
春に入社した新入社員の方々もひとまずは落ち着いてきたであろうこの時期、会社の採用担当者や現場責任者が気を揉んでいるのは、「はたしてこの人は、このまま仕事を続けてくれるのだろうか」ということである。たとえそれが正社員でもアルバイトであっても、せっかく採った人がすぐに辞めていく時ほどがっかりさせられることはない。それは、採用にかけたお金や時間もさることながら、そんなに悪いものではないとひそかに自負していた職場が、そこにあまり愛情のない人により、ばっさりと否定されたように思えるからなのかもしれない。
ある人がその仕事に向いているかどうかは、ある程度の時間が経ってみないとわからないものだ。面接の時、はきはきと自らのやる気を語り、この人はこの先楽しみだなと期待していた人が、「思っていたのと違いました」と、あっさり仕事を辞めていく姿を見る一方、100点ではないけど“なんとなく”採用した人がしぶとくその仕事を続け、職場でなくてはならない人になっていたということもよくある話。面接の時はみな一番いい顔を見せるから、その人の話すことは、話半分に耳を傾けるくらいがちょうどよいのかもしれない。
かくいうわたしも、いまでこそ“よい大人”の顔を取り繕ってはいるが、アルバイトをはじめたころはどんな仕事もまるで続かなかった。コンビニの店員や塾講師は、まだ続いた方で半年くらい。巣鴨にあったレストランは二回行っただけで嫌になり、その次のシフトで無断欠勤したら、それきり電話もかかってこなくなった(その時はほんとうに申し訳ありませんでした)。
当時は遊びたい盛りだったから、あまり興味の向かないことをする時間がもったいないように思えたのだろう。これからバイトだと思うだけで、すっきりと晴れていた心には暗い雲がかかり、バイト先の駅に着く頃には、足どりはずっしりと重たくなっている。その頃のわたしは、仕事という底知れない鐘を、軽く叩いていたのだと思う。
それが変わったのは、大学近くにあった児童書出版社でアルバイトをはじめた時からだ。それは全国の書店から来た注文を、注文通り、取次ごとに仕分けて出荷する地味な仕事だった。勤務中人と会うことは少なく、自分の好きな音楽をかけながら黙々と働く、アルバイトというには気ままな時間。職場の倉庫には、コンビニ弁当や汚れたお皿の代わりに、刷り上がってきたばかりの、まだインクの匂いのする本が山のように積まれており、その本を触っているだけでも不思議と気が休まった。
そうした仕事がわたしの性に合っていたのだろう。最初二週間という期間で入ったアルバイトだったが、最終日、よかったらこれ以降も来てくれないかと言われた時には、はじめて仕事で誰かから認められたような気がして、胸の奥に小さな誇りのようなものが芽生えた。結局、その児童書出版社での仕事は、それから四年近く続けることになる。
その出版社でわたしを面接してくれたのがBさんで、Bさんはこれまでわたしが出会った人の中で、唯一自分のことを「おいら」と呼ぶ人だ。彼がのちに語ってくれたことによれば、Bさんは元々フォークシンガーにあこがれ上京したものの、その夢は果たすことが叶わず、その後いまの出版社に「拾われるように」採用され、何となくそのまま会社に居ついてしまったのだという。Bさんとは本の話もしたことがなく、ある時彼に趣味を聞いたら、「ない」と即座に返されてしまい、「あるとしても子どもと遊ぶことくらい」と照れながら続けた。
少々の雨なら傘もささず、濡れて帰るような人だった。わたしがアルバイトを辞める日には、おつかれさまと言う代わり、「そこにあるおいらのCD、あげるからどれでも持っていっていいよ」と、目もあわせずに言ってくれたのを覚えている。
住めば都という言葉があるが、仕事にも同じことが言えるのだろう。Bさんは本に過剰な思い入れはせず、決して大言壮語するような人物ではなかったが、自らの仕事をしっかりとやり通して、先日退社されたと聞いている。
思えば、わたしがこの世界に足を踏み入れたのも、Bさんが拾ってくれたからであった。どんな仕事もそうだろうが、とりわけ本の仕事は、ゆっくりと叩けば、それだけ深い響きが返ってくるように思っている。
今回のおすすめ本
齋藤さんの写真と並べられることで、硬かった憲法の条文にも、豊かなからだが与えられる。憲法はそれのみであるわけではなく、そこに人と生活があってのものなのだ。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。