
昨年の春、一度目の緊急事態宣言が出ていたときのこと。その日は休みにしていたが、仕事で店には来ていたので、用事のある人には店内に入れるようにしておいた。パソコンで作業をしていたら、入口のほうで何か大きな音がしたので、仕事の手を止め見に行くと、入ってすぐのスロープになっているところに、おばあさんが横になって転がっている姿があった。
「すみませんねぇ。坂になっているとは思わなかったから」
あわてて椅子を持ってきて、そこに座ってもらったが、彼女はこちらの心配をよそに店内を物珍しそうに眺めていた。聞けばここから三分ほどのところに住んでいるというのだが、足が悪いため外に出ることはほとんどなく、この店のことも、体を心配してやってきた息子から聞いて、はじめてその存在を知ったという。
「ここはむかし鶏肉屋さんだったのよね。へぇ……本屋さんになったのね」
その日おばあさんは、あらかじめ用意していたメモを手渡し、本を一冊注文した。その本は先に代金をもらって、後日入荷したとき、妻がメモに書かれた住所まで行って、家のポストに投函してきた。戻ってきた彼女には、「三分以上かかったわよ」といわれてしまった。
この場所にあったはずの鶏肉屋に関しては、聞かなくても多くの人が話してくれるので、およそのことはわかっている。老夫婦が営んでいたこと、店先で出していた焼き鳥が美味しかったこと、何か事情があったのか、長年続いた店を突然やめてしまったこと……。
あなたはお肉屋さんの息子さんですかと聞かれたこともこれまでにはあったし、通りの向こうでスケッチをしていた人に、自作の書店と鶏肉屋時代の建物を描いたポストカードを二枚、恥ずかしそうに差し出されたこともあった。
「前のご主人、このまえ〇〇さんでお見かけしたわよ」
〇〇さんとは近くにある整形外科のこと。その七〇くらいの女性は、鶏肉屋の主人のことは、自分が子どものころから知っているという。
「声をかけようとしたんだけど、気づかなかったのか、そのまま外に出てしまわれたわ」
こうした昔のことを教えてくれる人は、たいていが〈地の人〉だ。彼らからそうした話を聞くときは、自分がどこにも所属していない根なし草のような存在に思えて、大きな顔をして店を構えているのが急に恥ずかしくなる。わたしがどこかの〈地の人〉になるときは、永遠にこないのだろう。
ご主人の消息に関して教えてくれたその女性も、最初のおばあさんと同じように、店内を興味深そうに眺めていた。鶏肉屋だったころは、建物の奥は老夫婦が暮らす空間になっていたから、ずっと入れなかった家に招かれたような気がするのかもしれない。
肉を売っていたはずの場所はいつの間にかテントが付け替えられ、いつもいたおじいさんは、目の前の眼鏡をかけた中年男性に変わっている。彼女からしてみれば五年という月日は、それこそないにも等しい時間だったのだろう。
いつかその主人に会う日がくるのかもしれない。電気のメーターを検針すると、いまだに「タチバナヤ」と印字されたレシートが出てくる。
今回のおすすめ本
ある場所に流れる永遠とも一瞬とも思える時間。その深淵を覗いて書くことは怖くもあるが、作家に与えられた特権といえるかもしれない。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。