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プロ野球激闘史

2020.06.13 公開 ポスト

金田正一 巨人ナインが“球界の天皇”を認めた理由広岡達朗

広岡達朗さんの新刊『プロ野球激闘史』は、巨人現役時代のライバル、西武・ヤクルト監督時代の教え子から次世代のスター候補まで、27人を語り尽くした“広岡版・日本プロ野球史”。「サインを覚えなかった天才・長嶋」「川上監督・森との確執」「天敵・江夏の弱点とは?」――セ・パ両リーグ日本一の名監督による、知られざるエピソードが満載です。
プロ野球開幕まであと少し! それまでは本書をお楽しみください。

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ダブルヘッダーで2勝稼いだ

私は巨人のショートとして1954(昭和29)年から11年間、国鉄のエース・金田と戦った。私が新人の年、金田はもう5年目で、3年連続で20勝以上、奪三振のタイトルも3年連続で獲っていた。

私はもともと左投手が好きだったので、金田との対戦はあまり苦にならず、それほど速い投手という記憶もなかった。

金田は長身の本格派だったから小柄なバッターが苦手で、阪神の吉田義男にはよく打たれていた。吉田の金田に対する通算成績は打率.290、本塁打8本である。

いまでも覚えているのは、金田が小柄な選手に打たれると「おー、よく打ったなー」というように、余裕の笑顔で打った選手を見ていたことだ。チーム内で「天皇」と呼ばれていた金田の照れ隠し、プライドだったのだろう。

国鉄時代の金田といえば、真夏のダブルヘッダーで1戦目に先発完投したあとも、2戦目で三回か四回までにリードすると「ヨッシャー、俺が行く!」とマウンドに登った。こうして白星を積み上げた結果の400勝でもある。

ドーム球場のない時代、炎天下での先発完投とリリーフで2勝稼ぐ体力と気力と技術は、誰にもできることではない。

巨人戦の金田で忘れられないのは、1958(昭和33)年の新人・長嶋茂雄との初対決だ。4月5日の開幕日。後楽園球場のマウンドに立った金田は3番の長嶋を4打席連続空振り三振に討ち取った。私はこの日2番でショートを守り、5打数1安打2三振だったが、私のあとで長嶋がクルクル回った姿はよく覚えている。

巨人時代は技巧派に転向

金田が巨人に来たのは、1965(昭和40)年だった。

10年選手制度(現在のフリーエージェント制度)を使った移籍だが、このときの金田は快速球は影をひそめ、コントロールのいい大きなカーブを多投する技巧派投手になっていた。

前年は国鉄で27勝12敗、防御率2.79、奪三振231で、2年連続奪三振のタイトルを獲っていたのに急変したのは、長年の力投で左腕が“金属疲労”を起こしていたのかもしれない。

当時の巨人ナインは金田に対し、「国鉄の天皇」がどれだけやれるかお手並み拝見、という冷ややかな態度だった。それまでの生え抜き選手は、死に物狂いの練習でやっと名門のレギュラーを勝ち取ったというプライドを持っていた。それだけに投手も野手も、一度手にしたポジションを他人に奪われないために命懸けの努力をしていた。

排他的な集団に聞こえるが、本来プロとはそういう世界だ。いまのように、自分の仕事を奪うライバル選手でもハイタッチで迎えるような仲良しぶりは信じられない。

巨人ナインに受け入れられた猛練習と“金田鍋”

この年からON砲を中心に川上監督のV9時代が始まる巨人で、新入り・金田は国鉄時代のワンマン生活とは別人のように従順だった。初めて合流した2月の宮崎キャンプでは誰もが驚くほどよく走り、若い投手に交じって真剣にメニューをこなした。

そして我々を驚かせたのは、宿舎での食生活だ。当時のホテルは和室で、長嶋や王などの主力選手も2人ずつの相部屋だった。食事はみんな大部屋で一緒に食べたが、金田はよく自費で肉や魚や野菜など豊富な食材を持ち込んで自室で“金田鍋”をつくり、可愛がっていた相部屋の投手・渡辺秀武と盛大に食べていた。

これは勝手な単独行動ではなく、首脳陣も「独自の栄養補給」として認めていた。

公式戦が始まってからも、プロとしての自己管理と熱心な練習で「金田はやるじゃないか」と巨人ナインからの評価が上がり、「国鉄の天皇」は名実ともに巨人の一員に迎えられた。

だが巨人での1年目は、金田にとって順調な年とはいえなかった。宮崎でのキャンプを打ち上げ、平和台球場での西鉄とのオープン戦前、トスバッティングの打球を受け損ねて左手人差し指を負傷。それでも公式戦の開幕投手を務めたが、6月中旬からは左ヒジ痛で一時戦列を離れた。

このため11勝6敗に終わったが、それでも100三振を奪って防御率1.84で防御率のタイトルを手にしたのは、落差のあるカーブとコントロールのいい直球のコンビネーションを駆使したテクニックの成果だった。

この年、生涯で初めて日本シリーズに出場した金田は南海を相手に1戦と3戦に先発登板して2勝を挙げた。私もショートを守っていたが、マウンドの金田が新人のように緊張して青白い顔をしていたのを覚えている。

巨人に移って5年目、現役最後の1969(昭和44)年には5勝4敗で400勝を達成した。投手陣が「カネさんに勝たせよう」と協力し、さまざまなお膳立てをした結果の大記録である。

関連書籍

広岡達朗『プロ野球激闘史』

巨人現役時代のライバル、西武・ヤクルト監督時代の教え子から、次世代のスター候補まで、27人を語り尽くす! サインを覚えなかった天才・長嶋。川上監督・森との確執。天敵・江夏の弱点とは? 球界きっての理論派が語る、秘話満載の広岡版・日本プロ野球史。

広岡達朗『言わなきゃいけないプロ野球の大問題 巨人はなぜ勝てなくなったのか?』

「私がイチローに引退を勧め続けた理由」「大谷は外野手になれ!」「原巨人は、丸で優勝しても意味がない」――セ・パ両リーグ日本一の名将が書き残す、野球の本質とは何か

広岡達朗『日本野球よ、それは間違っている!』

「清宮は即戦力にならない」「大谷の二刀流はメジャーで通用しない」「イチローは引退して指導者になれ!」――セ・パ両リーグ日本一の名将が大胆予言! 球界大改革のすすめ

広岡達朗『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』

セ・パ両リーグで日本一監督となった球界の伝説・広岡達朗氏が、84歳になってようやくわかった「野球の神髄」をまとめた、野球人生の集大成的な一冊。 新監督、大リーグから賭博事件、元選手の薬物逮捕といった近年の球界を取り巻く問題まで舌鋒鋭く斬り込んだ、日本プロ野球への「愛の鞭」が綴られている。

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広岡達朗

1932年、広島県呉市生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生野球全盛時代に早大の名ショートとして活躍。54年、巨人に入団。1年目から正遊撃手を務め、打率.314で新人王とベストナインに輝いた。引退後は評論家活動を経て、広島とヤクルトでコーチを務めた。監督としてヤクルトと西武で日本シリーズに優勝し、セ・パ両リーグで日本一を達成。指導者としての手腕が高く評価された。92年、野球殿堂入り。『動じない。』(王貞治氏・藤平信一氏との共著)、『巨人への遺言』『中村天風 悲運に心悩ますな』『日本野球よ、それは間違っている!』『言わなきゃいけないプロ野球の大問題』(すべて幻冬舎)など著書多数。新刊『プロ野球激闘史』(幻冬舎)が好評発売中。

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