大学受験シーズンも終わり、春からの新生活に胸を躍らせる方も多い季節です。ふたりの女子大学生の連帯を描いた、真下みことさん『春はまた来る』は、ぜひこれから大学生になる方や、その親世代の方に読んでいただき、来る大学生活を健やかに過ごしていただきたいという願いも込められた一冊です。試し読みをお届けします。
* * *
(承前)
翌朝、いつものように実験のための長ズボンに着替え、順子は家を出た。その日の実験は電子回路についてのもので、回路図からコードを繋ぎ合わせたりして、解析自体は難しかったが、なんだか高校時代を思い出す内容だった。
実験が終わって学食に向かうと、なぜか倉持紗奈がまたいた。何もすることがなさそうだった昨日と違い、手書きのレポートらしきものに取り組んでいる。
「お疲れー」
宮田くんが当たり前のように声をかけてきたので、お疲れ、と順子はためらいがちに返した。周りの男子は、倉持紗奈の存在にどこかそわそわしているように見える。
順子は空いていた宮田くんの左隣に座り、彼の右隣にいる倉持紗奈には聞こえないくらいの音量で話しかける。
「えっと、その、倉持さんは、なんで」
「え?」
学食が混雑しているからか、順子の小声はあまり聞こえないらしい。少しだけボリュームを上げて、再度順子は話しかける。
「倉持紗奈さん、なんでいるの」
「紗奈?」
宮田くんが普通の音量で声を出したので、順子は慌てて、
「違くて」
などと意味不明なことを言ったが、時すでに遅し、だった。
「何、私の話?」
そう言って倉持紗奈が身を乗り出して、こちらを見ている。目がキラキラとしていて、頬はピンク色で、唇はつるりと潤っている。まるで漫画の主人公だなと思いながら、順子は意を決して聞いてみた。
「倉持さん、なんで今日もいるんですか」
「え、ちょっと待って倉持さん呼び? やば」
そう言って倉持紗奈はひとしきり声を出して笑い、順子の周辺の男子はその明るいムードに惚けているような感じだった。
「名字で呼ぶのと、あと敬語禁止ね? 紗奈って呼んで」
頬を膨らましてそう言った倉持紗奈、いや紗奈さんは、この学食内で圧倒的に可愛かった。
「えっとじゃあ、紗奈、さん」
「ねえ順子ちゃん、硬いって! わかった! 私も順子って呼ぶから、紗奈って呼んで! いい?」
何がわかったのかよくわからなかったが、紗奈さん、いや紗奈はいいことを思いついたとばかりにニコニコしている。
「じゃあ、はい、紗奈」
「よくできました」
紗奈はそう言ってとろけるような笑顔をこちらに向けてきたので、順子は自分が男子になったような気分になる。
「いや、そうじゃなくて、なんで今日、いるんですか? いや、いるの?」
ようやく聞きたいことを聞くと、紗奈はなるほどね、と頷いた。最初からずっと、聞いているのだが。
「私ここ、気に入ったの」
「ここが?」
昨日はださいと言っていたのに? とは聞けないまま、順子は妙な気持ちになった。順子たちがここを使っているのは便利だからであり、気に入っているからと言われると少し違和感がある。
「そう。なんか温かみっていうか、雰囲気がいいっていうか?」
「はあ」
納得できない気持ちで聞いていると、紗奈がそれに、と話を続けた。
「女子大ってさ、もちろん学内にもサークルはあるんだけど、別の大学のインカレサークルに入る子が多いのね。私もそうだし。だから授業終わると基本、みんなそれぞれの場所にかいさーんって感じなの」
「かいさーん……」
「ライムスマッシュの同期にもT女子大の子っていないし」
「そうなの?」
順子は真ん中で実験の事後レポートを進めている宮田くんに声をかける。
「うーん、多分そうだと思う。うちのサークルはいろんな女子大の子がいるから」
「同期に同じ大学の人がいないのって、心細くないですか?」
「うーん。でも先輩いるし、同期の男子はいっぱいいるし、って感じ? てかまた敬語になってる」
「あ、すみません」
「ごめん、でいいから」
「う、うん」
「話戻すけどさ、こうやってずっと一緒にいられるみんなが羨ましくて」
「ええ……?」
ずっと一緒、という言葉と自分の状況に、順子はピンと来なかった。
