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歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉

2021.08.20 更新 ツイート

第4回

江戸城は世界史上最強の城郭 伊東潤

気鋭の歴史作家として人気を集める伊東潤さんが、自身の作品の舞台となった関東甲信の47の名城の魅力を余すところなく紹介した『歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉』。各城の悲喜こもごものエピソードや英傑たちと秘話逸話のほか、それぞれの城の設計構想などの情報も臨場感豊かに解説した本書の試し読みをお届けします。

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江戸城の新しい発見

平成二十九年(二〇一七)二月、城郭史を塗り替えるほどの画期的な発見が、島根県松江市から伝えられた。松江歴史館に所蔵されていた「極秘諸国城図」七十四枚の中に、「江戸始図(はじめず)」と呼ばれる徳川家康時代の江戸城の絵図が見つかったのだ。これは慶長十二年(一六〇七)~十四年(一六〇九)頃の江戸城を描いたものとされている。

江戸城は二代秀忠と三代家光が改修を重ねており、これまでは、家光時代の江戸城の姿が「江戸図屏風(びょうぶ)」によって分かる程度だった。しかし「極秘諸国城図」には、初期江戸城の姿が比較的正確に記されていた。

「極秘諸国城図」は松江藩士の一人が藩主の軍学の勉強用にそろえたとされ、戦国時代末期から江戸時代初期の城造りがいかなるものだったかを歴代藩主に学ばせるべく、代々受け継がれてきた。

家康の江戸城を推定する手掛かりとしては、「慶長江戸絵図」という慶長十三年(一六〇八)頃の江戸城を描いた絵図がある。だがこれは概念図でしかなく、細部について歪(ゆが)みが生じており、推測を交えずに本来の姿を縄張り図に描き直すのは困難だった。しかし「江戸始図」の発見により、江戸城の中心部、天守、門、石垣などを正確に読み取れるようになった。

それでは、どんなところに家康の江戸城の特徴があるのだろう。

最も分かりやすい発見は、大天守に複数の小天守を多聞櫓(たもんやぐら)で接続した連立式天守にしていたという点だ。しかも大天守の高さは、姫路城が四十七メートルなのに対し、江戸城はなんと六十八メートルもあったというから驚きだ。小天守もそれに比例して大きかったに違いない。

続いて、本丸大手が連続外桝形になっていたこともはっきりした。

桝形とは城門と城門の間に狭い空間を設け、そこに敵を誘い込んで土塁や石塁上から敵を狙い撃つという仕掛けのことだが、この時代、四角いものはすべて桝と呼ばれたことから、この空間は桝形と呼ばれるようになった。

また本丸の南側には、外桝形が五つも連続していたことが分かった。熊本城にも五つの連続した桝形があるが、それが中核部のスペースを著しく狭くしていた。そこから学んだのか、江戸城の場合、本丸のスペースを侵食しないように、桝形を外周部に築いていくという工夫がなされている。

さらに、本丸の搦手にあたる北側に、丸馬出を三つも重ねている点だ。馬出は東国の有力大名の武田氏や北条氏が好んだ攻防兼備の防御施設だが、丸馬出というところに、武田氏の旧臣を多く召し抱えていた徳川氏の特徴が表れている。

太田道灌の江戸城

東西五・五キロメートル、南北四キロメートル、周囲十四キロメートル(広さで二位の小田原城は九キロメートル)という途方もない広さを誇る徳川期江戸城は、名実共に日本一広い平城であり、その建築物の多さや豪奢(ごうしゃ)な点でも他の追随を許さないものがあった。今回の発見では、それに加えて強靭(きょうじん)さでも、ほかに引けを取らない城であることが証明された。

それでは江戸城の歴史を振り返ってみよう。

長禄元年(一四五七)、太田道灌によって築城されたのが江戸城の始まりとされるが、それ以前の十二世紀初頭、この地を鎌倉幕府から拝領した秩父重継(ちちぶしげつぐ)の館があったとも言われる。

その後、江戸の地は秩父氏の名跡を継承した江戸氏の本貫地となり、江戸氏が没落した後、扇谷上杉氏の所領となっていた。享徳の乱の折、古河公方勢力の攻勢を押しとどめるべく、河越・岩付両城と共に取り立てられたのが江戸城である。築城は太田道灌と言われてきたが、グランドデザインは道灌としても、最近は扇谷上杉家の宿老たちと手分けして築いたとされる。

