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結婚したけど、まだ欲しい! ~不惑間近の女の強欲生存論~

2026.10.21 公開 ポスト

「子ども」を持つことについて考えてる――欲しいものを、欲しくないふりするのがうまかった自分との対話早乙女ぐりこ

今回で4回目となる早乙女ぐりこさんによる連載。本エッセイは「結婚」をテーマに、早乙女さんご自身の恋愛観・結婚観・人生観などについてざっくばらんに綴っていく内容です。
今回は、子どもを持つことについて。「自分が欲しいもの・欲しいと思わないものはこれだ」と自覚すること、そしてそれを言葉にすること。単純なようで、むずかしい問題でもあります。自分に嘘をつかずに生きていくこととは? 自分らしい生き方を模索する意味でも、必読のエッセイです!

*   *   *

昨年の夏、義弟一家と一緒に温泉旅行に行った。義弟一家は、夫の弟とその奥さん、生後10か月のSちゃんの3人家族だ。そこに夫と私が加わった5人の旅路は、にぎやかで楽しかった。
私は年子の弟と2人姉弟で、親戚にも自分たちより小さい子がいなかったので、子どもの頃に赤子とかかわる機会はほとんどなかった。大人になってから友人たちの子や甥姪と触れあうようになると、赤子って太陽だな! と思うようになった。圧倒的な光を放つぴかぴかの赤子が世界の中心にいて、大人はみんな、そのまわりを惑星のごとくくるくるまわっている。

 

今回の旅行中もそのことを実感した。Sちゃんの一挙手一投足にみんな常に注目している。旅館の食事はビュッフェ形式で、晩ご飯のときは自然と座席でSちゃんを見ているチームと料理を取りに行くチームに分かれ、義弟夫婦が食べているときには私の夫がSちゃんを抱っこしていた。入浴のときも、まずはSちゃんを女湯でベビーバスに入れ、ほかほかのままくるんで、外で待機する男性陣にバトンタッチしてから、改めてゆっくり温泉に浸かりに行った。
翌朝、義弟夫婦が朝食を食べに行く間、夫と私はふたりで部屋でSちゃんと遊んでいた。Sちゃんが、パパとママの不在に気づいて泣きそうになると、ガラガラを鳴らしたり鏡を見せて気をひいた。

 

一泊二日を一緒に過ごして、Sちゃん中心に動くことにも慣れた。でも、旅行の最後に地元の有名なお団子屋さんに行ったとき、ふっと悲しい気持ちに襲われた。私はずんだのお団子を口に運ぶ夫の写真を撮ったのだけれど、夫はといえば、隣の私に目を向けることなく、正面に座った義弟夫婦とSちゃんの写真を何枚も何枚も撮っていた。そして、「ふたりはゆっくり食べていて!」と言って、自分の分を食べるのもそこそこにSちゃんを抱きとってあやしていた。 
「できたてのお団子、冷めちゃうよ」とか「ねえ、私の写真も撮ってよ」なんて言えなかった。そうして時間が経つごとに、お団子だけでなく私の心もふかふかのやわらかさを失っていったのだった。

ちゃんとわかっている。世話を必要とする子どもが場にいたら、その子どものことが最優先になるのはごく当たり前のことだ。 
それなのに、夫が、小さなSちゃんや、その世話をする義弟夫婦ばかりを気にかけていることに悲しくなるなんて、我ながらばかだなあと思う。
たった一泊二日なのに。夫はいつだって私のことをとても大事にしてくれているのに。義弟夫婦を気遣ったり率先して赤子の面倒を見たり、そういうことをためらいなくできる人だから好きになったのに。

*

婦人科系の疾患があり、数ヶ月に一回、婦人科に通っている。ここ数年は薬の処方と定期検診が主で問診はすぐに終わるのだが、先日は、担当の医師が私の顔を見てこう切り出した。
「もし妊娠を希望するなら、年齢的に、そろそろ動き出さないと」
「……そうですよね。でも、子どもが欲しいと思えないんです」

