赤ちゃんは、世界をどのように見ているのでしょうか。
天井や窓の光をじっと見つめていたり、大人には何でもない模様を、夢中になって見ていたり……。
赤ちゃんの目には、私たちとは少し違う世界が広がっているのかもしれません。実は、赤ちゃんの「見る力」の発達は、ただ視力が良くなるというだけではなく、人がどのように世界を理解し、誰かと気持ちを通わせていくのか——
そのはじまりとも深く関わっています。
この連載では、視覚発達研究の第一人者である中央大学教授・山口真美先生とともに、赤ちゃんの「見る」を手がかりに、人が人とつながっていくしくみを紐解いていきます。
第1回は、その入り口となる「赤ちゃん研究室」で行われている不思議な実験のお話から始めていきます。
* * *
生まれたばかりの赤ちゃんの目は、どれくらい見えていると思いますか。
視力でいうと、0.03程度です。
生まれてから急速に発達し、生後半年までに0.2ほどになります。対象物に近づくとピントが合う大人の近眼と異なり、赤ちゃんの目は、近づいても遠ざかっても、ぼけの程度は変わりません。そのため、大人と比べてコントラストをはっきりさせないと見えにくい、という特徴があります。そして、赤ちゃんの視力(見え方)の問題は、目そのものではなく、脳の未成熟によるものなのです。
誰もが赤ちゃん時代を過ごしていますが、当時のことは誰も覚えていません。生まれたばかりの赤ちゃんの目には、大人の目では見えない、ピュアな世界が広がっていることでしょう。フレッシュな目と脳で、どんな世界を見ているのか——それは科学界でも大きな謎のひとつです。
私たちの研究室では、そんな赤ちゃんの不思議な世界を調べてきました。そして、その謎解きの一つひとつを、赤ちゃん向けの絵本づくりへとつなげてきたのです。
その昔、生まれたばかりの新生児は「目が見えず、耳も聞こえない」と信じられていました。しかし、胎内に声を届ける胎教グッズが販売される現代では、胎児の頃から五感が発達していることは、広く知られています。
振動によって音が胎内に届くように、母親が食べた食事の影響は、味覚や嗅覚として胎内に伝えられます。ただし、光によって伝わる視覚だけは、真っ暗な胎内には届きにくいのです。
赤ちゃん向けの絵本では、「赤ちゃんに見えること」が何よりも大切です。赤ちゃんの視力に合わせ、コントラストをはっきりさせ、赤ちゃんの目に“見える”ように設計することが基本中の基本です。
私はこれまで、「見える絵本を与えてください。赤ちゃんに見えない絵本を無理に見せ続けていると、本嫌いになってしまいます」と訴えてきました。
「赤ちゃんに何が見えているかなんて、わかるはずがない」と思う方もいるかもしれません。しかし、実際はそんなことはありません。赤ちゃんは、「好き」「嫌い」をしっかりと伝えています。
ここからは、赤ちゃんの小さな声に耳を傾ける「赤ちゃん実験」のからくりについて、少しお話ししていきましょう。
魔法使いのように見えるかもしれませんが、赤ちゃん実験の謎解きは、すべて実験室で行われています。私の研究室には、毎日、家族に連れられた赤ちゃんがやってきます。
この30年間、研究員や大学院生とともに赤ちゃんを迎え、コンピュータモニターの前に座ってもらい、さまざまな映像を見せてきました。実験のために、多種多様な映像を作り出してきたのです。
対象は、生まれた直後から生後8か月くらいまで。言葉も通じず、歩くこともできない相手ですが、ほんの数分の実験で、さまざまな能力を知ることができるのです。
この研究のはじまりは、1960年代のアメリカの心理学者・ファンツです。ファンツは、赤ちゃんの「選好」に着目しました。赤ちゃんが何を見ているかに注目した実験手法を考案し、赤ちゃん世界解明への糸口を開いたのです。
さて、赤ちゃんは、どんなものが好きなのでしょうか。
赤ちゃんは、好きなものに注目する性質があります。この性質を利用し、赤ちゃんの目の前に二つの映像を並べて見せ、どちらを好むかを調べる「選好注視法」という実験手法が確立されました。
生後46時間から生後6か月の赤ちゃんを対象とした実験から、赤ちゃんの好みのパターンも明らかになりました。図にあるような柄、同心円や縞模様、顔のような図形を、赤ちゃんは好むことがわかったのです。
実は、「選好注視法」は、赤ちゃん向けの視力検査にも使われています。先に述べた赤ちゃんの視力測定は、縞模様への好みを利用したものです。
グレーの背景に白黒の縞を見せ、どれくらい細かい縞まで赤ちゃんが好むかを調べることで、その限界を「その子の視力」として算定します。
私たちの研究室では、ファンツの流れをくむ実験に加え、視線計測装置や赤ちゃん用の脳活動計測など、さまざまな手法を用いて研究を行ってきました。世界各地の赤ちゃん研究者と、ときには協力し、ときには競い合いながら、赤ちゃんの見る世界を解明してきたのです。
天井や壁など、誰もいない場所をじっと見つめている赤ちゃんを見たことがある人もいるでしょう。幽霊でも見ているのでは、と思われることもあるようですが、赤ちゃんは光の移り変わりといった「感覚そのもの」を楽しんでいるのです。
それこそが、大人が忘れてしまった赤ちゃんの世界です。
大人は、この世の中が不変であることを前提に世界を見る「恒常性」を持っています。たとえば、高層ビルから見下ろした人や車を、小人やミニカーと見誤ることはありません。また、夕焼けの赤い光の下で見たリンゴやミカンを、違う色として認識することもありません。私たちは、照明や見る角度といった変化を無意識に無視し、世界を安定して捉えているのです。
私たちの赤ちゃん実験から、生後3か月未満の赤ちゃんは、この「恒常性」をまだ持たず、大人が気づかない変化に気づくことが示されています。照明と物体の変化に対する気づきを調べた実験では、生後3か月未満の赤ちゃんは照明の変化に気づきますが、生後7か月になると、大人と同じように照明の変化には気づかず、物体の変化に気づくようになります。
「恒常性」を持たない、いわば「前恒常性」の世界にいる赤ちゃんにとって、世界は対象の名前や言葉といった意味を持たない、純粋な感覚であふれています。
そして、生後3か月から7か月のわずかな期間のあいだに、この特別な見方は失われ、赤ちゃんの世界は劇的に変化していきます。
赤ちゃんの世界は、私たち大人が思っているよりも、ずっと豊かで、ずっと不思議に満ちています。その世界を少しだけ理解することが、赤ちゃんとのコミュニケーションの第一歩なのかもしれません。
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次回は、赤ちゃんの目に「色」はどのように映っているのか——
“白黒から始まる視覚の世界”についてお話しします。
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