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ぼくは、平熱のまま熱狂したい

2020.02.12 公開 ポスト

「弱くある贅沢」を守るために 宮崎智之

愛犬が可愛くて仕方ない。愛犬を飼って驚いたのが、当たり前のことだけど、ペットには生活のほとんどが自分自身でできないことだった。餌、排泄の処理、散歩などなど、基本的には飼い主まかせ。しかも我が愛犬は通称“ダラけいぬ”であり、最近では仰向けで寝て、挙げ句の果てには毛布に埋まり、広がった両足だけを外に突き出す。

まるで、映画『犬神家の一族』の“スケキヨ”みたいである。いくらなんでも、さすがに油断しすぎだ。こいつ……自然界だったら生きていけるのかな、と心配になる。

もちろん、ペットなんだからそれでオッケーなのだ。野生に戻るなんてことはない。しかし、末っ子として育ったぼくは、ペットを飼うことによって改めてそれを実感し、衝撃を受けたのだった。「生まれてはじめて、自分がいなければ駄目なやつが現れたぞ!」と。

愛犬のすごいところは、徹底的に「弱い」ところだ。人間との歴史によってそうなっていったにせよ、その弱さは衝撃的であり、またたまらなく愛おしいところでもある。犬は賢い動物で、飼い主が元気のないときにはしばしば寄り添ってくれる。愛犬の前では、なぜだか自分の弱い部分を素直に出せる気がする。弱いぼくらは支えあって生きている。

長年、ぼくがずっと考えていることについて書きたいと思う。それは、人間の「弱さ」についてである。この厄介な問題は、ぼくの人生をいつでもどこでも付いてまわり、「弱さ」についての原稿を書こうと思って、深夜に書きあぐねている今もまだ考え続けている。

 

ぼくが気になっている「弱さ」とは、理性や知性で了解したとしても、どうしてもそういうふうに生きたり、行動したりできない人間の愚かさのことである。ぼくに限らず、誰もがそういう「弱さ」を持っていると思う。だから、あらためて書くことではないのかもしれないし、ぼくなんかが書けることではないのかもしれない。ましては、普遍的な言葉をつむぐのが難しい問題でもある。それでも、これについて言葉で表現したい気持ちは常にある。

「弱さ」について考えるとき、こんなことを思い出す。

父が亡くなる直前までぼくに口酸っぱく言っていたのは、「絶対に卑怯なことはするな」ということだった。「自分の保身のために卑怯なことをしなければいけないくらいなら言え。少しくらいの援助はできるように俺もがんばる」とまで言うくらい卑怯が嫌いな人だった。ぼくは、なるべく父の教えを守り生きていきたいと思って大人になった。

しかし、その教えを守るのに、どれだけ信念と努力が必要かまではわかってなかった。

昔の職場で、上司同士がなにかのトラブルで険悪になり、片方の上司がまわりに相手の悪口を言い回った。その上司は発言力のある、いわゆる「声が大きい人」だったため、周囲は悪口を言われている上司を避け始めた。そもそもどっちが悪く、争いの種をまいたのかまではわからない。しかし、客観的に見れば、どう考えても最後は一方的ないじめだったと思う。

ぼくは、相手の上司とも仲が良かったから、いじめには加担せずいつものように接した。だけど、相手に事情を聞いたり、いじめを解決しようとしたり、部長に起こっていることを報告したりはしなかった。相手の上司は、数か月後に会社を辞めていった。

今になってみれば「なんで、あのとき一言……」と、我ながら情けなくなる。だが、当時はまだ20代で社会人になったばかり。職場での立場や当面の生活を考えると、信念を貫き通すことができなかったのだと思う。無意識にぼくもいじめに加担していた。信念と保身を天秤にかけて、前者を選ぶことがぼくにはできなかったのである。

正義を標榜することはたやすい。しかし、正義を貫きとおすのには胆力がいる。信念を掲げても、体が、言葉が、瞬間的にはそう反応しない人間の「弱さ」。観念的な信念は、生活の利害関係と衝突すると脆く崩れ去る。ぼくの人生は、それの繰り返しだ。

結婚についても考える。ぼくは離婚するまで、まさか自分の人生に「離婚」という言葉が登場するとは思ってもいなかった。もともとそんなに上等な家族観を持ち合わせていたわけではないけど、なんとなく結婚したら死ぬまで添い遂げるのが普通だと思っていた。結婚という制度とはそういうものなのだ、と深く考えもせずに信じ込んでいた。