当時の江戸は日比谷(ひびや)入江が大きく入り込んでおり、その東側に半島状の前島と呼ばれる砂州が広がり、入江の最奥部に平川の河口があった。

江戸城は、隅田川、荒川、入間(いるま)川が江戸湾に注ぐ河口付近の高台にあり、城の東を流れる利根川(現・隅田川)と太日(ふとい)川(現・江戸川)という二大河川の出入口を管制する役割を果たしていた。つまり日比谷入江を通って江戸湊まで運ばれてきた荷は、いずれかの河川を使って関東内陸部へと運ばれていった。

海路だけでなく陸路も四通八達していた。浅草や松戸を経て水戸まで抜ける鎌倉街道下道(しもつみち)、中野を経て岩付、古河、宇都宮に向かう同中道(なかつみち)、府中を経て甲斐まで抜ける古甲州道の合流点に、江戸は位置していた。つまり江戸城を押さえることは、江戸湾だけでなく関東各地に通じる陸路をも押さえることにつながっていたのだ。

道灌の江戸城は平川の造り出す三十メートルの河岸段丘上に築かれ、子城(ねじろ)、中城(なかじょう)、外城(とじょう)の三つの曲輪から成っていた。周囲を覆う垣(かき 板塀のようなもの)は数十里に及び、その外側には満々と水をたたえた堀があった。門は二十五もあり、それぞれに跳ね橋が架かっていたという。

道灌の江戸城の正確な位置だが、現在の北の丸から本丸に続く台地上にあったと考えられ、また同等の大きさの三つの曲輪から成っていたことも、万治三年(一六六〇)に書かれた『石川正西聞見集(いしかわしょうさいぶんけんしゅう)』の「家康公入城以前の江戸城は本丸のほかに二つの曲輪があり、これを一つにまとめて(家康の江戸城の)本丸にした」という記述と一致する。

子城には、道灌が「わが庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高根(高嶺)を 軒端にぞみる」という歌を詠んだ静勝軒(じょうしょうけん)という居館があり、その東に泊船亭(はくせんてい)、西には含雪斎(がんせつさい)という楼閣建築群があったとされる。

ちなみに静勝軒という名は、『尉繚子(うつりようし)』の「兵は静を以ってすれば勝ち」という一節から取られている。

これらの楼閣建築物の背後に高櫓があったとされるので、それが天守のようなシンボルの役割を果たしていたのだろう。

城下町となる平河宿の賑わいはこの頃からで、城門の前には常設の市が立ち、常見世(じょうみせ 常設店舗)も姿を見せ始めていた。江戸湊には多くの商船が集まり、交易も盛んに行われていたという記録もある。

こうしてわずかに残された道灌の江戸城の様子を再現してみると、これまでのイメージとは異なる繁栄に沸く中世城郭都市が浮かび上がってくる。

しかし、北条氏の時代になると、軍事拠点としての江戸城の記述は多くなるものの、城郭都市としての姿を記したものは見られなくなる。

小田原合戦で秀吉が関東を制した時の記録によると、石垣はなく、すべて芝土手(土塁)で、城内の建物もすべて板葺きで破損がひどく、土間ばかりの田舎屋だったという(『落穂集』)。

しかし北条氏末期の実質的江戸城主は氏政であることから、重要拠点の一つとして重視され、奥羽と関東を結ぶハブとして栄えたという事実もあり、そこまでひどくはなかったと思われる(一説に『落穂集』が描いているのは民に乱取りされた後の様子だという)。

家康の江戸城

天正十八年(一五九〇)、家康は三河・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・信濃・甲斐五カ国を豊臣政権に返上し、関東へと移封される。北条氏の遺領にそのまま入る形だ。

秀吉の思惑は別にしても、これにより在地性が強かった三河武士団が根無し草にされ、家臣団を再編制できたことは、家康にとってプラスに働いた。

元々、徳川家臣団は独立性が強い上に既得権益を主張することが多かったが、それもできなくなり、家康と徳川家に対して忠節を尽くすようになる。

同年八月一日、家康は江戸入りを果たす。本拠を江戸にしたのは秀吉からの勧めがあったからとされるが、もちろん家康本人も「江戸には小田原や鎌倉にない舟入(日比谷入江のこと)があるので、これから繁栄する」(『石川正西聞見集』)と言ったとされ、移封にも前向きだったと思われる。

関東入部から江戸幕府が発足する慶長八年(一六〇三)までの十四年間は、家康が豊臣大名として江戸城に入っていた期間だが、この頃の城の記録はあまりない。二百四十万石の大大名とはいえ、豊臣大名の一人という立場から、北条氏時代の江戸城を大きく改変できなかったのかもしれない。

