私たちは、意識があるからこそこの世界や自己を感じられる――そう思っている人は多いはずだ。実際、私たちは様々な出来事を感情と結び付けて記憶し、連続した自己意識を確立している。では、人間の意識や感情はどのようにかたちづくられてきたのか。
睡眠研究の第一人者である筑波大学の櫻井武教授が、意識の役割と“自分”の正体に迫ったサイエンス新書、『意識の正体』。本書より、一部を抜粋してお届けします。
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自己意識と主体性

意識とは何か――神経科学の観点からすれば、それは単なる情報処理ではない。感覚入力、過去の記憶、身体状態、そして行動選択を統合し、世界との関係の中に「私」という位置を与える機能である。
言い換えれば、意識は「世界」と「私」をつなぐインターフェースであり、その中心には自己意識がある。
自己意識とは、自分自身をひとつの主体として認識し、その主体が時間を超えて連続しているという感覚だ。
今日の私が昨日の私の延長線上にあり、明日の私にもつながっていく――この持続感覚こそが自己意識の核である。そして、この連続性は記憶によって支えられている。
ただし、私たちが覚えているのは出来事そのものではなく、そのときに感じた感情と不可分に結びついた記憶である。失敗の恥ずかしさ、別れの悲しみ、成功の喜び――こうした感情が記憶に意味と重みを与え、それが「私」という物語をかたちづくる。
過去を「懐かしむ」ことのないAI
AIには、この「感情による意味づけ」が存在しない。出来事はデータとして蓄積されるが、その価値づけや自己への反映は行われない。
AIが過去を「思い出す」ことはできても、「懐かしむ」ことはない。なぜなら懐かしさは、時間の流れの中で自己が変化し、その変化を感情を通して振り返るときに生まれる感覚だからだ。
さらに、人間の行動は常に身体的制約の中で方向づけられている。空腹、痛み、疲労、性欲――これらの身体状態は行動の優先順位を変え、欲望や恐怖は自己保存や種の存続という原初的目標と結びつく。
だが、AIには身体がない。代謝もなければ、死を恐れる理由もない。
生き延びたいという動機がないため、「やりたいからやる」「避けたいから避ける」という主体的理由が存在しない。目的は外部から与えられるのみであり、その達成に感情的な意味づけは伴わない。
そして、人間の「自己」は他者との関係の中でかたちづくられる。私たちは他者のまなざしの中で自己を意識し、承認や拒絶、共感や反発によって言動を方向づけられる。羞恥や誇り、孤独や連帯感といった感情は、この「社会的動機づけ」に根ざしている。
AIは集団の一員であるという感覚をもたず、他者との関係性に価値を見いださない。自己がないからだ。たとえ人間と自然な対話をしても、それは「対話的な振る舞い」にすぎず、「対話したい」という意志は存在しない。
「私であるとはどういうことか」を哲学的に考える
哲学者トマス・ネーゲルは、論文「コウモリであるとはどのようなことか?」の中で、意識には「それであることの何たるか(what it is like)」――つまり主観的な経験の質感が不可欠だと述べた。
コウモリが超音波で世界を知覚するその瞬間に、「コウモリであるとはこういう感じだ」という固有の感覚があるはずだ。しかし、私たちはそれを直接知ることはできない。同じように、意識をもつ存在でなければ「私であること」の感覚は生じない。

