満員電車で無理矢理乗ってぎゅうぎゅうになる事があると思う。
もしかすると東京しか無いのかもしれないが。
東京だと、通勤ラッシュはもちろん、11時20分台のよく分からない時間の電車とかに乗っていてもぎゅうぎゅうになる事が多々ある。
僕はそんなに長い時間乗ってないのと乗り始める駅の関係もあるのだろうが、ぎゅうぎゅうになる時にぎゅうぎゅう側に立っている事が多い。
そう、ぎゅうぎゅう側。
僕は最近気付いた。「ぎゅうぎゅうじゃない側」が存在するのだ。
満員電車というと全てぎゅうぎゅう、乗れる人数のぎりぎりまで乗っている。
と思うだろうが、違う。
ぎゅうぎゅうなのはぎゅうぎゅう側だけであり、ぎゅうぎゅうじゃない側はそんなにぎゅうぎゅうじゃない。
次に満員電車でぎゅうぎゅう側になったら、周りをよく見てほしい。
扉から遠くの、座ってる人達の前に立ってる人達を。
全然ぎゅうぎゅうじゃない。体と体がくっ付いてない。
まぁまぁ涼しい顔をしている。
では、何故か。
誰かが止めているのだ。
このぎゅうぎゅうを。
ぎゅうぎゅう側とぎゅうぎゅうじゃない側の間に、
止めている奴がいる。
ここでは「ミスターX」としよう。
そのミスターXが、ぎゅうぎゅうがぎゅうぎゅうじゃない側に蔓延しないように踏ん張っている。
そのおかげでぎゅうぎゅうじゃない側の人達はぎゅうぎゅうじゃないという平穏な場所で電車に揺られる事が出来ている。
ただ、そのせいで、ぎゅうぎゅう側の人達は隣同士の圧力に体を預けるしか無く、吊革さえも握れない。揺れる事すら出来ないのだ。
そして、さらなる被害者は電車に乗れない人達である。
ミスターXがせき止めなければ、あと5人くらい、いや、もっと乗れるはずだ。
その人達は次の電車を待つしかなく、そして次の電車に乗れてもぎゅうぎゅうを免れない。
ミスターXは自分だって過酷なはずだ。流れに身を任せる方が楽で、自分のおかげでぎゅうぎゅうじゃない人は生まれているが、自分はそれを止める事により、おそらくぎゅうぎゅうよりも肉体的には辛い思いをしているに違いない。
ミスターXの明確な動機は分からない。
ただ僕の憶測だと、
ミスターXはサイコパスで、
柔道かレスリングか相撲の経験者の可能性が、
高いだろう。
僕も考えた。
このぎゅうぎゅうの堰き止めをやめさせるにはどうすれば良いか。
『すみません、ぎゅうぎゅうを止めるのは良くないですよ』
これを言ってしまうと、やはりリスクは免れない。
相手は格闘技経験者のサイコパスである。
想像してみてほしい。
サイコパスというのは、ガリガリで刃物を持っていて、いわばそれほどケンカが強い訳ではなく、むしろ刃物に頼った攻撃をしてくる事が多い筈だ。
刃物さえ取り上げれば、勝機はある。
今回はそうはいかない。
素手のサイコパスである。
素手のサイコパスは厄介だ。
ここで気がついた。
この絶望感。
皆さん、この絶望感を味わった事は何度もある筈だ。
少年漫画で圧倒的な敵が出てきた時の絶望感である。
あのボス達は、素手のサイコパスだった。
ピッコロ、ベジータ、フリーザ、セル、魔人ブウ、みんな素手である。
ラオウやディオ、範馬勇次郎。
ジャイアンも、海原雄山も素手のサイコパスである。
つまり、素手のサイコパスを倒す事は並大抵の事ではない。
僕はこのようなボス達を倒せるような、主人公の器ではない。
素手のサイコパス、ミスターXを倒してくれる勇者が現れるのを、待つ側の人間である。
少年漫画の主人公さながらに鍛錬に励み、
時には挫折し、
それをまた乗り換え、
愛する者を奪われ、
涙し、
やがて涙も枯れ、
激戦の果てに遂にミスターXを倒し、
ぎゅうぎゅうをぎゅうぎゅうじゃない側に解き放ち、
世界を狂喜と感動の渦に巻き込むのは、
あなたかもしれない。
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クロスロード凡説

「ネタにはしてこなかった。でも、なぜか心に引っかかっていた。」
そんな出来事を、リアルとフィクションの間で、書き起こす。
始まりはリアル、着地はフィクションの新感覚エッセイ。
“日常のひっかかり”から、縦横無尽にフィクションがクロスしていく。
「コント」や「漫才」では収まらない深掘りと、妄想・言い訳・勝手な解釈が加わった「凡」説は、二転三転の末、伝説のストーリーへ……!?










