死について考えると、どうしても恐ろしいし、怯えてしまいます。
しかし、そもそも、命とはなんでしょうか?
禅僧・平井正修著の新刊『老いて、自由になる。 智慧と安らぎを生む「禅」のある生活』に学んでみましょう。
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遠ざかっていただけの「本来」
──私たちの命は永遠ではない
SARS、MERSなど、これまでも何度か世界的な疫病はあったものの、日本は大きな被害を受けずにきました。しかし、今回の新型コロナウイルスはそうはいきませんでした。
世界各地で、感染者数や死亡者数が爆発的に増えました。日本は比較的(第一波においては)少ないと言われているものの、日本人がもともと持っている清潔な生活環境や、優れた医療制度をもってしても、守れなかった命がたくさんありました。そのことに衝撃を受けている読者もいることでしょう。
私たちの命は永遠ではなく、人は必ず死ぬ-- 。それは誰もが頭では理解しています。しかし、「こんな形ではないはずだ」という動揺が、人々の間に広がっていったように思います。
しばらく「確たる治療法がない」「治験段階の薬もあるが、自分がそれを投与してもらえるかもわからない」「そもそも、検査自体を受けられない人もいるようだ」といった状況であったため、不明瞭で不平等な対応への不安感が、人々の恐怖を増幅しました。
現代の日本人にとって、新型コロナウイルスの蔓延および、それに対する国や国民の無力さは受け入れがたく、特別で例外的で、まさに想定外の出来事となりました。
しかし、あえて言えば、これが、本来の形です。
こういうことは地球上で繰り返し起きていて、今回もそうだっただけです。
疫病だけでなく、自然災害でも、私たちは簡単に命を落とします。生まれたばかりの赤ちゃんや、結婚したばかりの伴侶を一瞬にして失ってしまう人が、今この瞬間も地球上にたくさん存在します。
同じ列車事故に巻き込まれても、かすり傷で済む人と、重篤な後遺症を負う人がいます。私も、昨日まで元気だった友人を交通事故で亡くした経験があります。
こうしたことを、人は「運」という言葉で表現しますが、おそらく「定め」なのだと思います。
もちろん私は、「だから絶望せよ」と言いたいのではありません。
命とは、もともとそういうものだということです。
戦争中は、誰もがもっと死を身近に感じていたと思います。地震や台風などの災害に遭われた人もそうでしょう。あるいは、絶えず飢えていた私たちの遠い祖先は、いつも死と隣り合わせで暮らしていたはずです。
私たちは、たしかに進化しました。しかし、本来の形はなにも変わりません。
私たちは一つの保証もない中で生きています。今こうして生きているのは、当然のことではないのです。
老いて、自由になる。
長生きも不安、死も不安――。
しかし、「散る」を知り、心は豊かになります。
残りの人生を笑顔で過ごすために、お釈迦様の“最期のお経《遺教経》"から学びましょう。
・持ちすぎない――「小欲(しょうよく)」
・満足は、モノや地位でなく、自分の「内」に持つ――「知(ち)足(そく)」
・自分の心と距離を取り、自分を客観的に眺める――「遠離(おんり)」
・頑張りすぎず、地道に続ける――「精進(しょうじん)」
・純真さ、素直さを忘れない――「不忘(ふもう)念(ねん)」
・世の中には思いもよらないことが起こると知る――「禅定(ぜんじょう)」
・目の前のものをよく観察し、自分の頭で考える――「智慧(ちえ)」
・しゃべりすぎない――「不戯論(ふけろん)」
「心を調える」学びは、一生、必要です。