1年ぶり3回目の「ついに」
数日前、原稿を書きながら突然、まるで稲妻のごとき実感を得た。ついにこのときが来た──スランプを、抜けたのだ。5年ぶりに、脳がばりばりと音を立てて動いているような気がした。なお、スランプというのは「もともと実力がある人が、うまくパフォーマンスを発揮できなくなること」という意味だ。果たして5年前は実力があったのかというとすみませんと叫んで寝込みたくなるが、「なくはない」くらいには思っていたい。そんな弱気な発想はともかく、こんなに爽快な気持ちで原稿を書き上げるのは本当に久しぶりだった。
「スランプを抜けた」と思ったのは1年ぶり3回目である。前の2回はなんだかいけそうな気がして「抜けた!」と気分が高揚したが、その感覚は数日ではかなく消えた。昼なお暗い迷いの森から出られた思ったのは気のせいだった。頭上を覆い尽くす濃い緑の隙間が一瞬切れて漏れた木漏れ日を、救いが見えたと勘違いしたのだろう。
発端は忘れもしない、2019年1月のこと。その日、窓の外は陰鬱な曇り空が広がり、仕事部屋は物音もなくしんと冷え切っていた。私は翌月分の「今週の運勢」を書いているところだった。少々ヘヴィーながら、チャレンジングな週刊連載のお仕事をいただいて数ヵ月。クライアントの求めるものと私が大切にしたいものの間には小さな、けれど決して埋まらないズレがいくつかあったが、それは私の努力でカバーできる──すべきものだった。良いものを書きたい、私が望むのはそれだけである。
そんななか、「今日は調子が良くないな」と感じた。自分が満足のいく、いつもの文章が書けるまでに時間がかかるのだ。すぐに筆が止まってしまう。コーヒーを淹れて、窓の外を眺める。
ライターとして20年、ありとあらゆる文章を書いてきた。1日でいくつもの分野を並行して書くこともあったし、インタビューばかりの時期もあった。本として形に残る文章もあれば、1日でお役御免となる文章もあった。どんな文章でもそれぞれに楽しくて夢中になった、それほどまでに書くことが好きだった。キーボードに向かえばどんなときも、言葉はするするとつらなって溢れ出す。「私のことは書く機械だと思っていただければ」と本気で言っていたこともある。
ちなみにそういう言い方をすると、自分としてはユーモアのつもりでも雑に扱ってくる人が増えるので本当に良くない──という話はさておき、当時の恥をさらすなら「文章が書けないのは文章力がないからではなく、考えていないからだ」などとイキり散らかしていたくらいである。穴があったらいくつでも入りたい。原稿の気分転換にブログを書く、そしてまたフレッシュな気持ちで原稿に向かう。そんな日々だった。
「今日は調子が良くないな」はほどなくして「今週はダメだ」になり、シームレスに「ここ最近ずっとダメだ」に変わった。もう面白いくらいにダメだった。今まで3時間で書いていた文章が4時間、5時間とどんどん延びていき、しまいには1日かけてやっと書き上げ泥のように眠る、という状態にまでなった。わかりやすく読みやすく、誰も傷つけないように、役立つように。読者が自尊心を持てるように、明日がこわくないように──そのレベルまで持っていくのに、それまでの何倍も時間がかかってしまう。目指すものは占いを書き始めた頃からまったく変わっていないのに、どうして筆が進まないのだろう。
勉強が足りないのかと思い、学習量と読書量を増やした。学べば学ぶほど「さらに学ぶべきこと」が見えてきて……というのは幸せな話だけれど、Wordの白い画面に並ぶ文字列はかたつむりのようにゆっくりと進んだ。当然の帰結として、余暇や休息の時間はどんどん削られていった。翌年、占い専業でいくと決めてリソースを集中するも、いったん遅くなった筆はなかなか戻らなかった。
あこがれのスランプ
