた。最終的に紹介してもらえたのが、冒頭のアパートである。北池袋、東向きの1K、6.5万円。ドアは別だが、大家さんの家と棟続きの物件である。「そこの大家さんと交渉してみてよ。いい人だから話を聞いてくれるかも」とのことだった。すがる思いで、さっそく出向いた。
「いらっしゃい」と笑顔で迎え入れてくれた大家さんは、上品でおっとりとした老婦人だった。そこらじゅうにぎっしりとものが詰め込まれた昭和の台所で、冷たい麦茶を出してもらう。奥から、若い女性と赤ちゃんの声が聞こえた。「孫と、ひ孫なの。ここに一緒に住んでいるのよ」と大家さんが言った。
事情を説明すると、大家さんはとても複雑な表情になった。
「うちには赤ちゃんがいるから、問題がある人はお断りするのだけど」
当然だと思う。借りたい人は山ほどいるはずだ。わざわざ私を選ぶ必要はない。
「でも、あなたを信じるわ」
そう聞いた瞬間、涙がじわりとにじんで、あとはもう止まらなかった。お金も伝手もなく、まだ籍も抜けておらず、ずっと不安のなかにいた。気を張っていたのが、ぷつんと途切れたのだろう。
その日はよく晴れていた。大家さんは「ここがガス、これが元栓ね」などとゆったり説明しつつ、さんさんと降り注ぐ陽光のなかで微笑んだ。
「ここの部屋に住んだ人はね、みんな幸せになっているの。前の人は結婚が決まって出ていったし、その前の人は昇進してもっといい部屋に越したの。だからあなたもきっと、幸せになるわね」
幸せになれる日なんて、来るんだろうか。何をしたら、幸せになれるんだろうか。とてもそんなふうには思えないが、住まいが見つかったことがありがたかった。
入居3年目、当時の恋人との間に同棲話が持ち上がる。「これが『この部屋に住むと幸せになる』ということなのか」と退去の申し出を検討していた矢先、大家さんが亡くなった。突然のことだった。
20代の後半はせわしなく過ぎた。同棲した恋人とはほどなくして別れ、さほど時間を置かず他の人と再婚するのだが、その際に私はまた大家さんの言葉を思い出すことになる。そしてまた離婚し──せわしなくて申し訳ない──その後も恋愛をするたびにあの北池袋の、部屋を思った。いったい何度、大家さんの言葉と“答え合わせ”したことだろう。たとえ外れても「よし、まだ可能性があるぞ」と信じる、それで前向きな人生にできたと思う。今は3回目の結婚で、ようやく自信を持って墓前に報告できる心境になれた。あれから20年弱、我ながら時間がかかりすぎである。
たった一言に生かされていた
今になって思う。あの頃、私は何もかもなくして鞄ひとつで家出をして、スキルもなく定職もなく、お金もなく、本当にただの「人」でしかなかった。それを「幸せになる」ということにしておいてくれたことが、その後の人生でどれだけ私を支えてくれただろう。何もない部屋で新聞紙にくるまって寝るよりもみじめなことは、山ほどあった。心の全部を踏みにじられるようなことも、一度や二度ではない。それでも、心のなかで「だって、あの部屋に住んだんだもの」と、思っていた。「この部屋に住むと幸せになる」という言葉に、生かされていたのだ。
思い返してみると、入居当時からちゃんと幸せだったのだと思う。あるときバイト先の上司が「離婚するから」と布団一式をくれた。若干微妙な気分だったが、ありがたかった。これは家訓にしたいほどの学びなのだが、布団のない人生というのは本当につらい。
夏になると、友達が「結婚するから」と洗濯機と電子レンジをくれた。手洗いという重労働から解放され歓喜した。そうこうしているうちにバイト先の人が「捨てるから」と冷蔵庫をくれ、食品が保存できるようになったのも嬉しかった。秋になると友達が「実家にあったから」と言って毛布をくれた。実家で困っていないか気にはなったが、新聞紙とは比べ物にならないくらいあたたかく、羊のパワーを感じた。雨が降るといつも走って帰っていた私に、上司が「捨てるから」と傘をくれたこともあった。うっとりするほど滑らかな手触りの上等なバーバリーの傘で、どこも壊れてなんていない。「捨てる」は口実だったのかもしれないと、今では思う。
季節が巡って春が来ると、線路で野草をつんだ。近所にはすべての野菜が数十円という怪しい八百屋さんがあり、パン屋さんではパンの耳を袋いっぱいもらえた。何がどう流通したのかわからないが、B級品の服が100円で買える店もあった。公園で水を飲み、図書館で本を読む。自然と社会に生かしてもらっていた。あの頃の私のサイズで、幸せだったのだ。
随分経ってから、布団をくれた上司と再会した。別れ際、深夜に近い渋谷の喧騒をバックに、彼はちょっとうるんだような瞳で「今、あなたが笑っていてよかった」と言った。あの頃は大変そうだったから、ずっと気にしていたと。
占いというのは言葉が商売道具である。見えた結果を曲げるようなことはしないが、伝え方には正解はない。相手によっても、掲載される媒体によっても、何がベストなのかは異なる。日々逡巡するなかで、大家さんの言葉が時折、記憶に蘇る。ここの部屋に住んだ人はね、みんな幸せになっているの。だからあなたもきっと、幸せになるわね──人生の半分にあたる年月、私を支えてくれた言葉を。その言葉に、生かしてもらっていた日々のことを。北池袋の部屋には季節が三度巡るあいだ住んだが、思い出す光景はいつも春の部屋だ。古びた畳にあたたかい陽光が降り注ぐ、春なのだ。
コラムのおまけとして、「言葉の力」から連想した本を3冊ご紹介します。
寺山修司『寺山修司少女詩集』角川文庫
「うらないもしたけど/おまじないもしました」で始まる「だいせんじがけだらなよさ」という詩が好きです。言葉をよすがに生きるとは、こういうことだなと思ったりします。
『毎日読みたい365日の広告コピー』ライツ社
広告というのはこうして集められると、人生の節目節目をパッと切り取ったものに変わります。自分もまたこんなふうに支えられていた、さまざまな人に生かされてきたと気付いたり、「そう考えればいいのか」とヒントをもらったり。繰り返し読んでいます。
深谷かほる『夜廻り猫』講談社
励ましというものは難しいですね。無条件で肯定することの意味と価値を、何度も学ばせてもらったように思います。