「満席」――画面に浮かぶ無常な赤い二文字。私は何度ため息をついただろうか。いつの頃からか強くなった船旅への憧れ。一度でいいから大きな白い船に乗って国内の港をのんびりと巡ってみたい。デッキで海風に吹かれながら、次の停泊地が見えてくるのを心待ちにする時間のなんと贅沢なことか……などなどと妄想してはニヤニヤするのだけれど、人気のクルーズ船はいつも先客でいっぱい。予約サイトをのぞいても「確定」になる前に、その機会はいつも波のまにまに消えてしまう。いやでも、やっぱり……。それでもくすぶる船旅への想い。
そこでだ。「船に乗れないなら、いっそ桟橋の近くに」。ちょっと強引な理由で見つけたのが「インターコンチネンタル横浜Pier8」。三方を水に囲まれ、横浜・みなとみらいの新港埠頭に溶け込む海上立地のリゾートホテルだ。みなとみらい線、馬車道駅から徒歩10分。客船ターミナル「横浜ハンマーヘッド」内にあるホテルに一歩足を踏み入れると、そこは別世界。想像以上に「船」だった。二階フロントへ続くらせん階段は光と影のコントラストが美しい。乗ったことないけど、豪華客船ってきっとこんな感じだ。色ガラスが光を落とす波模様のカーペットの廊下を歩いていると、宿泊棟へと辿りつく。
宿泊棟に入ると、照明がいちだん淡くなる。選んだ部屋は「クラシックみなとみらいビュー」。気取らず、でもとても上質な木製のドアを開けると、まず釘付けになるのが白とキャメルのキャビネット。トランクケースを想わすデザインなのだ。革の質感や角を保護するパーツのあしらいがいちいち心憎い。こんなキャビネットが家にあったら! 革肌を撫でながら、部屋の中を見回すと、おおっ♡ベッドボードにも同じ意匠が。さらにベッドサイドに吊るされた丸みを帯びた照明。好みがすぎる。さらにさらに潜水艦の丸窓のような洗面台の鏡。もうここは「船室」! 初めて訪れる部屋なのに、すっと馴染めてやけに落ち着く。これから始まる「船旅」への期待もぐぐぐっと高まる。
さてと。ここから私の「船旅」が始まる。窓を少しだけ開ける。波音とともに海風がすーっと入ってきて、客室がデッキへと変わる。窓辺のソファに腰をおろすと、目の前には新みなと埠頭のシンボル、ハンマーヘッドクレーンがどっしりと構えている。関東大震災でも損傷しなかった日本発港湾荷役専用のこの電動クレーン。ものすごく正直に言うと、「歴史的価値があるのはわかる。でも、ただ海が見たいだけなのに。無骨な鉄の塊は邪魔なんだけど」と思った。最初は正面を避けななめ左から海だけを見ていた。でも、向き直って桟橋をはさんだところに停泊する豪華客船と共に眺めているうちに、だんだんと目が離せなくなってきた。半世紀以上にもわたって横浜港の守り神として荷を吊り上げてきた歴史が刻まれた鉄の腕と、今を謳歌する豪華客船。時代も目的もまるで違うふたつが同じ岸壁に収まっている。その密度の濃さたるや!
実は初日はあいにくの天気。どんよりとした分厚い曇が空を覆っていた。時おり雨もぽつぽつと降ってくる。海も空の色をそのまま映して鈍色に沈んでいた。それでも飽かず窓の下を眺めていた。桟橋には風にあおられながら、ビニール傘をさしながら、海を眺めに次々と人がやってくる。「海は青くなきゃ見る価値がない」。そんなあさはかなあたしの先入観を覆すように、ある人はゆっくりと歩き、ある人は桟橋の先でじっと水平線の先を見つめている。今はもう動かない古い無骨なハンマーヘッドクレーンと世界の海を巡る現役の巨大な船。そして桟橋に佇む人々のささやかな日常。それぞれ背景も、今そこに在る目的も、動いているリズムも何もかもが違う。それでも灰色の空の中、時おり雲間から射す光、波のきらめきがアクセントとなり、不思議なほど調和してこちらの視線の中に収まっていく。目に映る変化だけをそのまま受け取っていると、頭の中が空になっていく。ただそれだけのことなのだけれど、とても豊かな時間に思えてくる。うん? 今、桟橋を見ている人たちも同じ感覚なのかも。
窓の外を眺めているうちに、いつの間にか空のトーンが落ちてきた。小さな汽笛のようにお腹が鳴った。腰を上げ、客室と同じフロアにあるクラブラウンジへ向かうことにする。波模様のカーペットが敷かれた長い廊下を歩いていると、船の中を移動しているようでわくわくする。カードキーでクラブラウンジの中へ。広い空間を取り囲むような大きな窓。目前に広がるのは横浜港のパノラマと赤レンガ倉庫。ビュッフェで好みのつまみを皿に取り、席に落ち着く頃には、空の灰色が濃紺へと溶け込み始めていた。食事を愉しみながら、目を向けるたび、窓の外は刻々と表情を変えていく。港全体が闇に包まれ、赤レンガ倉庫にはオレンジ色の灯りがともる。気づくと、街の灯りが水面に長く伸びてゆらゆらと揺れている。横浜の夜を映し出す海は華やいでいる。
部屋に戻ってからは愉しみにしていたビューバスタイム。バスタブに身を沈めると、ラウンジで眺めていたのとはまた違う夜景が横たわっている。遠くに見える街の灯りが、蒸気で少し潤んだ視界にはより柔らかに感じられる。42℃の湯に肩までつかり、光の粒を見つめていると、意識だけがふわりと抜け出し、夜の海へと漂い出していくような心地よさがある。
ゆっくり目覚めた翌朝。身支度をしていると、どこか遠くで汽笛が鳴った。音を追うように窓辺にいく。昨日の灰色とはうってかわって空は淡い水色。海の色も明るく澄んでいる。かすかに窓を開けると、穏やかな潮風が入ってきた。桟橋にはベビーカーを押すママ友たちが集っていた。その左側には豪華客船、右側にはハンマーヘッドクレーン。昨日と同じ並びのはずなのに、空気がまるで違う。厳しさと穏やかさ。どちらがよいか――どちらも好きだ。海に当たりはずれはない。また遠くで汽笛が鳴る。どこへも移動していないのに、私だけの船旅を味わえた。不思議に心は満たされる。
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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。










