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オンリー・イエスタディ

2000.04.15 公開 ツイート

第3回 アイ・アム・ミスター・エド 見城徹

 子供の頃、『ミスター・エド』というアメリカ製のテレビ・ドラマがあった。
 ♪馬がしゃべる/そんなバカな/ホント、だけど相手は一人/ホントに好きな人にだけ/アイ・アム・ミスター・エド♪
 というテーマソングで始まるこのドラマは幸せな家庭を築きながら、小石に躓いて人生に悩むサラリーマンの夫と、その夫にだけ言葉をしゃべる馬との友情を優しく切なくコミカルに描いていて、週一回の僕の最大の楽しみだった。
 トラブルがあると納屋に行って飼っている馬に、夫は一方的に自分の辛さを語りかけるのだが、ある日突然、馬がしゃべり出し、人生相談までしてしまうのだ。
 妻が犬を飼おう、と言い出した時、僕はそのドラマを思い出していた。
 それなら、顔も馬に似ているシェットランド・シープドッグ、名前は「エド」とすぐに決めた。当然、雄でなければならない。
 かくして、エドは生後二ヵ月で、我が家へやって来た。
 それから三年、僕は毎日エドに話しかける。今ではこちらの言葉のたいがいは理解しているように、見える。いや、そう勝手に思い込んでいる。
 いつか、こいつもあのテレビ・ドラマの馬のようにしゃべり出す、しかも僕だけに。
 そう信じて、仕事や対人関係、体調やゴルフの悩みまで、僕はエドに打ち明けてきた。だが、彼はまだ答えない。ただ微妙に変化する表情と動作で、僕は彼の返事を推し量るのである。
 毎朝七時頃、僕の部屋のドアがかすかな音をたてて開く。と同時に何者かが突進してくる気配があって、僕は目覚める。来たな、と思う間もなく、エドはベッドに跳び乗って来る。足で僕の顔を軽く引っ掻くか、耳から首筋にかけて舐め始めるか、要は早く起きて、散歩に行こうよ、というお誘いである。
 それでも無視していると、諦めて布団の中に尻の方から潜り込んできて、また再びの僕の微睡みに付き合うこともあるが、たいがいが眠い目をこすり上げて洗面もそこそこに僕は外に出かける準備をすることになる。
 妻は絶対に起きないと分かっているから、妻の部屋など見向きもしない。支度をする僕にまとわりついて、早くしろ、とジャンプの連続である。
 マンションの玄関を出たとたん、いつもの植え込みで、気持ちよさそうに、朝ションをまず一発。
 幸い周りには公園が多いから散歩のコースには不自由しない。よっぽどのことがない限りリードをつけないで自由に歩かせ、その日の二人の気分で行くコースを決める。
 というより阿吽の呼吸で、二人は同じ方向に進み出している。
 一番多いのは新宿中央公園から都庁を廻ってというコースで、小休止するベンチも決まっているから、ちょっと油断して見失っても、彼はちゃんと先にベンチに座って僕を待っている。
 新宿副都心の高層ビル群が、朝の太陽に照らし出されて輝き始めるのを眺めながら、僕はエドに話しかける。僕が弱音を吐ける唯一の場所、唯一の時間である。
 会社を設立して三年目、肉体的にも精神的にも疲れがピークに達していた時にやって来たエドの役割は大きかった。物言わぬセラピストとして、僕の勝手な告白を毛並みが極上のマフラーのように美しい10キロの身体で受け止め続けてくれた。
 通りがかりの人に聞こえたら、薄気味悪かったかもしれないが、僕にとってはこの上なく、心安らぐ一時であったのだ。
 そのベンチで、僕は季節の儚い移ろいを感じ、季節に染まっていく道行く無数の人々の生の営みを想い、これから始まる今日という一日を生き抜く切なさと格闘する。そんな一日が積み重なり、折り重なって、一年、二年と過ぎてゆく。
 僕にとって生きるとは、そういうことだ。

 忘れられない光景がある。
 生後八ヵ月くらいで、エドを訓練に出すことになった。僕は反対したのだが、その方が後々エドのためにも絶対にいいという妻の主張を容れて三ヵ月のコースを選択した。
 実際、インテリア・デザイナーを入れて改装したばかりの家の壁や家具は囓られて無惨な姿をさらし、絨毯には漏らした小便のシミが絶えず、一人、部屋に残すとそれが一時間でも猛烈に寂しがった。
 三ヵ月の別離は悲しかったが、それでエドが居心地良く生活できるようになって帰ってくるなら、と僕もようやく決心したのだった。一週間に一度、飼い主も一緒になっての訓練があって、それが面会日にもなるのだが、最初のその日が待ち遠しくてならなかった。
 預けた店はガラス張りになっていて、車を降りた僕の目に小さなケイジの中に入っているエドの姿が見えた。
 ドアを開けて店内に入っても、エドは気がつかない様子で蹲っていたが、僕と目が合った瞬間、彼は立ち上がり、呆然と僕を見つめたまま失禁したのだった。
 結局三ヵ月分の料金を払って、一ヵ月でエドを引き戻すことになったのだが、あの失禁した時のエドの表情は今も脳裏に焼き付いて離れない。これほどまでに僕を必要としてくれる<存在>がある。その<存在>は何と生きていくという難事業に張り合いを持たせてくれるものだろうか。
 かくして僕は今日もエドと散歩に出かける。いつもの公園、いつものベンチでいつものように話しかける。今日こそエドが、
「アイ・アム・ミスター・エド」
 としゃべり始める奇跡を信じて。

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