振り返ってみれば、スランプというものへの憧れもあったかもしれない。子どもの頃から本の虫で、漫画から小説、ノンフィクションと乱読するなかで、作家が机に向かい「う~ん」と思案するシーンをよく見てきた。「スランプだ!」と頭を抱えるシーンも多かった。クリエイティブな産みの苦しみはいかほどのものだろう。そうやって絞り出したアイデアのうち、凝縮されたエッセンスだけを、読者は飲み干しているのだ。すごい、自分もそんな仕事がしてみたいと切望した。スランプは能力が踊り場に到達し、さらなる高みへ向かわんとしている通過点なのだろうと想像していた。プロとして、素晴らしいものを生み出すために。
しかし自分が「書けない」という状態になってみると、これが思い描いていたスランプの何倍も地味で不安で苦しく、胸も頭もつぶれそうである。常に時間がなく、いっぱいいっぱいでもあった。当たり前だが、机に向かってうめいくことが作家の仕事ではないのだ。
どこにいても原稿のことばかり考えていたし、夜中に叫びながら飛び起き、我を忘れて机に向かうこともあった。「今日は嘘のように原稿が進むな!」と思ったらベッドのなかでふっと目が覚め、夢だったのかとしょんぼりしたこともあった。エッセイやコラムといったご依頼を受けると、お風呂に入ってもごはんを食べてもそのことばかり考えていた。こんな言葉じゃない、こんな文章じゃない。締切が迫っているにもかかわらず、まとめて消した原稿がどれだけあっただろう。
そんなふうにして暗い森のなかをさまよっていたら、あれよあれよという間に5年の月日が過ぎた。気づけば年齢だけは立派な中年である。孔子の「四十にして惑わず」がいまだにわからないのに「五十にして天命を知る」はどんどん迫ってくる。天命を知るどころか「この発言は老害ではないか知りたい」などとビクビクしてばかりである。立派に年齢を重ねた友人たちの活躍を見ては「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と、啄木の句がふと脳裏をよぎる。「花を買ひ来て妻としたしむ」と啄木は続けるが、私はペンを持って夫を待たせるばかりである。
ここは本当に森の終わりなのだろうか。1年ぶり3度目となる「スランプを抜けた感」は、今度こそ続いてくれるのだろうか。今日もまた物覚えのいいゾンビのように机に向かっているわけだが、こうなってもまだ「やりたい」と思える仕事ができていることが、私の人生における確かな幸福のかたちなのかもしれない。もがいて、もがいて、もがき続けたい。
●エッセイのおまけとして、「迷ったときにホッとした人生相談本」を3冊ご紹介します。
燃え殻『相談の森』ネコノス
何が良いかって、相談される側の作者が疲れ果てているところです。相談者に共感して、傷つき直したりしなくていい。「乗り越えられる痛みは、心の傷なんて呼ばないのかもしれません」というお言葉が、古傷を優しくさすってくださっているように思いました。
ビッグイシュー販売者・枝元なほみ『世界一あたたかい人生相談──幸せのレシピ』ビッグイシュー日本
ホームレスの人の社会的自立を支援する雑誌「ビッグイシュー」。その雑誌内で連載されていた、「ビッグイシュー」販売員が回答者となった人生相談本です。「この人はほんまにつらいやろね」「つらいなぁ」と共感して始まる回答あり、「ハハハ」と笑い飛ばす回答あり。解決の一歩手前の、誰かに柔らかく受容してもらえる、そうした空気がぎゅっと詰まっています。料理研究家の枝元なほみさんによる、とびきり美味しそうなレシピがまたいいんです。
呑気に過ぎる相談も、敢えて「相談」と「回答」にする。そこに、ビッグイシュー編集部さんが追い求める、真の「社会的自立」が現れているように思いました。
しいたけ.『みんなのしいたけ.相談室』朝日新聞出版
人生相談本は好きでけっこう持っているのですが、私が好きなのは前述の2冊もそうであるように、お人柄が感じられるもの。そうした意味でしいたけ.さんのこの本も大好きです。