「だって朝から晩まで授業一緒で、授業終わってここ集まって、課題のわかんないとことか相談しあって、それが終わってからそれぞれサークルとかバイトとか行くんでしょ? めっちゃいいじゃん」
「まあ、便利は便利、だけど」
「だから私、来れるときはここに来ようと思って。二人だけの女子同士、仲良くしようね」
紗奈がそう言ってこちらに笑いかけたので、順子は曖昧に笑って目を逸らした。あの頃、教室で話しかけることすらできなかった順子に今の状況を見せたら、信じてもらえないだろう。
そんな話をしてから順子も実験の事後レポートを仕上げ、紗奈と宮田くん、村井くんはサークルがあるからと早めに抜けていった。
「じゃあね順子、また来るね」
後ろを通るときそう声をかけられて、順子は頷くことしかできなかった。もしかしたら高校生のときも、話しかけるきっかけさえあれば仲良くなれたのではないか、そんな幻想まで抱きそうになった。
周りの男子は紗奈が帰ってようやく息を吹き返した様子で、いつも通りの議論に花を咲かせていた。それまでは紗奈に話を聞かれているという緊張からか、口数が異様に少なくなっていた。こうして私たちの勉強会は、新たなメンバーを迎えたのだ。
倉持紗奈は週に二度ほど、うちの学食に来るようになった。最初こそ宮田くんの隣の席に座っていたが、次に来たときには当然のように順子の隣に座っていた。
「なんで隣……?」
理解が追いつかずに小声で呟くと、紗奈は耳がいいのかそれをしっかりと聞いていて、
「順子のことをもっと知りたいからだよ」
と言った。
これまで順子の近くにいた女友達は、中学高校でのお昼休みにひとりぼっちにならないようになんとなく集まった、言ってしまえば地味なメンバーだった。順子は地味だがオタクではない。けれど彼女たちはほとんどが何かしらのオタクだったので、語れるものを持ち合わせていないのは順子だけだった。彼女たちはお互いに自らの語れるものを通じてコミュニケーションを取るのが常で、順子はそれを大人しく聞くという形でそばにいさせてもらったのだ。
よく考えれば、大学でできた男友達にしても、勉強という語れるものを順子が持ち合わせているから、みんな仲良くしてくれているのだ。
しかし、紗奈は順子のことをもっと知りたいと言った。順子自身に興味を持っているのだ。そんなこと、これまで一度もなかったので、オタクではない女子のコミュニケーションとはこういったものなのだろうかと首を傾げた。
「私のことをもっと知りたい、というと?」
日本語を覚えたてのロボットのように辿々しく、順子は聞いた。紗奈はその様子がツボだったようで、ウケると何度も繰り返した。その言葉の響きに、高校時代のような見下すニュアンスは感じられなかった。
「だって高校でクラスも同じだったのに、一回も話した記憶ないんだもん。服も超地味だし髪型も適当だし、せっかく大学入ったのにどうして色々挑戦しないの? とか」
「いやあ」
奨学金をもらっていてそれどころではない、と言ったら、場が冷めるだろうか。
「そういうのにあんまり、興味なくて」
「メイクくらいはした方がいいと思うけど」
紗奈がくるくるのまつげを見せびらかすように瞬きをしたので、順子は負けじと言い返した。
「メイクする時間があったら勉強した方がいいと思いますけど」
「はい頭固いし敬語使ったので減点でーす」
「……何の減点」
「わかんない」
紗奈が真面目な顔でそう言ったので、順子は思わず笑っていた。すると紗奈もおかしそうに笑い、みんなが勉強しているテーブルで、紗奈と順子の笑い声だけが響いていた。
「じゃあ順子に合わせて勉強の話でもする? なんか宮田くんとかに聞いたけど、順子はあれでしょ、情報系? なんでしょ」
「うん、まあ」
「それって何すんの?」
「まあ、世の中が便利になるようなシステムを作ったり、仕組みで社会を変えるような感じ、らしい」
話しながら、実際のところ、順子も自分が専攻している情報システム工学というものが具体的に何を指しているのかはわからなかった。三年生になって研究室に入れば、自分の研究をすることになるから、そうしたらもっと的確に答えられるのかもしれない。