それでもこの時期、本丸と二の丸を一つにし、平川の流路を複雑に分岐させて外堀の役割を担わせ、また小河川を堰き止めて千鳥ヶ淵や牛ヶ淵を造ったと言われる。

その慶長八年、家康は征夷大将軍に就任する。これにより江戸幕府が創設され、天下普請として江戸城の大改修が始まる。この普請作事は、「徳川公儀の確立」という政治性の極めて高い城を造るという大方針の下に進められた。

天下普請は日比谷入江の埋め立てから始まり、そこに武家地や町人地を造っていった。

作事はとくに大がかりとなり、諸大名が将軍に拝謁する巨大御殿、統治の象徴としての五重の高層天守、屈曲を繰り返す高石垣といった、当時の最高技術を駆使した城造りとなった。

かくして近世城郭としての江戸城ができ上がった時、徳川政権が安泰になると同時に、戦国時代に終止符が打たれたのだ。

家康の死後、江戸城は軍事的堅固さを弱めつつ、使い勝手のよさを目指した改修が加えられていく。三代家光の時代まで大小の改修は続き、遂に江戸城は完成する。

天守は慶長十二年(一六〇七)、元和(げんな) 九年(一六二三)、寛永十五年(一六三八)の三度上げられたが、それぞれ火災で焼失し、それ以後は二度と上げられなかった。

しかも四代家綱以降は、飢饉(ききん)や大火災による財政難のため大きな改修を施せなかった。明暦の大火によって、徳川三代が貯め込んできた金銀が溶けてしまったからだ。

最終的に江戸城は、内郭は本丸・二の丸・三の丸・西の丸(上下二段)・北の丸・吹上(ふきあげ)の七つの曲輪から成り、さらに外郭も造られた。かくして四代将軍家綱の代になった万治三年(一六六〇)に天下普請は終了した。今日見られる江戸城の縄張りは、その時代からほとんど変わっていないはずだ。

そして明治維新を迎え、江戸城の主は徳川家から天皇家へと代わっていくが、江戸城が日本どころか世界最強の城郭であることは未来永劫、変わらないだろう。

※イラスト 板垣真誠 香川元太郎

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本書で紹介するのは、以下の47城です。歴史作家ならではの城郭ガイドをどうぞお楽しみください。

【東京都】滝山城/石神井城/江戸城/浄福寺城
【神奈川県】小田原城/玉縄城/津久井城/三崎城/石垣山城/小机城
【埼玉県】松山城/菅谷城/杉山城/忍城/岩付城
【千葉県】国府台城/佐倉城/臼井城/本佐倉城/関宿城
【群馬県】岩櫃城/太田金山城/松井田城/沼田城
【栃木県】唐沢山城/祇園城/宇都宮城/足利氏館
【茨城県】逆井城/額田城/小幡城/石神城
【山梨県】新府城/躑躅ヶ崎館/岩殿城/若神子城
【長野県】高遠城/上田城/大島城/旭山城/戸石城
【静岡県】諏訪原城/下田城/興国寺城/丸子城/田中城/山中城

伊東潤『歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉』

気鋭の歴史作家として人気を集める著者が、自身の作品の舞台となった関東甲信の四七の名城の魅力を、余すところなく紹介。歴史作家ならではの視点で綴る各城の悲喜交々(こもごも)のエピソードはもちろん、北条早雲・武田信玄・真田昌幸・徳川家康などの英傑と各城との秘話逸話も読み応え十分。また、それぞれの城の攻防戦や縄張り(城の設計構想)などの情報も、イラストや写真を交えて臨場感豊かにわかりやすく解説。読めば必ず現地を訪れたくなる、もう一度行きたくなること請け合いの城郭ガイドの決定版!

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歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉

気鋭の歴史作家として人気を集める伊東潤さんが、自身の作品の舞台となった関東甲信の47の名城の魅力を余すところなく紹介した『歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉』。各城の悲喜こもごものエピソードや英傑たちと秘話逸話のほか、それぞれの城の設計構想などの情報も臨場感豊かに解説した本書の試し読みをお届けします。

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伊東潤

1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で「第1回本屋が選ぶ時代小説大賞」を、『国を蹴った男』で「第34回吉川英治文学新人賞」を、『巨鯨の海』で「第4回山田風太郎賞」を、『峠越え』で「第20回中山義秀文学賞」を、『義烈千秋 天狗党西へ』で「第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)」を受賞。著書に『茶聖』(幻冬舎文庫)、『歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉』(幻冬舎新書)などがある。

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