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時をかける老女

2021.06.28 公開 ポスト

#7

「私が作ったあの飛行機、本当に飛んだのかしら」中川右介

中川右介は2020年秋、91歳の母を引き取り、介護生活を始めた。介護殺人事件が珍しくない昨今、自分もいつか母を殺してしまうのではないかと不安になった中川は介護日記を書くことにし、ストレスの発散とともに、友人・知人たちに現況を知らせることでアドバイスや励ましをもらいながら、介護生活を送っている。

(写真:iStock.com/zmshv)
 

11月22日 日曜日

<介護27日>

今日はアルバムを見ていた。

50代から60代にかけて、毎年一回は海外旅行へ行き、その写真を自分でアルバムにまとめていた。

しかし、その旅行を一つも覚えていないらしい。

「これから行くつもりだったけど、もう行っていたのね。バリもモスクワも、アメリカもバリ島も、イタリアもドイツもイギリスも行ったみたい」

「行ってないのは、あの世だけだね」

「なかなか行けそうもないわ」

(写真:iStock.com/{アーティスト名})

旅行アルバムの次は家族アルバム。

父の写真もあるので、かつての夫の名をフルネームで思い出す。

「写真だと仲が良さそうなんだけど、どうして離婚したのかしら。あなた、知ってる?」

知っているが、面倒なことになりそうたがら、言わない。

「離婚の前に、どうして結婚したの?」と話をそらす。

「あなたが生まれるからじゃなかったかしら」

出来ちゃった結婚だったのか。いや、そんな話は聞いてない。

「無責任極まると思うだろうけど、本当に覚えてないのよ」

言葉はしっかりし、筋も通っている。記憶がとんでいるだけのよう。

認知症は奥が深い。

録画しておいた映画「サムライ」を見ていたら、「アラン・ドロンじゃない。若い頃ね」と分かる。

原辰徳とかアラン・ドロンは忘れないらしい。

11月23日 月曜日

<介護28日>

今朝は5時半に母の部屋からのテレビの音で起こされる。

あわてて音量を下げさすが、聞こえないと言うので、イヤホンを与える。

しかし、iPhone 用のなので短くて、テレビに近過ぎる。

その場はそれで我慢させた。

ひばりが丘にいた時も「テレビの音がうるさい」と、隣か上の階の人からの苦情が管理事務所に届き、ケアマネジャーを通して、私に連絡があった。

それで耳鼻科へ連れて行き、気休めの耳掃除をして、ついでに補聴器を試用することになった。

(写真:iStock.com/Vyazovskaya_Julia)

私がいる時は付けて聞いていたが、翌日には忘れ、数日後には大事にしまい、どこにあるか分からなくなり大騒ぎ。

見つかったので返却し、その頃には引き取る方向でいたので、耳については、そのままだった。

こちらに来てからも、テレビは見ていたが、そんなに大音量ではないので油断していたところ、5時半の大音量。

数か月前、鳩がよく来るので、それを防ぐため、一日中ラジオをつけていたら、管理事務所を通して「うるさいと苦情がきた」と注意されたことがあったので、早目に対処。

耳は治らないだろう。補聴器は、これまでも高いものを買ってはなくした。なくしたことも、忘れている。要するにテレビがうるさいのだから、ヘッドフォンでいいだろう。

デイサービスへ行かせた後、吉祥寺のヨドバシへ行き、ヘッドフォンを買う。

最初から一番安いのと決めていたので、1700円の。安過ぎる気もしたが。

とりあえず、今晩はヘッドフォンで聞いている。

気に入ったようだが、明日になれば分からない。

11月24日 火曜日

<介護29日>

デイサービスから帰るなり、「わけが分からない」と繰り返す。

「あそこに行くのは2回か3回目だと思っていたけど、そうじゃないらしい」

「もうすぐ一か月」

「わたしは誰も知らないのに、みんなが私を知っている」

デイサービスでいろいろ話しかけられて、自分が何も分からないことに気づいて、動揺しているよう。前はどこにいたのかとかが話題になったのか。

だが、それが自分で分からず、答えられない。

ここ何日かの最大の疑問が、なぜ静岡の実家から東京に出て来たか。その時期も分からない。91年は長過ぎる。

「あなたはどこで生まれたの? 静岡でしょう」

「東京、三鷹」

「その時、私はどこにいたの」

「東京、三鷹。あなたが産んだんでしょう」

「よく、覚えていない」

そして、「やっぱり、わけが分からない」を繰り返す。

そのうち、独り言のように、ぶつぶつ呟くようにり、十数分後、

突然、「明日も会社に行くの?」

「会社?」

「最近、毎日行っているのは会社じゃないの?」

「デイサービス」

どうも、ひばりが丘にいた時に通っていたデイサービスと様子が違うらしく、混乱している。

先週は学校だと思っていた。

「会社じゃないの? 誰も働いていないし、私も何もしないで、お昼にごちそうを食べて、おやつも出て、おかしな会社だなあ、こんなに年寄りばかりで誰も働かないんで、これじゃつぶれるんじゃないかと思った」