2年半前、フォトウエディングの打ち合わせで、夫になる人と表参道の店舗に行った帰りにも、私は同じ言葉を口にした。用事を済ませて表参道でお昼を食べて、途中の珈琲焙煎所でSサイズをテイクアウトして、渋谷方面に向かって歩いていたときだった。結婚の準備を進めるうちに、ようやく、私はこの人と生きていくのだ、という実感が湧いてきて、入籍前に改めて言っておかなきゃ、と思ったのだった。
私は子育てに向いていない。幼児や小学生くらいの子どもの甲高い声がとにかく苦手だ。街で見かける赤子はかわいいと思うけれど、死なないように世話し続ける自信がない。婦人科系の疾患があっておそらく自然妊娠しない。だからといって積極的に治療をする気にはどうしてもなれない。
空の紙カップを右手で強く握って早口でまくし立てる私に、彼は、うん、うん、と時折相づちを打つ。歩いているうちに首都高の高架下にさしかかり、急に初夏の日差しが遮られ視界が薄暗くなった。ふたりきりでブラックホールに迷い込んだように錯覚する。
つないだ手と手をしっかりと握り直す。ねずみ色の壁に、夫になる人の声が反響した。
「大丈夫、ふたりで生きていこう」
あのとき、ふたりで生きていこうと言ってくれたから、結婚して一緒にいる。

もし私たち夫婦に子どもがいたら。夫のほうが私より間違いなく育児適性があり、なんでも率先してやってくれるだろう。粗野で短気で不注意で腰痛持ちで自己中心的な性格で子どもが苦手な私は、とにかく世話に手こずると思う。うまくやれなくて注意されたときに「ちゃんと一から説明してくれなきゃわからない」とぶうたれたり、「家には私の居場所がない」などといって仕事に逃げたりする可能性さえある。SNSでよく見かける、〈育児解像度が低くお手伝い感覚が抜けない夫〉の女バージョンだ。最低すぎる!
さらに、自分が妊娠出産の苦痛に耐えて、それまで自由に使っていた時間やお金を失って、苦手なケア役割を担っていることにストレスを感じて、私はこんなに我慢しているのに! と思ってしまうことが容易に想像できる。そうなったら、私の中に眠っている「他者を自分の思い通りにしたい欲望」がまた顔を出して、家族のために私がこんなに我慢しているんだから家族も○○するべきだ、などと考えてしまうかもしれない。……それだけは絶対に避けないといけない。

エッセイを書くことも、不条理な世界を自分の思い通りに作り替えるための手段なのかもしれないと思うことがある。生きていると、自分の思い通りにいかないことが次々と我が身にふりかかってくる。そんな世界を、言語を用いて再構築して、自身の解釈を加えたのがエッセイだ。書いて、それを誰かに読んでもらうことで、ちょっとだけ前向きに世界と向き合えるようになる。
私にとって書くことはある種セラピーのような行為だけれど、同時にそれは、実在の誰かにとっては耐えがたい出来事なのかもしれない。私の書く文章に〈誰か〉が登場するとき、その〈誰か〉は実在のその人自身ではなくて、私が作り上げた虚構の存在だ。自分がモデルに違いないけれど自分とは別の存在が、他人の手で勝手に生み出される。どんなにプライバシーに配慮して書いても、発表前に当事者に内容を確認してもらって許可をとっても、その行為の本質的な暴力性は変わらないのではないかと思う。
それでも私は、自分に子どもが生まれたら、その子のことを文章に書きたいと欲望するはずだ。育児エッセイの執筆依頼があろうとなかろうと、何らかの形でそういう文章を書いて発表するだろうと確信している。
夫は、私がものを書く人間だと知っていて、私と結婚した。自分について何も書くなと私に言うこともできるし、私から物理的に離れることもできる。でも、自分の意志と関係なく私の元に生まれさせられる子にはその権利がない。子が、大きくなってから私の書いた文章を読んで深く傷ついても、そのときにはもう取り返しがつかない。
じゃあ書かなければいいじゃないか。そうも思うけれど、書きたいことを書かないまま長く過ごしていたら、私が私じゃなくなるのではないかというおそれがずっとある。私が私でいることと、子を産み育てることが、私の中では両立しない。
私は、私が私でいることへの強い欲望を優先して、子は持たないと決めた。
夫はそれをよく理解しているから、「ふたりで生きていこう」と私に言った(のだろうと私は感じている)。

