
仕事からも日常からも離れて
ジョギングをしながらオーディオブックを聴いている。最近聴いた本は一穂ミチさんの『光のとこにいてね』で、積極的にジョギングに行きたくなるくらいにはその物語世界に惹き込まれた。作中で何度も出てくるのが、パッヘルベルのカノンだ。音楽室のグランドピアノで、フリースクールの蔵に据えられたピアノで、スナックの2階のおもちゃのピアノで奏でられながら、主人公たちのそのときどきの心情がカノン、つまり輪唱のようにずれながら、重なりながら響き合う。感情が高まりすぎて、何度もジョギングの足が止まってしまうほどだった。歩道橋の上で、橋桁に手をついてぜいぜいと荒い息を吐く。だめだ、と思う。間違った方向に、過剰に反応してはいけない。しかし、頭のなかで再生され始めたメロディは止まらない。
私の頭のなかに響くカノンは、いつもヴァイオリン曲のほうだ。
30歳で突然ヴァイオリンを始めた。ライターとして働き詰めだった20代が終わったとき、気づけば仕事しかしていない自分に愕然としたのである。まあ結婚するなど意外とよろしくやっていたことは事実だが、天啓を受けたように「趣味のひとつでも持たねばならぬ」と思い立った。ちなみにそこから15年経っても仕事しかしていないし、結婚は3回する──というのはどうでもいい話だが、仕事からも日常からも離れる時間が、自分には必要だと思った。
初めてのヴァイオリンは何から何までちんぷんかんぷんだった。楽譜が読めない。指が動かない。チューニングが正しいのかすらわからない。そもそも、クラシックなどさほど好きではない。もはや「なぜヴァイオリンを選んだ」状態である。それでも毎週土曜のレッスンで、一から新しいことを身につけるプロセスは楽しかった。当初はのこぎりのようだった音も楽器らしくなり、簡単な曲をいくつかマスターできた。
30代はせわしなく過ぎた。土曜の朝方まで原稿を書き、帰宅して少し眠ってから練習をすると1週間分、きっちりと下手になっている。悪戦苦闘して仕上げ、急いで教室へ向かうのだ。そんなルーティンのなかで離婚をし、恋が始まった。新しい恋人はヴァイオリンを趣味とする人で、いつかふたりで弾けたらいいなと思った。
しかし現実は想像どおりにはいかないのが世の常だ。恋人と暮らすようになると、ヴァイオリンがしばし争いの種となった。私が下手すぎるのである。家で練習をすれば「弓の持ち方からして違う」と演奏以前のダメ出しをされる。上達するには彼のやり方が正しいのだ。しかし曲がまったく弾けなければ、グループレッスンで迷惑をかける。だから取り敢えず曲を弾きたいとケンカになって、不穏な空気が流れるばかりだった。彼に背を向けて楽譜に向かいながら「自分はいつもこうだった」と過去を振り返る。基礎をきちんと覚えず、とりあえずの試験対策ばかりで乗り切った学生時代。あんなに勉強時間を取ったのに何ひとつ覚えていない。仕事も人間関係もその場しのぎで何とかして、すべてが中途半端だ。「こんな人生は嫌だ」と思って始めたことで、結局「こんな人生」を思い知らされている。
カノンがわからない
通い初めて3年になる頃、合同レッスンなるものに誘われた。普段は数人のグループレッスンだが、数十人規模でひとつの曲に取り組もうというイベントである。その課題曲が、パッヘルベルのカノンだった。あの有名な曲を弾けるんだ、と思うと胸が躍ったし「いつかふたりで弾けたら」の夢にも近づける気がした。
その頃には、恋は完全に行き詰まっていた。恋人の優先順位は、一番が交友で二番が仕事。私のことは、ずっとずっと下だった。私はその原因を、自分がつまらない人間だからだと考えた。仕事しかしてこなかったから。ヴァイオリンが下手だから。見るものが少ないから、愛されないのだと思っていた。せめてカノンでも弾けたら、上位に上がれるだろうか。
しかし、問題は思わぬところにあった。カノンがわからないのである。パッヘルベルのカノンは1stヴァイオリンから3rdヴァイオリンまで3つのパートに分かれ、同じ旋律を2小節ずつずらして演奏する。まず課題曲を覚えようと繰り返し聴くのだが、旋律が重なるとどのパートがどの部分なのか、さっぱり区別できなくなる。楽譜を見ながら聴いてもまるでダメ。困り果てて、重なっていないカノン(「輪唱」という意味が崩壊する表現)の動画を探してなんとか覚えた。しかしレッスンで人と合わせると、自分の音が聴こえない。何度やっても、講師の指導通りにやってもダメだった。
