今月から、文筆家・土門蘭さんによる連載が始まります。
『死ぬまで生きる日記』『ほんとうのことを書く練習 「わたしの言葉」で他者とつながる文章術』などの著作が話題の土門さんですが、これまでは仕事一筋で、無駄な時間や効率の悪いことが好きになれなかったそうです。今年四十一歳になり、仕事と家事を往復する生活だけでこのまま人生を終わらせていいのか? 最近はそんな問いを抱くようになったと言います。
本連載では、そんな土門さんが、これまでは距離を置いていた様々な「遊び」に向き合い、人生後半戦の生き方を再確認しながら見つけ出していきます。
年齢を問わず、人生の中で立ち止まって考える時間がほしい、自分の好きを追求してみたいと願うすべての人へ、このエッセイが届きますように。
* * *
夏休みが終わる前の一週間のことを、よく覚えている。
あれは確か小学四年生の頃だった。八月の終わりの一週間。あともう少しで二学期が始まるという日。ふと、好きなことをしてみようと思った。あと一週間で終わるのだから、やりたかったことを全部やってみようと、急に思いついた。
それまでは、夏休みといっても何をすればいいのかわからなくて、ただただ時間を潰すように過ごしていた。周りの友達は親戚の家に行ったり、旅行をしたりしていたが、うちは共働きで両親ともに忙しかったので、家族でどこかに遊びに行くことはほとんどなかった。貧乏だったので習い事もしていなかったし、宿題や自由研究を終わらせてしまったらやることがない。朝、ラジオ体操に行ったら、家で勉強するか家事の手伝いをするかして、やることがなくなるとテレビを見たり、図書館で借りた本を読んだり、暑い中、近所を一人で歩き回ったりした。一日がとても長く感じられて、早く学校が始まらないかなと思っていた。
夏休みはいつも憂鬱(ゆううつ)だった。曜日や時間の感覚がなくて、いつも暑くて晴れていて、蝉ばかりうるさくて、茫漠と続いていく毎日に押しつぶされそうだった。宿題として出されている日記には、ろくに書くことがなかった。
それでも八月が終わりに近づくと、急に一日一日の輪郭がはっきりしてくる。もうすぐ終わる。夏休みが終わる。何もできなかった焦燥感と、ようやく二学期が始まる安心感で、私は急に活気付いた。そうだ、夏休みにやりたかったことを全部やってみよう。そう思いついて、私は何人かの友達の家に電話をかけた。
夏休みも終わりごろになっていると、みんな旅行や帰省から帰ってきていて、暇を持て余しているようだった。まずは予定のない友達を集め、学校のプールに行くことにした。上級生が幅を利かせているだろうと、億劫がって行かなかったプール。カナヅチで泳げないから、みっともないと思って行かなかったプール。でも、実際に行くとこわい上級生はいなかったし、ビート板の貸し出しがあったり、友達が泳ぎ方を教えてくれたりした。その日はとても楽しくて、思い切って「明日も行こうよ」と言うと、友達が「いいよ」と言ってくれた。帰り道、実に夏休みらしい一日だと満足した。
その他にもやりたかったことを思い浮かべる。友達の家に行ってゲームをする。近所のお店でかき氷を買い食いする。公園で蝉とりをする……。翌日もその翌日も友達を誘い、断られたら他の友達を誘った。友達は友達でやりたい遊びがあるようで、それも一緒に楽しんだ。私は残りの数日間を遊び倒した。
夏休みの日記は、最後の一週間だけ異様に充実していた。それまでのスカスカな日記とは大違い。私は日記を書きながら、「夏休みって、こういう風に過ごすものだったんだな」としみじみ思った。好きなこと、やりたかったことを、遠慮なくすればよかったのだ。それが思い付かなければ、人を誘って何して遊ぶか一緒に考えればよかったのだ。たいしておもしろくなければ、違うことをすればいい。だって時間はあるんだし、どうせ夏休みなんだから。
気づくのが遅かったな、と残念に思った。夏休みが終わる頃になって、やっと夏休みの正しい過ごし方に気がついた。その時、私はまだまだ子どもだったが、「自分は死ぬ前にも同じことを考えるんだろうな」と思った。
私はきっと、歳をとって人生がもうすぐ終わるのだという時、もっと好きなことややりたいことをすればよかったと後悔するのだろう。「人生は夏休みと同じだったんだ」と気づき、「どうしてやらなくてはいけないことばかりにかまけていたのか」と嘆くのだろう。
そう直感したのが十歳の時。だけど私は、三十年経った今でも変われないでいる。人生は夏休みだとわかっているのに、いつか終わるものだとわかっているのに、やっぱり私は遊ぶことができない。このままでは、本当に予想通りの晩年が来てしまう。
§
遊ぶことが苦手だ。