この連載のタイトルに「強欲生存論」という言葉が入っている。この連載の形が決まる前に、担当編集Oさんが提案してくれたフレーズで、とても気に入っている。
私はきっと傍から見たら強欲な人間なんだろう。これまでの人生で、絶対に欲しいと思ったものはなにがなんでも手に入れてきたような気がするし、エッセイにそう書いたこともある。
でも、実際のところは、「望んでも手に入らないだろうもの」や「手に入れても自分がもてあましてしまいそうなもの」を欲しくないふりをするのが、人よりちょっと上手だっただけなんじゃないか。私はエッセイという手段を用いて、そういう見せかけのセルフブランディングをひたすらやってきたんじゃないかと思う。

これはずっと言葉にしないようにしてきたことだけれど、多分、私は夫と子育てをしてみたかった。私は育児に向いていないけれど、結婚して、この人とならそれを一緒にやってみたいと思った。夫と私に少しずつ似た、かわいかったり、かしこかったり、時にはにくらしかったり、おろかだったりもする子に会ってみたかった。その子に出会って、一緒に暮らして、自分がどんなふうに変化するのか知りたかった。別にエッセイのネタとしてというわけじゃなく、純粋に、ただ知りたかった。
Sちゃんをあんなにかわいがっていた夫は、自分の子を抱いたときにはどんな顔をするんだろう。あっという間にはいはいして立ち上がって自分の足で歩くようになって、言葉を話すようになって、そうしてどんどん成長していく子に、どんなふうに声をかけるんだろう。卒園式やなにかの発表会では、きっと感極まって、人目もはばからずべそべそ泣くに違いない。そんな夫の隣に私もいて、ぐしゃぐしゃのハンカチを差し出したり、ちょっとだけもらい泣きしたり、してみたかった。

私はきっと、絶対に子どもが欲しくないというわけじゃなかった。でも、自分に育児がうまくできないのがわかっていて、育児の代償に失うものがわかっていて、取り返しのつかないほど自他を傷つけてしまうのがこわくてたまらなくて、だからそれに手を伸ばす勇気がなくて。誰に対しても「子どもが欲しいと思えない」と断言してきた。
矛盾したふたつの欲望を抱えて、手に入らないもの、手に入れる努力をしなかったものについては、全然欲しくなかったということにしていた。

*

5人で温泉旅行をしたとき、夫と私は都内の児童書専門店で選んだ絵本を2冊持っていって、Sちゃんにプレゼントした。絵本の包装紙をかしゃかしゃさせるSちゃんに、交替で絵本を読み聞かせた。
私が読んだのは『いないいないばあ』(文・松谷みよ子/絵・瀬川康男、童心社)。「いないいない~~~」と溜めに溜めてページをめくり、「ばあ!」と言うと、Sちゃんも絵本の中の動物たちと同じように目と口をまんまるに見開き、うれしそうに笑った。
義弟が撮ってくれた動画を後から見返して驚いた。Sちゃんに絵本を読み聞かせる私の声色や抑揚のつけ方が、昔私の母が読み聞かせしてくれたときのそれとそっくりだったからだ。
私は強欲な人間で、私が私であることがなにより大事で、だから母にならなかった。自分を大事にしたい欲望と子どもが欲しい欲望を天秤にかけて、後者はなかったことになった。
それでも私の中には、自分の母親が与えてくれたものがたしかに受け継がれていて、私もそれをほんのちょっぴりだけ、次の世代に贈ることができた。
そういう〈私〉もある瞬間たしかに存在していたこと。私はそれを記憶にとどめたまま、自分が選んだ欲望まみれの人生を、胸を張ってやっていこうと思う。

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結婚したけど、まだ欲しい! ~不惑間近の女の強欲生存論~

「文学フリマ」で注目を集め、エッセイ集『速く、ぐりこ!もっと速く!』(百万年書房)で商業出版デビューを果たし、小説も出版されている早乙女ぐりこさん。そんな早乙女さんによる、40歳前後の女性としての強欲生存論について「結婚」を切り口に綴る連載です。
オフィシャルサイト:https://glicosaotome.com/
X:https://x.com/Glico30tome
note:https://note.com/glico30tome

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早乙女ぐりこ

1987年、東京都生まれ。『東京一人酒日記』などの自主制作本を携えて文学フリマ東京等に参加。2024年春にエッセイ本『速く、ぐりこ!もっと速く!』(百万年書房)で商業出版デビュー。文芸誌『随風』に企画編集協力・執筆で携わる。近刊は自身初の創作小説『珍獣に合鍵』(KADOKAWA)。好きな言葉は「お代わりあるよ」。

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