街のありふれた食堂「食堂キング」を舞台に、中年女性・サチコのささやかな成長を描いた、群ようこさんの最新長編小説『サチコ』。その冒頭部分を、地方新聞連載時に添えられた、阪口笑子さんの温かい挿画とともに、お届けします。

「運ぶときに丼の中に指を突っ込むなんていうのは絶対だめだから、それには気をつけて、来てくれたお客さんに『いらっしゃいませ』、帰るお客さんに『ありがとうございました』、待たせちゃったら、『お待たせしました』がいえれば、問題ないから」
と店主がいった。
「でも、接客業の経験がないので、あまり自信はないんです」
「でもお勤めをしたことはあるんでしょ」
次はおかみさんである。
「学校を卒業して三十年以上勤めていました。早期退職してこの間までスーパーマーケットでアルバイトをしていたんですけれど。まあ、人間関係がいろいろとあって」
「ああ、なるほどね」
そう話しても、店主夫婦はサチコの履歴書に目を通そうとはしなかった。
「私は子どもの頃から、みんなから愛想がないといわれていまして……」
サチコが切り出すと、おかみさんはじっとサチコの顔を見た。
「そうなの? でも感じは悪くないから、気にしないでいいと思うわ。そりゃあ、愛想がいいほうがいいかもしれないけど、まあ最低限のことをやってくれれば、ねえ」
おかみさんが店主を見ると、
「愛嬌を振りまくほうは、この人がやるから大丈夫」
と彼は人差し指で、横の妻を突っつくようなそぶりを見せた。
「やあね、愛嬌を振りまくだなんて。愛嬌があるでいいの。何だかわざとやっているみたいじゃないの、ねえ」
急に同意を求められたサチコは、びっくりして精一杯の笑顔をしてみせたが、変にこわばっていたかもしれない。
「あなたがよければ、うちのほうは来て欲しいけれど、どうかしら」
おかみさんはまたじっとサチコの顔を見た。
「私でよければよろしくお願いいたします。さっきもいいましたけど、こういうお仕事ははじめてなので、うまくやれるかどうかわかりませんが」
「高校を途中でやめちゃった若い女の子も、ちゃんとやってくれていたから。そうそう、あの子、結婚して子どもができたらしいわよ。どうなることかと思っていたけどねえ」
妻はサチコの顔を見たり、隣の店主のほうを向いたりと、二人に交互に話しかけた。
サチコ

両親が残してくれた1DKのマンションで一人暮らし。内向きで、控えめで、読書さえしてれば幸せ。「褒められもせず、苦にもされず」が生きるモットー。そんなサチコが55歳で長年勤めた職場を早期退職し、自宅から徒歩3分の「食堂キング」でアルバイトを始めた。初めての接客が不安なサチコだったが、気のいい店主夫婦やユニークなお客さんたちに囲まれ、遅ればせながら人生の色々を学んでいく。けれど、店主の腰痛が長引いて、キング閉店の危機が……!? ときにじんわり、ときにほろ苦く、どこか滑稽で――。ささやかな人生の豊かさを味わえる長編小説。