だが、婚姻届を出したからといって「今日から、ぼくは夫です」と社会的な役割や期待を引き受ける……、なんてことにはビックリするほどならなかった。制度はあくまで制度であって、人と人との営みを一つの形態に当てはめたものが結婚という制度に過ぎないからだ。その形態に当てはまらない夫婦だっていくらでもいるし、制度の不足分を補う約束を作ったとしても、そのとおりに心が駆動するとも限らないのである。

たとえば、渡辺ペコの漫画『1122(いいふうふ)』で描かれている「婚外恋愛許可制」について考えてみる。ささいなすれ違いでセックスレスとなった主人公の夫婦は、家庭外での恋愛を許可するルールを作った。はじめのうちは上手く機能し、むしろ夫婦仲は深まったくらいだったが、そのうちその制度は破綻する。人間の「弱さ」を勘案していなかったことが一因だ。二人で話し合い、理性で作った制度なら完璧だと思っていても、人間の「弱さ」を前提としないものは、砂上の楼閣とほとんど同じである。

ぼくは、離婚するまで自分が強い人間だと思っていた。どんなことも理性と知性の力で乗り越えられると信じていた。そうできない人は、努力が足りないのだと思っていた。もしかしたら、今でいう自己責任論なんかにも加担するタイプだったかもしれない。

しかし、離婚により心は簡単に崩れ、たくさんの人やものにすがった。その一つがアルコールである。この「魔法の水」の前でも、ぼくは徹底的に弱くて無力な存在だった。

そもそも、父方の家系は大酒飲みが多く、「宮崎家の男は、酒に溺れたら40をまたげない」と、これまた父から耳がタコになるくらい聞かされていた。酒を控え、健康的な生活を心がけていた父も、71歳で亡くなってしまった。にもかかわらずぼくは、二度もアルコール性すい炎で入院するまで、酒を毎日のように飲み続けていた。そんなんだから、とくに離婚してからは、常軌を逸した飲み方をするようになっていった。

ここで厄介なのは、医学的な真偽は置いておくとして、「宮崎家の男は酒を飲み、体を壊す」という父の知見を、ぼくは知っていたということだ。知っていてもなお、アルコールに溺れてしまった。父から子への口伝が駄目だったなら、仮にタイムマシーンがあって、ぼく自身が20歳のぼくを説得しに行ったらどうだろうか。説得できるだろうか。父の言うとおり、アルコール依存症になって体を壊したという情報を伝えても、「まだ大丈夫」「もうちょっと大丈夫」「あと1年だけ飲もう」と“知っていてもなお”を繰り返したように思う。いつの時代も、親は子どもに「勉強しなさい」と言うものだ。

一方、母は「お日様が沈むまでは飲んじゃ駄目」と言っていた。ある日、お日様が沈む前からしこたま飲んでいると先輩から電話があり、実家の前のスナックで合流することになった。おじさんが石原裕次郎を歌っていた。ぼくもなにかを歌った。気づいたら救急車に乗っていて、傍らには母がいた。まさかの「ママからママへ」のバトントスが行われていたのだ。

若い救急隊員が、「お兄さん、なにを飲んだんですか?」と聞いてきた。朦朧とする意識のなか、「よっ! 平成の裕次郎!!」と合いの手を入れたところまでなんとか時間を巻き戻し、「ウィスキーとテキーラ……とか」と力なく答えた。隊員は呆れた顔をして、「息子さん、お酒は弱いんですか?」と母に聞いた。すると母は「お酒は強いんですけど、心が弱いんです!!」と絶叫したのだった。母さん、ついでに言うと体も弱いです。

なんだか書いていて、ぼくだけが特別に「弱いやつ」なんじゃないかと思えてきた。しかし、そうだろうか。酒の問題だけをとってみても、アルコール依存症の生涯経験者は100万人以上いるという。「アルコール依存症者の疑い」「問題飲酒者」まで含めると1千万人近くになる。社会環境や法整備、嗜好品への意識など、いろいろな問題はあるだろうけど、どんなに予防策をとっても一定数、アルコールと上手く付き合えない人が必ずいるように思う。

だから、同業の後輩たちが「仕事が終わったから、今日はこれをキメる」などとSNSでつぶやいて、アルコール度数の高いサワーをカジュアルに飲んでいるのを見ると不安になる。「お酒は一生飲めたほうが楽しいよ」とよく言っているけど、どんなに注意しても常軌からこぼれ落ちる人はいる。危険な側面を理解していても、一定数は「弱いやつ」が出てきてしまう。それは意志の問題であるのかもしれない。けど、誰でも手に入るものである以上、自分が一定数に入らない保証はない。“知っていてもなお”そうなってしまう「弱さ」が人間にはある。