自分は音の重なりが苦手なのかもしれないと気づいたのは、最近のことだ。外出時、夫との会話が困難になるのだ。車の走行音、木々の葉擦れ、コンビニの入り口のチャイム。そのなかにあって、夫の声が世界の音と同化してしまう。ひとたび認識すると、過去に経験したさまざまな点がつながっていく。テレビがついている部屋では、相手の声が聞き取りにくいこと。混雑した場所で、「何度も呼んだのに」と言われたこと。
「私、前からこうだった?」
そう夫に聞くと、彼は頷いて言った。
「何か、考え事をしているんだろうなって思ってたよ」
「聴覚検査ではいつも正常なんだけどな」
ごめんねと謝る私に、夫は言う。
「謝ることではないよ。聞こえるまで、何度だって話せばいい」
逃げるようにして音楽を離れて
わからないカノンを、私は何度も練習した。いつかふたりで。いつかふたりで。弓を動かしながら、ずっとそのことばかり考えていた気がする。上手くなったら、きっと優先順位を上げてもらえる。
合同レッスン当日、会場は海の近くのスタジオだった。100人ほどもいただろうか。3つのパートに分かれ、弓を構える。結論から言うと、私は最初の何小節かですでに躓いた。想像以上に早かった。無になって自分の音だけを聴こうとするもののまるでダメ。カノンが、わからない。100人の音の渦に飲み込まれて、目眩がするようだった。
夕方に帰宅すると、珍しく恋人がいた。その頃の彼は交友で忙しく、私はほとんどの土日をひとりで過ごした。一緒に夕飯が食べられると思うと嬉しく、何をつくろうかと言いかけると、「合同レッスン、どうだった?」という質問が私の声を遮った。「楽しかったよ」と嘘をつく。「カノンが弾けて嬉しかった。ヴァイオリンっていいね」と言うと、彼は満足げに頷いた。「でしょう。もっとたくさん弾くといいよ。じゃあ飲み会行ってくるね」
本当はわかっていた。関心を持ってもらえないのは、ヴァイオリンが下手だからじゃない。
ただ、愛されていないだけ。
深夜の歩道橋の上でオーディオブックを止めて、かわりに当時繰り返し聴いていたカノンを再生する。まず1stヴァイオリン、2小節遅れで2ndヴァイオリン、また2小節遅れで3rdヴァイオリン。慎重に1stを追っていくが、やっぱりわからなくなってしまう。あんなに弾いたのに、こんなにも美しい曲なのに。遠い信号が涙で滲む。逃げるようにしてレッスンも恋もやめた夏から10年経っても、私はカノンがわからない。愛されたくて弾いたメロディが、どう頑張ってもわからない。でも日常は音楽ではないから大丈夫、と思ってみる。私を呼ぶ声が世界にかき消されても「聞こえるまで、何度だって話せばいい」と言ってくれる人がいるのだから、大丈夫。そんなふうに、言い聞かせるようにして生きている。
●エッセイのおまけとして、「音楽が流れてくるような本」をご紹介します。
一穂ミチ『光のとこにいてね』(文藝春秋)
親という存在に翻弄されながらも賢明に生き、ひたむきに相手を思うふたりの少女の物語。ときに不器用に、ときに破天荒に相手のために力を尽くす様子に涙があふれました。相手の存在によって、生まれ持った環境から受けた影響を打ち破っていくところは「人と人が出会う意義」をつよく感じます。
恩田陸『蜜蜂と遠雷』上下(幻冬舎文庫)
音楽界の寵児を輩出することで知られるピアノコンクールに集まる“天才”たちとそれを取り巻く人々が描かれる群像劇。競争に挑むことは自らとの闘いでもあり、成長でもあり……と、惹き込まれるように読みました。天才に憧れる人生でした…。
二ノ宮知子『のだめカンタービレ』全25巻(講談社)
音楽を題材にした漫画は数あれど、私にとって金字塔と呼べるのはこの作品。楽しいばかりではない、カンタービレ(歌うように)ばかりしてもいられない、でも音楽に人生を捧げる登場人物たちが大好きです。