遊んでいい、休んでいいと言われても、何をすればいいのかわからない。
それでは何をしているのかというと、ずっと働いている。別に働くのが大好きなわけではないのだが、嫌いではないし、何をすればいいかがわかりやすい。だから、ずっとやってしまうのだ。
仕事、家事、育児、などなど、やらなくてはいけないタスクは、無限に私の目前に湧き出てくる。洗濯物を干して、掃除をして、文章を書いて、宅配の応対をして、町内会の回覧板を回して、また文章を書いて、雨が降れば洗濯物を取り込み、子どもの塾の送迎をし、夕飯の支度をする。
まるで来たボールすべてを打ち返すように、私はひたすらタスクを遂行する。終わればすっきりするし、お金をもらえたり感謝されることもあるので、働くことは基本的に「いいこと」だと感じる。大抵の場合「遊び人」は貶(けな)し言葉だが、「働き者」は褒め言葉だ。だからこそ、ずっと働いてしまう。働くことには達成感こそあれ、罪悪感はほとんどない。
一方で、遊びはどうだろう。
遊びは、どうもわかりにくい。仕事は周囲の人や環境からの要請により生じるが、遊びは自分で何をするか決めないといけない。誰かに頼まれたものではないうえ、批難されることだってあるのだ。「そんなことしてなんになるの?」「何か意味があるの?」「そんな暇があるなら働いてよ」……人に言われなくても、自分で自分にそんな風に思い、罪悪感を覚えてしまう。
そう、遊びには意味や意義がないのだ。何かに役立つわけでもない。お金が稼げるわけでも、感謝されるわけでもない。逆に、意味のないものに時間やお金を費やす行為だ。それはかなり勇気のいることではないだろうか。私には、どうも難しい。
以前、金土日と連続三日間トークイベントの仕事が入り、さすがに月曜は休もうと心に決めていた。だけど、蓋を開ければ月曜の朝から晩までいつも通り、いや、いつも以上に働いてしまった。
なぜか。働けるうちに働こうと思ったからだ。この頃は季節の変わり目で疲れが溜まっていて、もしかしたらそろそろ体調を崩すかもしれないと思った。ちょっと喉に違和感があったし、今週あたり熱が出るかもしれない。それならば、熱のないうちに働いておこう。そう思って、いつもよりバリバリ働いてしまったのである。ちなみに翌日も熱は出ず、その上喉も治ったので、普通に働いた。気づけば私の土日の代休はどこかに消え、いつもよりバリバリ働く自分だけが残った。
私は個人事業主で、普段は一人で仕事をしている。就業規則がないので、働き方など自分の判断でどうとでもできる。売上とトレードオフではあるが、別に週に三、四日休んでもいいし、仕事量を減らすことだって可能だ。独立する前は、ゆったり働こうと夢見ていたこともあった。おやつ時まで働いて、その後は読書や映画鑑賞をして過ごすのだ、とかなんとか。
それなのに、私は私を働かせ続けている。今日の仕事が終わったら、明日の仕事もやってしまう。それが終われば家事に育児に走り回り、夜にはエネルギー切れで布団に倒れ込む。そこに遊ぶ時間はない。
働かないのがこわい。遊ぶのがこわいのだ。
§
いったい、どうしてこんな風になったのか。
理由はいろいろあるような気がするが、子どもの頃からこんななので、正直よくわからない。どこまで自分を分析できるかわからないが、とりあえず心当たりのあるものから書いてみよう。
一つ目は、生まれ育った家庭が貧しかったことが影響しているように思う。父は溶接工で、母はスナックのママをしていた。父は職場が遠く、朝早くから夜遅くまで仕事に出ていて、日曜は疲れ果て家でずっと寝ていた。母は母で、お正月以外は休みを取らず、スナックを営業し続けた。口癖は「家におっても金は一銭も入ってこん」だった。
そんなに働き詰めだったのに、うちはずっと貧乏で、子ども心に塾や習い事へ通うことを遠慮していた。大学には奨学金を借りて通い、卒業から二十年経った今も返済中だ(もうすぐやっと完済する)。
そんな家庭で育ったからか、私はお金がなくなることに強い恐怖心を抱いている。自分の二人の子に決してそういう思いをさせたくないという気持ちも大きい。母の言う通り、働かないとお金は入ってこないし、遊んでいるとお金は出ていくばかり。だから遊ぶのがこわいというわけだ。
二つ目には、「いい子」でいようとし続けたことが挙げられるかもしれない。母は韓国人で、私が幼少期の頃は日本語でのコミュニケーションができず、子どもながらに母の通訳を担っていた。自分が母を守るのだと、気を張って過ごしていたように思う。また、日々感じる外国人差別の視線に対抗するため、優秀でいようと必死だった。勉強もスポーツもできる娘になれば、母が周りの人に認められるはずだと思っていたのだ。だから、遊んでいる余裕が私にはなかった。もっといい子にならなくては、もっと自慢できる娘にならなくては、母を守らなくては、と常に必死だった。
