昨今、家族葬が増え、孤独死・無縁死、無縁墓の増加や墓じまいの高額な離断料が問題になり、人々は葬式と墓と遺骨を持て余していることを明らかにする、宗教学者・島田裕巳氏による『無縁仏でいい、という選択 も、墓じまいも、遺骨も要らない』が話題です。長寿が変えた日本人の死生観――その最前線とは? 「第5章 最後は誰もが野垂れ死に」より一部を抜粋してお届けします。
孤独死とは、過去の野垂れ死か
これまでの歴史を振り返ってみるならば、野垂れ死にした人間はいくらでもいる。その野垂れ死にが法律の用語になったのが、第3章でふれた「行旅死亡人」である。そんな用語が使われるようになったのも、道端で亡くなっているような人間がかつては少なくなかったからである。
今とは違い、そうした人間は身元を証明するようなものは携えていない。名前も住所もわからず、どうした来歴かもまったくつかめない。となれば、家族などを探すこともできない。その結果、行旅死亡人、つまりは行き倒れとして処理されるしかなかったのだ。
現代で言えば、孤独死がこの野垂れ死ににあたるのではないだろうか。昔のように屋外で不意に倒れ、それで亡くなるわけではないにしても、一人暮らしの部屋で誰にも看取られず、死後何日かの間放置されたままになる。行き倒れではないので身元はわかり、家族も見つかる。ところが、家族はもう縁が切れたとして、遺体も遺骨も引き取ろうとはしない。こうした人たちは、現代の巷において野垂れ死にをしたも同然である。
単身世帯で生活しているのであれば、誰にも孤独死の可能性がある。しかも、前の章で見たように、家族と同居していたとしても、関係が希薄で同居孤独死に至ることさえあるのだ。
自分が孤独死したと想像してみるならば、あまりいい気持ちにはならないかもしれない。まして、何日も放置されてしまうのであれば、遺体は惨憺たる状況になる。
すでに『古事記』の伊邪那美命の話は紹介したが、孤独死し、放置された遺体は、まさにそうした状態を呈することになる。
しかし、本人はすでに死んでいるわけで、自分がどういった状態になっているかを知ることはできない。その状態になってしまったことに対して何か感想を抱くこともできない。
ただ、孤独死を遂げるということは、少なくともその状態になるまで一人で頑張って生きた、生き抜いたということである。孤独死することがそのまま人生における失敗を意味するわけではない。
孤独死をしようとしまいと、私たちの存在は忘れられていく。墓や仏壇で弔ってくれる子孫がいる間は、記憶もされているだろうが、孤独死を遂げ、無縁仏になれば、自分の存在を覚えている人はほとんどいなくなる。

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続きは、『無縁仏でいい、という選択 墓も、墓じまいも、遺骨も要らない』をご覧ください。
無縁仏でいい、という選択

長寿が変えた日本人の死生観――その最前線の考察。