会社だという大前提は間違っているのだが、誰も働いてない、このままだとつぶれるのではという思考は正しい。

会社、働いた、という連想からか、思考は過去に飛び、戦争中は学徒動員で工場で飛行機を作っていたという話。「学校の勉強は嫌いだったから、工場へ行くのは楽しかった」と、思い出を語る。そして衝撃の発言。

「あの飛行機、本当に飛んだのかしら。私が作った飛行機が飛ぶなんて信じられない」

日本が負けたのは母のせいかもしれない。

戦争のことまで考え過ぎて疲れたらしく、寝た。

他人との会話が混乱の原因のようだが、なるようにしかならない。

11月25日 水曜日

<介護30日>

今日はデイサービスがない。

「会社に行かなくていいのよね」と、何度も確認。

そのたびに、「何かやることはないか」と言うのでキッチンの床を掃除してもらう。

他の91歳と暮らしたことがないので比較できないが、足腰も内臓も丈夫で、元気。

はたから見たら、そんな高齢者に家事をさせて、虐待していると思われそうだが、やれそうなことはしてもらっている。

昼食後、疲れたから寝ると、パジャマに着替えて、お昼寝。

そろそろ1か月になるが、郵便局に転送するよう届けているので、毎日のように母宛ての郵便局が届く。

(写真:iStock.com/Kunthawat Chaimipuk)

ほとんどが通販のダイレクトメール。いかにカモにされていたか。

受取人払いの申し込みハガキに、「今後送らないで、家族」とだけ書いて、返送するのが日課。

今日は、母宛てに、菅直人事務所から「コロナのため今年の忘年会は中止します」という案内のハガキが転送されてきた。ずっと前から、菅氏の支持者だったのだ。それもあって、私も菅直人氏の事務所で働いたこともあるし、いまも本作りを手伝うなどしている。

「あら、菅直人さん、まだ議員やってるの」と、名前は忘れていない。

「菅直人さん、知ってるの?」

「知ってる、知ってる。国会議員でしょう」

「総理大臣もやったよ」

「そうだったかしら。若くてハンサムだった」

菅直人はアラン・ドロン、原辰徳系のようだ。

「最近、会ってないわ」

その方がいいかもしれない。もう菅さんも若くはない。

今の総理がテレビに映っても何の関心も示さない。分かりやすい。

11月26日 木曜日

<介護31日>

明日で介護生活も1か月。

今日は何もないだろと思っていたが、夕食後、部屋の改造を始める。

「外から見える」と言う。

うちは、カーテンがなくブラインド。

母の部屋は角部屋のような感じで、その直角の部分、ブラインドとブラインドの間に、1センチほどの、隙間がある。それが気になりだした。

一階だが、歩道があり、塀があって、さらに2メートルほどの洗濯を干す空間があるので、

門をあけて敷地内に入ってこない限りは、室内は見えない。

外に出て、「ここまで近づかないと見えないでしょう」

と説明するのだが、「見られたくない」と言う。

「91歳のお婆さんの部屋なんか誰も覗かないよ」

「91歳がいるなんて、分からないでしょう」

と、もっともなことを言う。思考はまとも。

かくして、引っ越しの時の段ボールで部屋の中に壁を作り出す。

ホームレスの段ボールハウスみたいなのだが、本人は気に入っているよう。

いつもは8時前には寝るのに、10時まで大奮闘。

元気である。

*   *   *

※連載は終了しましたが、著者への感想、コメントはしばらくの期間、こちらのフォームで受け付けています(非公開)。これまでも様々なご感想をお寄せいただき、誠にありがとうございました。

中川右介『時をかける老女 認知症の母を介護した1880日』

60歳になって、当時91歳、要介護1の、認知症の母を引き取り、5年弱の介護生活を送った作家が、そのリアルな経験を綴った記録。

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時をかける老女

91歳の母親と、33年ぶりに一つ屋根の下で暮らすことになった。この日記は、介護殺人予防のために書き始めたものである。

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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