三つ目は、そんな生き方を褒められてきたことだろう。蘭ちゃんは頑張り屋さんだ、しっかり者だと言われ、それが自信、もっと言えばアイデンティティの大きな要素になっていた。だから、働き続ける癖がなかなか抜けないし、今でもそれを手放せないのだと思う。
近しい人にはよく「ストイック」だと言われる。禁欲的だとか克己的だとかいう意味合いで使われるこの言葉は、よく自分を表しているなと思う。確かに私は、自分に対して禁止事項が多い。無意味なことはしてはいけない、享楽的になってはいけない、無駄遣いをしてはいけない、などなど。
私のことをストイックだと言う人は、純粋に褒めている場合もあれば、呆れている場合もある。「そんなに頑張って息が詰まらない?」というニュアンス。もちろん、息はずっと詰まっている。そろそろ本当に苦しくなってきた。このやり方では長く続けられないだろうことは、ずっとわかっている。
§
夏休みと人生の関連性を感じた、小学四年生の時。
同じ年に、私は初めて「死にたい」という感情も自覚した。ある日の算数の授業中、ふと「死にたい」と思ったのだ。
それは突発的な感情というよりは、ずっと自分の中にあったものが、急に輪郭を帯びてわかるようになった感覚だった。ああ、自分はずっとそう思っていたんだなと、ようやく言葉を与えられたような。十歳という、思春期の始まり。自分がどういう人間なのか、少しずつ客観的に見られるようになった年なのかもしれない。
以降、「死にたい」という感情は毎日のように湧き上がってきた。それでも、死んではいけない、生きていきたいという気持ちの方が強かったので、どうにかこの感情を消そうとした。自分は今何を思っているのか、どう感じているのかをノートに書き、理由らしきものを突き止めては、持ち前のストイックさで問題にアプローチしていく。人間関係、経済状況、仕事、健康状態……全部を解決することはもちろんできなかったが、それでもかなり改善した。ただ、どれだけ努力しても「死にたい」という感情は消えなかった。いくつになっても、どこへ行っても、誰といても、どうしても消えない。
この感情に理由はない。だから消すことができない。そうわかってから、誰にも相談できなくなった。
ただ私は、いくらこの感情が湧きあがろうが、「決して自ら死を選ばない」ということを心に固く決めていた。周りの人が悲しむからという理由も大きいが、何より自分のためだった。もし「生きる」ことの他に「死ぬ」という選択肢ができたら、私はずっとそこで迷い続けてしまう。迷うことは多大なエネルギーを消耗することだから、選択肢は「生きる」一つだけにしたかった。端的に言えば、いちいち生きるか死ぬかを考えるのが面倒だったのだ。
もう一つは、これまでの自分の苦労を投げ出したくなかった。死にたくなるたびに文章を書き、試行錯誤し、がむしゃらに生きようとしてきた。死を選ぶことは、そんな自分を裏切ることだ。頑張ってきた自分を、投げ出したくなかった。
自殺はしない。死が向こうからやってくるまで、私は生き続ける。私は私と、そう約束し続けてきた。それは今でも、何より優先すべき大事な約束だ。
だから、「死にたい」という発作的な感情に襲われるたび、私はそれが通り過ぎるのを必死で待った。時々うっかり呑まれそうになりながらも、なんとか気を取り戻してやり過ごす日々。その感情は、私にとって不可解かつ恐怖の対象、ほとんど敵のようなものだった。
コロナ禍でぽっかり時間ができた時、カウンセリングを始めた。ずっと恐れていた「死にたい」という感情に、思い切って真正面から向き合い、徹底的に言語化してやろうと思ったのだ。その二年間のプロセスは、2023年に出版した『死ぬまで生きる日記』(生きのびるブックス)にまとめている。
その中で、カウンセラーさんと「幸せ」について話した箇所がある。私は幸せと言えば、他人に必要とされたり感謝されたりといった他者由来のものしか思い浮かばず、自分だけで叶えられる幸せが思いつかなかった。例えば、おいしいものを食べたり、きれいなものを見たり、いい香りを嗅いだり。そういうことをすれば、確かに私も一瞬幸せな気持ちになるのだが、すぐにこわくなってそれを終わらせようとしてしまうところがあった。
そんな私に対し、カウンセラーさんはこう言った(文中の「Rさん」とは、私のことである)。
「『幸せ』を恐れてしまうことについてうかがった時、Rさんはもしかして自責の念がかなり強いのかなと感じました。楽しんだり喜んだりすると、『バチが当たる』『悪いことをしている』気分になる、とおっしゃっていましたね。その発言は、自責を超えて自罰的とも取れます」