そんなことを考えていると顔に出ていたらしく、紗奈がおかしそうに笑う。
「何そんな難しい顔してんの」
「いや、勉強のことを伝えるのって、難しいなって」
「面接じゃないんだから、もっと気楽に話そうよ」
紗奈はそう言ってから、またおかしそうに笑う。
「じゃあ倉持さんは」
「紗奈、でしょ?」
「ああうん。紗奈は大学で何の勉強してるの?」
そう順子が言うと、村井くんがこちらを見て笑う。
「紗奈は勉強なんてしないっしょ」
「は? してるし」
村井くんにそう言ってから、紗奈は順子の方に向き直る。
「私は社会コミュニケーション学科ってとこ」
「社会、コミュニケーション」
「まあざっくばらんに言うとメディアとか社会学とか、そういう感じ」
「へえ」
ざっくばらんすぎてよくわからないとは、言い出せない雰囲気だった。それから紗奈は少し声のトーンを落として言った。
「あとうちの大学は副専攻っていうのがあって、私は女性学・ジェンダー副専攻っていうのも取ってる」
「ジェンダー……」
またしても、順子にはあまり馴染みのない言葉だった。
「まあ、男女平等、とか、フェミニズム、とか? なんとなくかっこいいから取ったんだけど、レポートとか結構だるめ」
そう言って紗奈が可愛い顔で笑うので、順子はそうなんだ、と言って自分の課題に戻った。周りの男子たちは、紗奈と順子の会話には興味を示していなかった。

またある日は紗奈が隣に座るなり、こんなクイズを出してきた。
「私は今日、いつもとどこか違います。さあどこでしょう?」
「ええ……?」
順子は心底困ってしまい、紗奈の全身を恐る恐る眺める。洋服は前回と違うが、それは
きっと当たり前なのだろう。順子は少ない洋服でやりくりしているので、同じ組み合わせ
の日があってもおかしくはないのだが。そうなると髪かメイクだが、その二つに関して順
子は特にわからない。髪は相変わらず明るい茶髪だし、メイクも綺麗に仕上げられている。
「ええっと、茶髪が明るい茶髪になった」
思い切ってそう回答すると、紗奈が目を丸く見開いて、それから大笑いした。
「明るい茶髪って何? めっちゃウケる」
「え、でもそれは明るい茶髪では」
「ミルクティーベージュって色なの。覚えといて?」
「ミルクティーベージュ……」
「ちなみに不正解でーす」
「はあ」
変わったのが髪色でないとすると、顔か。いや、それとも髪を切ったのか。
「髪を切った?」
「整える程度に定期的に切るけど、それは変化には入りませーん」
「うーん」
なんだろう、この理不尽なクイズは。しかし早いところ正解して、プログラミングの課題に取り組まないと。
「口紅?」
「ちがーう」
「ネイル?」
「ちがーう」
「鞄?」
「ちがーう」
「目?」
「広すぎー」
確かに最後は聞き方がアバウトすぎたかもしれない。そう考えていると、
「だけど、目っていうのは当たってるから教えてあげる」
「それはどうも」
「答えは、まつげパーマでした~」
「はあ」
「まつげに髪と同じようにパーマをあてるの。するとビューラーしなくても常にまつげがカールしてるから、マスカラを塗るのも楽なんだよね」
「へえ」
よくわからない単語がいくつかあったが、順子はそれを受け流してパソコンを開いた。
「え、ちょっと順子、冷たくない?」
「いや、わからなくて申し訳なかったです」
「ほらー、また敬語だから」
「減点?」
「わかってきたじゃん」
「まあ、それなりに」
そう答えて、順子は一年のときとは異なる言語のプログラミングを始めた。すると紗奈はタイピングが速いと横で褒めてくれて、悪い気分はしなかった。
紗奈は順子の隣にばかり座るようになり、男子そっちのけで色々な話をした。お互いの家の最寄り駅の話や、服装やメイクの話まで。男子たちは、牧瀬さんは髪の毛を染めない方がいいよ、だとか、派手な格好とかしないでほしいな、だとか、サークル入らなくていいよ、みたいなことを言ってきていたが、その真逆のことを言う紗奈は新鮮で、話していて楽しかった。
次に紗奈が来るのはいつなのだろうと、順子は楽しみに待つようにすらなった。












