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それが、人間

2026.04.07 公開 ポスト

令和のウェルビーイング圧

幸せか幸せじゃないかは、自分が決める――「幸せそうでよかった」に潜む暴力インベカヲリ★(写真家、ノンフィクション作家)

令和のウェルビーイング圧

10代のころ、電車のアナウンスで「この電車は、後からまいります快速電車に追い抜かれます」と聞かされるたびに、ひどく傷ついていた。まるで自分の人生を言われているようだったからだ。
要領のいい人間が楽しそうに生きている横で、歯ぎしりしていた私には、非常にトゲのある言葉に聞こえたのである。

一見、何でもない言葉に引っ掛かりを感じるということは、誰にでもある。
先日、私の個展に遊びに来てくれたマル子さん(仮名)もそうだった。

「3人以上の集まりの場で、『私、食べるのが大好きなんですよね』って言う人がいるけど、あれ、なんですか?」
私の前に座ると、マル子さんは強い口調で言うのだった。
彼女はダンスなどの表現活動をしており、見た目はスラリとして華がある。ちょうどさっき蕎麦を食べてきたところで、本当はカレーを食べたかったけど、行列ができていたから止めて、近くの蕎麦屋で適当に済ませたらしい。マル子さんにとって、食事とはそういうものだ。
「人間はみんな食べるんだから、わざわざ言わなくていいですよね。なのにわざわざ言う人って、なんかザラつきがあるんですよ。だいたい言うのは女性で、『幸せそうでよかった』も言いそうな人なんです」
ほう。
マル子さんは、「幸せそうでよかった」と言ってくる人が苦手だという。ポイントは「幸せそう」だけで終わらず、「よかった」まで言うところだ。
確かにそこには、相手に対する「しくじりそう」という前提イメージがあり、その上で勝手に安心されるという、よくよく考えると、そこはかとない嫌味が漂わなくもない台詞だ。
「幸せか幸せじゃないかを決めるのは、当事者である私じゃないですか。幸せそうに見えて、幸せじゃないことだってザラにある。そんなに簡単に言っちゃう? って思う」
だが、世の中にはこの言葉を言う人がなんと多いことか。もしかしたら私も、人生で一度や二度は言ったことがあるかもしれない。いや、たぶん言ってる。

私がポリポリ頭を掻いていると、マル子さんは「私、食べるのが大好きなんですよね」に話を戻した。
「いっぱい食べる人を見ていると、わざわざアピールしていないんですよ。『みんなも食べる?』とか気を遣ったりしないで、ひとりでどんどん食べる。そういう姿は勇気づけられる。でも、『私、食べるのが大好きなんですよね』って言う人は、実際のところ本当に食べてるのかわからない。『運動したいと思ってるんだよね』って言う人と一緒。今はまだやってないけど、みたいな」
なるほど。言葉に出すことで、食わずして「元気」「健康」「充実」といったポジティブイメージを得ようとしているのか。それは、確かにあざとい。
「実際がどうのこうのじゃなくて、不純物が混ざってくる感じがある。いっぱい食べる人だと主張することで、まともそうだと思われたいのかな?」

では、なぜそうまでして、人は「まとも」だと思われたいのか。問題はそこだ。
マル子さんがザラつきを感じる言葉は、いずれも「元気」にまつわるものだ。
「幸せそうでよかった」は、他者に対する元気のジャッジ。対する「私、食べるのが大好きなんですよね」は、自身の元気アピールである。
本当に元気なら、わざわざ言葉にする必要もない。そこをあえて口にするから、うさん臭さが漂い、実態が伴っていないように感じるのだろう。

ひょっとするとこれは、現代にはびこるウェルビーイング圧が関係しているのではないか。私にはそう思えた。
ウェルビーイングとは、心や体や人間関係など、あらゆる面において「よい状態」を指す概念だ。
私の通っているピラティススタジオでも、ここ数年、盛んに「ウェルビーイング」という言葉がインストラクターから連発されるようになった。体幹を鍛えるエクササイズなのに、いつの間にか目的がウェルビーイングへとすり替わりはじめたのだ。
昭和・平成までは、収入や社会的地位といったステータスがすべてだったが、現代の幸福は、より本質的なものへとシフトしているのである。

このウェルビーイングと呼応するように、2025年の法改正で、これまで努力義務だった社員50人未満の企業にも、ストレスチェックの義務化が決まった。高ストレスと判定された社員は、医師との面談が設けられ、ストレス軽減を促されるという。
もはや、ストレスを抱えたモーレツ社員は「労災リスク」でしかないのだ。

「幸せそうでよかった」も、「私、食べるのが大好きなんですよね」も、その延長線上にあると考えると合点がいく。
労災リスクとみなされないよう、みな必死になって、健康で安定していて問題のない自分をアピールし、励ましあっているのだ。実際がどうであるかにかかわらず。
なんてこった! それではまるで、ウェルビーイングハラスメントではないか。

だが実際のところ、何をすれば心が安定するのか、自分でもわかっていない人が大半だろう。だからこうして右往左往しているのではないか。
その迷走っぷりを象徴するように、今年3月には、福岡県で飲食店経営の男(32歳)が、知人女性が住むアパートに侵入し、雑種の猫一匹を盗んだとして逮捕された。

彼には、猫との暮らしがたいそう幸福に見えたのだろう。事実、人間は、猫といるとオキシトシンが分泌され、幸福度が上がるという研究結果があるという。
だからといって、他人の猫を盗んで「幸せな暮らし」が手に入るわけではなかろう。犯人の男は、この読み間違いに気づいているのだろうか。

実態ではなく、「そう見られること」に重きを置くようになったとき、人は本質を見失う。安易なウェルビーイングの追及は、健康に害を及ぼすので注意が必要だ。
 

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それが、人間

写真家・ノンフィクション作家のインベカヲリ★さんの新連載『それが、人間』がスタートします。大小様々なニュースや身近な出来事、現象から、「なぜ」を考察。

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インベカヲリ★ 写真家、ノンフィクション作家

写真集『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間』。著書『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』『私の顔は誰も知らない』『伴走者は落ち着けない』『未整理な人類』など。

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