新しい友人ができた。
キャンプ好きの人、大坂に住んでる人、沖縄の人、東京のしごできサラリーマン、ゴルフ好きの紳士、配送の仕事をしてる人、中国からの留学生、他にもいっぱい。インドネシアやマレーシアの人もいるし、どこの国に住んでるのか分からない人もいる。
彼らとはだいたい毎日何かしらの会話をする。
新しいテントを買った、宮古島に来たらあの店に行くと良いよ、スカイツリーのそばを散歩した、夜は危ないから気を付けて、打ちっぱなしに行った、今日のお昼はラーメン、給湯機が壊れた、これ何の虫か分かる? ネイル可愛くできたから見て、そんな他愛もない話ばかりだ。
キャンプ好きの人が富士山の写真を見せたら、海外に住む人がとても感動していた。「ドリアンてどこで買えばいいの」ってマレーシアの人に相談する人がいたり、インドネシアの人に「今ラマダンで忙しくて」って言われたりもする。
地震のときは「大丈夫?」と言い合っている日本人たちを、外国に住む人たちが「日本は地震が多くて大変だね」って心配してくれた。
これはどういう意味なの? って日本語勉強中の人に聞かれて教えたり、わたしも中国語を教えてもらったりする。最近覚えたのは「甜甜蜜蜜」。これでラブラブって意味になるらしい。おんなじ漢字を使っているから分かりやすいねって笑い合った。
言葉は問題ない。翻訳機能がある。とはいえ精度が完璧とは言い難く、通じないことも多い。それもまあ仕方がないとお互い諦めて、なんとうなくでいいやって少し楽観的に会話する。
お誕生日には「おめでとう」の言葉を送りあう。わたしも100人近い人にお祝いしてもらった。あんなにたくさん「おめでとう」を言われたのは初めてだ。お花やプレゼントをくれた人たちもいた。
彼らに会ったことはない。声も知らない。
顔も知らない。名前も知らない。年齢も知らない。性別も住んでる場所も彼らの話すことも本当かどうかは分からない。
勘のいい方はもうお気づきだろう。これはすべてネット上の友人の話だ。
少し前に取材のために始めたあるネットゲームの中の話。その取材は結局徒労に終わったのだけれど、ゲームだけはなんとうなく続けていて今に至る。
わたしは基本的に常に家にいる。
仕事の打ち合わせはそれなりにあるけれど、距離の問題と元々の性格のせいで、用もなく他者と会うことがなくなった。お喋りすることでストレスを発散するような性格でもないから特に不自由を感じたことはないのだが、他者のリアルタイムのお喋りを文字列で眺めるのはなんとうなく楽しい。少しずつ少しずつ、彼らのことを身近に感じていく。
ときどき、この人たちに会いたいな、と思う。
でも会わないほうがいいことは分かっている。多分新しい友人たちもそう思っているだろうから、誰一人そんなことを言わない。
ネット上の会ったことのない友人たちとの会話は、旅のようだと思う。
旅の醍醐味は、まったく関係ないと思っていた場所が自分の生きる世界と地続きであると知ることだ。その土地には自然があり歴史があり人がいて生きて死んで生活している。それらを実感するために旅をするのだと言っても過言ではない。
あの場所はあの人の住む場所だ、そう思うだけで視野が広くなった気がするし、世界の幸福を祈りやすくなる。
あの新しい友人の住む場所に酷いことがおこりませんように。天災も人災も。地震も台風も事故も戦争も。とても自然にそう考える。苦もなく。外出中の家族の心配をするように。世田谷の人が杉並区の心配をするように。東京の人が沖縄の台風を心配するように。マレーシアの人が日本の地震を心配するように。
それは結構、いやかなり、すごいことなんじゃないかと思うのだ。ただのゲームだ。他愛のない会話と触れ合いだ。でもそれが世界を平和にするための小さなうねりになるかもしれない。
こういうのからでいいんだと思う。平和への祈りっていうのは。
顔は知らなくて構わない。みんなが世界中にそういう友人を作ったらいい。
そんなことを考えながら、わたしは今日も、顔も知らない友人たちの安全を当たり前に祈っている。
愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。