(『死ぬまで生きる日記』P100)
自罰的。確かにそうかもしれないなと思った。私は私を律し、制し、罰し続けているのかもしれない。幸せだけではなく、死にたさすら禁じている自分に、その言葉はしっくりときた。
ストイックさや、遊ぶことに対する苦手意識も、そんな思考の癖から生まれているのだろう。そうなった理由には先に挙げたようなことが当てはまるのだろうが、わかったところで、なかなかその癖は抜けない。
エッセイを出版してからもカウンセリングは定期的に続けていて、現在八年目に突入している。結論から言うと、「死にたい」という感情は今も消えていない。
ただ、ようやく自分の中にある「死にたい」という感情を受け入れられるようになった。
別にそう思っていいのだと捉えられるようになった。これは大きな変化で、そうなってからは安心したのか、逆に「死にたい」と思う頻度は下がっている。それでもまだ、月に何度かは発作的に湧き上がってくる。
今でもカウンセリングで時々そのことについて話すが、もうこの感情が消えるとは思っていない。多分、この感情は死ぬまで消えない。私はずっと「死にたい」気持ちと付き合い続けるのだろう。それはここまでやってきたからこそわかったことで、いい意味で諦めがついたし、腹がくくれたなと思う。
§
さて、今私は四十一歳である。人生の折り返し地点と言われる年齢だ。
ここからはもう、飛躍的に能力が伸びたり、大きな可能性が開くようなことは、あまり期待できないだろう。少しずつ体力や記憶力が落ち、肌にはシミやシワができ、髪の毛には白いものが混じってきた。体調を崩すとなかなか回復しないし、カロリーの高いものは消化できないし、眠っても疲れが取れない。私は日々、緩やかに緩やかに死に近づいている。まるで、坂を下るように。
その変化を感じ取った時、これまでと同じやり方では生きていけないだろうなと、ふと思った。自罰的にストイックに、自分に鞭を打って歩かせるようなやり方は、坂道を登る時期にはある程度機能していただろうが、下る時期にまで続けてしまうと、あっけなく転げ落ちてしまうだろう。それはむしろ、自分を殺す行為な気がする。
「じゃあ、私はこれから、どう生きていけばいいんだろう?」
四十代に差し掛かった時、素朴にそんなことを思った。今までは、「死にたい」気持ちを消す方法について考え続けてきた。だけど、それはもう消えないとわかったし、今後はこのままの自分で「生きていく」方法について考えなくてはいけない。
その時ヒントになるのが「自罰的」という言葉だった。自分を罰するように生きてきたのが人生の前半だとすれば、後半では自分を許していけばいいのではないだろうか?
踏ん張ってきた筋肉を、少し緩めるように。走り続けてきた道を、歩いてみるように。例えば夏休みの終わりかけ、「どうせ終わるのだから、やりたかったことを全部やってみよう」と思ったように。無意味なこと、無意義なことを、自分に許してやることが、私には必要なんじゃないだろうか。
私は、「遊べるようになりたい」と思った。死にたさを抱えつつも、少しずつ死に近づきつつも、最後の最後まで、生きる楽しみや喜びを味わいたい。ゴールに一直線に向かうのではなく、ブラブラと寄り道をしながら、人生を歩んでいきたい。
この連載は、そんな遊び下手な私が遊びについて考え、実践していく記録である。
仕事の合間を縫い、罪悪感を覚えつつ、勇気を持って遊びを経験していく。時には遊び上手な友達に教えを乞いながら、遊びの現場に足を踏み入れていくつもりだ。
d人生八十年、もしかしたら人生百年時代において、私だけではなく、社会全体に必要なのは「許し」なのかもしれないという予感がある。成長も変化もできなくなる中で、いかにそんな自分たちを許せるか。なんでもない日々をおもしろがれるか。死ぬまでのらりくらりとやっていけるか。その秘訣が、「遊び」にあるような気がする。
ここに書いた文章が、あなたが生きるための一つのヒントになったら嬉しい。
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仕事一筋で、無駄な時間が好きになれなかった文筆家の土門蘭さん。今年四十一歳になり、仕事と家事を往復する生活だけでこのまま人生を終わらせていいのか? 最近はそんな問いを抱くようになったと言います。本連載は、そんな土門さんがこれまでは距離を置いていた「遊び」に向き合い、人生後半戦の生き方を再確認しながら見つけ出していくエッセイです。
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