信念を持っても貫きとおすことができない。理性や知性で判断しても失敗する。すぐ間違う。少なくともぼくは、自分が「強いやつ」だとは、どうしても思えないのである。

とはいえ、ぼくは生きている。なんだかんだ言っても社会に溶け込んでいる。たぶん。そういう意味では理性が築いた文明のおかげで、ぼくは存在できているとも言える。たとえこぼれ落ちたとしても、すくい上げてくれる人はいてくれたし、医療や制度、人類が積み重ねてきた知見などがぼくを助けてくれた。でも、それはただ単に運がよかっただけだったのかもしれない。

そう考えるようになったのは、遠藤周作の長編小説『沈黙』を再読したことがきっかけだった。

江戸初期の長崎におけるキリシタン弾圧を描いた同作には、キチジローという人物が出てくる。キチジローは、弾圧化の日本にポルトガルから来た司祭(パードレ)を、日本の信徒たちに引き合わす役割を担うのだが、役人に脅され、買収されて司祭を裏切る。踏み絵もすぐに踏む。信仰を貫いて殉教できるような「強いやつ」ではまったくない。

しかし印象的なのは、司祭が捕まってからも司祭の前に現れ、最後まで司祭にすがり、見届けようとしたのは、ほかでもない裏切り者で臆病なキチジローだったのである。

いよいよ奉行による肉体的、精神的拷問が激しくなってきたころ、司祭が閉じ込められた牢獄の戸口に再びキチジローは現れる。「俺あ、切支丹じゃ、パードレに会わしてくいろお」と叫ぶが、獄吏から気が狂っている者のように扱われ、取り合ってもらえない。キチジローは、「パードレさま。許して下され」と戸口で絶叫して、こう嘆く。

「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生れあわせたか」

司祭は眼をつぶりながら、告悔の秘蹟の祈りを唱える。そして、司祭を五島の信徒に引き合わせ、得意になっていたキチジローを思い出し、「迫害の時代でなければあの男も陽気な、おどけた切支丹として一生を送ったにちがいないのだ」と思うのであった。

キチジローのことを考えると、「弱いやつ」の歴史こそが人類の歴史だったのかもしれない、とも思う。自然の驚異から身を守り、差別や偏見や権力欲がたくさんの血を流した。それでも歩みを進め、多大な犠牲をはらいながらも、徐々に「弱いやつ」が生きられる世の中に変化していった。過ちを繰り返す弱い人類は、現在も同じことを繰り返している。だけど、少なくとも今の日本では、信仰を理由に拷問されたり、殺されたりすることはない。キチジローとぼくとの差は、ただ単に「生まれた時代」という運だけである。

理性は少しずつだが、確実に勝利している。さまざまな戦いや試行錯誤を繰り返して。

セツ・モードセミナーの創立者で、ファッション・イラストレーターの長沢節は、戦時中、軍国主義に突き進む日本に反感を抱き、軍事教練を徹底的にちゃかした。その結果、教練不合格になり、希望していた官立の東京美術学校(現芸大)への道は閉ざされてしまった。また、節が雑誌に描く人物画は、国籍不明、痩せて病的、胸に日の丸を付けていない、などの理由から執筆停止となった。戦争画は決して描かなかった。

長沢節は、「弱さの美」を称揚した人物だった。とくに、「細長いスネをもつ優しい男たち」の美を愛した。戦後に書かれた「弱いから、好き」というエッセイの中で節は、

男が強く頼もしいのではなく、孤独で弱い男性の美しさ……それは全く兵隊の役には立ちそうもない男性美。全く亭主の役にも立ちそうにない男性美として、それこそが現代の新しい男性像ではないかといってみたのである。

と記している。

痩せていて、骨ばったモデルばかりを好み、繊細な美しい線で描く節の人物画には、平和主義や反戦の思いが込められていたのではないかと、ぼくは思う。今となっては珍しくはないが、マッチョでたくましく、兵役をまっとうできる男性像がよしとされていた時代、またその名残があった戦後間もなくの時代に、「弱い男性美」を描くのは勇気と信念がいる行為だっただろう、とも。