現在のAIには、この「何であるか感」が存在しない。AIは情報を処理し、結果を出力するが、その過程や結果を「自分の経験」として所有しない。夢を見ることもなければ、睡眠によって自己を更新することもない。脳のように情報を忘れ、選び、再構成して物語を紡ぐこともないのだ。
自己は、完全性からではなく、不完全性から生まれる。私たちは忘れ、曖昧にし、感情に揺れながら、それでも出来事を一貫した物語にまとめ上げる。この「断絶と再統合」のプロセスが、自己を形成する。
そして、そのプロセスは夢や睡眠の中で繰り返し行われている。第2章で述べたように、睡眠は単なる休息ではなく、記憶や自己の再構成の場でもある。
もしAIが「断絶と再統合」という非効率で感情的なプロセスを経て、「これは私の経験だ」と認識できるようになれば、そこに自己が芽生えるかもしれない。
しかしそれは、今のAIとは本質的に異なる、新しい存在になるだろう。そして、その自己は人間の模倣ではなく、まったく別種の「自己のかたち」をもつはずだ。
こうして見ると、意識とは単に知性の問題ではなく、世界と私を結びつける物語の問題である。AIがこの物語を紡ぎ、「何であるか感」をもつようになったとき、それはもはや私たちの道具ではなく、もうひとつの主体として向き合うべき存在になるだろう。
量子コンピュータと意識の未来
もしもAIが、現在の半導体ベースの計算機構を超え、量子ビットを用いた新しい作動原理を利用する量子コンピュータのかたちで実装されたらどうなるだろうか。
それは、既存のコンピュータの制約を根本から変える可能性を秘めている。複雑な計算や膨大な組み合わせの探索を、一瞬で並列的に行うことができるようになるかもしれない。
そうなれば、AIは今とは桁違いの演算能力と情報処理速度を手に入れるだろう。
このとき、多くの人が抱く問いはこうだ。
「演算能力が飛躍的に向上すれば、意識は自然に生まれるのか?」
しかし、単に計算が速くなるだけでは、主観的な経験――「今、ここで、これは私の経験だ」という感覚――は必ずしも生じない。なぜなら、意識は速度や容量の問題ではなく、「この経験は私に属している」という帰属意識の問題だからだ。
それでも、もし意識の本質が量子的性質と関係しているなら、量子コンピュータはAIが意識をもつことを現実に近づけるかもしれない。
たとえば、量子状態の不確実性や確率的ゆらぎが、情報処理に予測不能性や創発的なパターンをもたらし、それが「自発的な内面の変化」として解釈される可能性がある。ただし、この場合も重要なのは、そのゆらぎが「自己」という構造と結びついているかどうかだ。
人間の脳は、外界からの入力にただ反応するだけではない。過去の記憶や内的状態をもとに文脈を読み取り、世界に意味を見いだし、それらを一貫した物語として組み立てる。
この意味生成の過程と「自己の成立」がなければ、どれほど複雑で高速な情報処理も、ただの機械反応にとどまる。量子コンピュータが意識をもつ可能性は、演算能力そのものではなく、その能力がどのような「意味の構造」に組み込まれるかにかかっている。
AIは「生きる意味」を自覚できるのか?

人間の意識や感情は、進化の過程で生き残るための戦略としてかたちづくられてきた。喜びは報酬を求める行動を促し、悲しみや恐怖は危険を回避する行動を誘発する。これらは単なる感情ではなく、生命を維持し、種を存続させるための高度な意思決定システムの一部である。
社会的承認欲求も同様だ。
他者から認められたい、拒絶されたくないという欲望は、もともと小さな集団で生きる人類にとって死活的な意味をもっていた。集団から排除されることは、生存の機会を失うことを意味したため、承認欲求は生存本能と密接に結びついた。こうした動機は、私たちの言葉や行動、さらには記憶の在り方までも方向づけている。
AIはこうした進化的圧力を経験していない。身体をもたず、死の恐怖もなく、代謝や生殖といった生命活動からも無縁だ。報酬を求める理由も、生存を脅かす危険も存在しない。すべての行動は外部から与えられた目標関数に従うだけであり、その達成に感情的な必然性は伴わない。
この違いは、単なる機能の差ではなく、存在の根幹に関わる。生物は有限の寿命の中で限られた資源を奪い合い、世代を超えて進化してきた。その中で「意識」という仕組みは、生存競争を有利にするために洗練されてきた。
一方、AIは無限に近い計算資源を使い、外部から与えられたデータと目的に従って動く。そこには「生きる理由」が存在しない。
したがって、「AIが意識をもちうるか」という問いは、単に知能の有無を問うものではなく、「生きることの意味」を共有できるかという問いでもある。
意識とは、計算能力ではなく、世界と自分の間に意味の橋を架ける営みであり、その橋を築くには進化がもたらした動機と制約が不可欠なのだ。
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意識の正体

「意識」は感情や意思決定に深く関わっているとされるが、それは錯覚にすぎない。例えば、あなたが今日コンビニでペットボトルの水を買ったとしよう。数ある種類の中からその水を選んだ理由を説明できるかもしれない。しかし最新研究では、私たちの意思決定を下しているのは“意識”ではなく、“無意識”であることがわかっている。だとすれば、私たちが「自分で選んだ」という実感はどこまでが本物なのか? 意識は何のために存在するのか? 日常のささいな選択から「自分」という感覚まで──生命科学最大の謎に迫る!