そう思ったとき、ほんのちょっとだけだけど、「弱さ」について違った側面が見えてきた気がした。

キチジローの嘆きや節の美学からぼくが受け取ったのは、「弱くある」ことは、とても贅沢なことなである、ということだ。とくに、支配される者、虐げられる者にとっては、弱くあり続けられることは、贅沢なことだった。被抑圧者は、絶えず「強さ」か「弱さ」の二者択一を強いられる。そして、ときに「強さ」によって殉死し、ときに「弱さ」によって罪を背負わされ、またときに殺されたりもした。弱くあり続けることは、いつの時代だって困難だった。

考えてみれば当たり前だが、人類にとって、「弱さ」は「強さ」よりも常に先行して存在したはずである。だから、人類は紆余曲折を経ながらも「弱くある贅沢」を求めて、弱くても生きられる社会を目指してきた、と解釈することはできないだろうか。

ぼくはなにも、「弱さ」を開き直れ、と言っているわけではない。しかし、ぼくのアルコール依存症も、つまるところ「弱さ」を受け入れられなかったことに原因があると思っている。体の弱さを顧みず「まだ平気」と父の忠告を無視し、精神的にも弱く、信念を持ち続けることもできないみっともない自分を少しでも「強いやつ」だと思えるよう、酒を浴びるように飲み続けた。酒をやめられたのは、自分の「弱さ」を自覚したときだった。

そして、「弱さ」の自覚は、弱い立場に置かれた者の気持ちに敏感なろうとする第一歩となるのではないだろうか。節の美学は、旧来の特権にしがみつき、「強さ」や頼もしさばかりを自分のアイデンティティにしようとする現代の一部の男性にとって、「本当の贅沢を知らない」と警笛を鳴らしているようにも思う。むしろ、「強さ」を誇示することによって、生きづらさを抱えてしまうのが現代であり、男性が「強さ」に固執しなければ生きられない時代は、めでたくもう終わった。ようやく性別に関係なく、誰もがお互いの弱さを支えながら生きていける時代が始まるのだ、と。

弱くあるのは贅沢なことなのに、それを粗末に扱い、捨てるなんてもったいないと思う。男女といった区別なく、ただ単に「人間」として他者を思いやる贅沢をぼくは享受したい。

しかし一方で、弱くあり続けるということは、二項対立的に判断を求めてくる圧力に対峙し続けなければいけない、ということでもある。生活や保身のために「弱さ」を選ばなければいけない時点で、「弱くある贅沢」はすでに脅かされている。過剰に「強さ」に固執せざるを得ない状況に置かれるのと同じように、そこには強制力が働いているからだ。「強さ」に固執する人も、裏を返せば「弱さ」を抱えている人だともいえる。

自分の美しいと思うものを、踏みにじらないでも生きていけること。あらゆる二項対立を超え、人間が人間であり続けられること。人間の「弱さ」に敏感で、それについて常に思考し続けること。それこそが真の意味での「弱くある贅沢」だとぼくは思う。

そのために、ぼくはなにができるのだろうか。

遠藤周作は、殉教した強者だけではなく、踏み絵を踏んでしまった歴史が隠蔽する弱者にも声を与えたかった、ということが『沈黙』執筆の動機のひとつだと語った。強くもなく、英雄でもなく、弱くて、脆くて、壊れやすく、ときに過つ存在。現時点での人類の理性だけではこぼれ落ちてしまう「弱いやつ」の声を、ぼくもすくい上げていきたいと切に思う。

なにせ、ぼく自身がその「弱いやつ」なんだから、なんとも心許ないけれど、贅沢であるがゆえに、その時代を生きる困難さを抱えた「弱いやつ」は、ある意味、未来の贅沢を先取りした存在だとも言える。だから、やってみる価値はあると思っている。

その先にある、さらなる「弱くある贅沢」のために。
 

(宮崎智之 @miyazakid

    
※引用、参考文献
『1122』1〜6巻(渡辺ペコ、モーニングKC)
『沈黙』(遠藤周作、新潮文庫)
『「沈黙」について』(遠藤周作、1966年6月24日 紀伊國屋ホール講演音源、新潮社)
『細長いスネをもつ優しい男たちの中で』(長沢節、文化出版局)
『弱いから、好き。』 (長沢節、草思社文庫)
『長沢節物語 セツ学校と仲間たち』(西村勝、マガジンハウス)
『長沢節 伝説のファッション・イラストレーター』(内田静枝編、河出書房新社)

***

<お知らせ>

本連載は、『平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命 』として2020年12月9日に発売されます。
 

 

関連書籍

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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